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さきほどの男性スタッフが、すぐにお冷やとメニューを運んできてくれた。お冷やを一口飲んで落ち着くと、ここへ入る前の出来事がますます現実ではない気がしてくる。
あの天狗、幻覚のくせにやけに生々しくてキャラが強烈だった。おまけに、いろいろと変なことも言っていたな。
狐の匂い? とかなんとか。幻覚の言葉に意味なんかないだろうけど。
「少し落ち着かれましたか?」
一息ついていると、見計らったように男性スタッフが尋ねた。
「ここへ入っていらしたとき、ずいぶんと慌てたご様子で……まるで、なにかから逃げていらっしゃるようでしたから」
「えっ、ええと……」
見抜かれている。僕はしどろもどろになりながら、視線をめぐらせた。
「その、暗がりで誰かいたような気がしたんですが、僕の勘違いだったようで……お騒がせしてすみません」
「そうでしたか。何事もなくて良かったです」
男性スタッフがにこりと笑う。見れば見るほど、映画から抜け出て来たような美男子だ。こんな辺鄙な場所でウェイターなどしているのがもったいないと思うほどに。
田舎町のカフェというだけでも奇妙なのに、ここはさらに町外れの森の中である。
「あの、このお店はいつからあるんですか? 天星町に来たのは久しぶりだったので、ここにカフェがあるのを初めて知りました」
「開店したのはつい最近なので、ご存じなくても当然です。あまり人目につかない場所ですし、細々と営業していますので」
「そうだったんですか。……でも、いいお店ですね」
「ありがとうございます」
スタイルも姿勢も良く、恭しく礼をする姿がまた絵になる。彼を目当てに、この店へ通う女性客は大勢いそうだ。
山の中の飲食店に行列ができるというニュースを、聞いたことがある。SNSなどで瞬く間に情報が広がる今の時代、どこで店を開いてもさほど問題はないのかもしれない。むしろ、隠れ家的な雰囲気が売りになることもある。
黒い革表紙のメニューの表紙には、白抜き文字で店名が綴られていた。
『夜迷亭』――これは、なんと読むのだろう?
「店名は『よまいてい』と読みます」
僕の疑問を察したように男性スタッフが教えてくれた。
よまいてい――とは、変わった名前だ。けれど、今まさに迷子になっている僕にはしっくりとくる。
「世迷言を捩って、夜に迷っている方のためのカフェ、といったところでしょうか。この店の営業時間は、日暮れから明け方までとなっています」
「夜だけの営業なんですか? 変わってますね」
「ここへ来るお客様は夜型の方が多いので」
そうだとしても、夜だけのカフェで採算が取れるものだろうか。いくら隠れ家的な店が流行る風潮とはいえ、新規の客にとっては来店しにくい時間帯だ。
道楽でやってるとか、そんなところかな。
いずれにしても僕が心配することではないけれど。
「私は店主の白銀といいます。白に銀と書いて"白銀"です」
「白銀さん……綺麗な名前ですね」
「そうですか? ありがとうございます。以後、どうぞ御贔屓に」
白銀さんが薄く笑う。
名は体を表すとはいうけれど、この人にぴったりじゃないか。苗字なのかな。名前自体は日本人ぽい。
けれどよく見れば、彼の整った容姿は西洋系とも東洋系とも言い切れない国籍不明な雰囲気なのだ。というか、国籍以前に、どこか人間離れした魔性の美貌とでもいうべきか。
こんな人が世の中に存在するんだな。綺麗を通り越して神々しい。写真に撮ってスマホの待ち受けにしたら、なんかご利益ありそうな気が……。
「私の顔になにか?」
「あ、いえ、すみません!」
ついじっと見つめてしまい、僕は慌ててメニューに目を落とした。
ご利益ってなんだよ……イケメンに対する誉め言葉じゃないだろ。
さすがにカフェらしく、メニューはコーヒーや紅茶の種類が充実している。アルコールも置いてあるので、カフェ&バーといった感じだ。
僕はお酒は飲まないし、夜はカフェインを控えたい。ノンカフェインの飲み物もあるようだけど、名前を見てもどれがどういうものなのかさっぱりわからなかった。
「よろしければ、ハーブティーなどはいかがですか? 様々な種類が揃っていますので、お好みのブレンドもお作りしますよ」
白銀さんがそう提案してくれる。
「ハーブティーはあまり飲んだことがないので、よく知らないんです」
「でしたら、カモミールをメインにしたブレンドのハーブティーはいかがでしょう。カモミールはリラックス効果があるハーブなので、お休み前にお飲みになる方も多いです」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました」
メニューを返すと、白銀さんは軽く頭を下げてテーブルを離れた。
御贔屓にとは言われたが、またこの店に来るかはわからない。伊ノ森家からはそう遠くないが、正直、来ない可能性のほうが高いと思う。
僕はもともとカフェに興味はない。コーヒーもお茶もインスタントで十分だし、こういう小洒落た空間は場違いな気がして落ち着かないのだ。
改めて店内を見回すと、カウンター内に戻った白銀さんの他に、店内には三人いた。
二人は客で、どちらもカウンター席に静かに座っている。長い黒髪の女性と、短い髪を青く染めている男性。僕の席からはどちらも後ろ姿しか見えない。離れて座っているところを見ると、カップルではないらしい。
もう一人は白銀さんとともにカウンター内にいるのだけれど、これがどう見ても子供だった。
見た目は高校生、もしかすると中学生といった感じの男子で、長身の白銀さんの隣に並ぶと背もかなり低い。服装は白銀さんのような黒のベストにリボンタイ。明るい茶髪に可愛らしい顔立ちだけど、グラスを拭く手つきは手慣れている。
深夜営業の店で未成年が働いていいのか。どう考えても労働基準法に違反してるだろう。
白銀さんは二十代に見えるので、彼の子供にしては大きすぎる。どういう関係かはわからないが、なにか事情がありそうだ。
田舎町の森の奥にある夜だけ営業しているカフェ。国籍不明のイケメン店主、子供の従業員……この店はすべてがミステリアスである。
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