1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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 しばらくして、白銀さんが注文の品を運んできてくれた。 「お待たせしました。カモミールとリンデンフラワーをブレンドしたハーブティーです」 「ありがとうございます」  カモミールは知っているけど、リンデンフラワーは初めて聞いた。  白銀さんはテーブルにガラスのティーカップを置くと、僕の目の前でガラスのティーポットからお茶を注いだ。ポットの中では小さな草花が踊り、淡く透明な黄色のお茶が注ぎ口から流れ出す。  花のような、果物のような香りが、カップから立ち上る湯気とともに、ふわりと鼻先をかすめた。リラックス効果があるというのは本当らしく、その香りだけで既に癒されつつある。 「カモミールは好みが分かれる香りですが、リンデンフラワーとブレンドすることでまろやかになり、より甘さが加わります」 「ハーブティーは初めてですけど、こんなにいい香りなんですね」 「ええ、これは当店の自慢です。稀に、カモミールが薬品臭いと言われることがあるのですが、それはハーブを乾燥させすぎたり長期間保存したことが原因なのです。その点、うちのハーブは地元のハーブ園で収穫した新鮮なハーブを、生のまま使用していますから、癖のないハーブ本来の香りと甘味をお楽しみいただけます」  白銀さんは誇らしげにそう説明する。 「こちらを加えるとより飲みやすくなりますよ。これは、れんげの花から採られた少しコクのある蜂蜜です」  カップの横に、ガラス製のピッチャーをコトリと置いた。こちらも綺麗な黄金色の蜂蜜がたっぷりと入っている。 「どうぞごゆっくり」  優雅に一礼して、白銀さんはカウンター内へと戻っていった。  僕はガラスのカップを手に取ると、改めてそのお茶を眺める。  太陽の光を集めたような、美しい黄色。ひまわりのような、稲穂のような、大自然の実りの色だ。  カップを手に取り、口元へ運ぶ。花畑にいるようなやさしく甘い香りが、得体の知れない不安を溶かしていくようだった。  まずは何も入れずに味わってみようと、熱いお茶に口をつける。お茶そのものの味は強くはなく、林檎に似たほんのりとした甘味を感じるだけだ。白銀さんが言っていたように癖はなく、これだけでも悪くはないと思う。  カップをソーサーに戻し、今度は蜂蜜を入れてみた。  透き通った黄色のお茶の中に、黄金色の蜜がゆるやかに沈んでいく。銀色の華奢なティースプーンで静かにかき混ぜると、ふわりと蜂蜜の香りが立ち上った。  一口、飲んでみる。  美味しい!  ほのかな果実と花の香りに蜂蜜の甘さが加わり、さらに飲みやすくなった。  目を閉じると、ぬくぬくとした陽だまりで微睡んでいるような気分になる。店に流れるゆるやかなピアノの音色も、眠気を誘っているかのようだ。  テーブル横にあるレトロな窓枠の向こうは真っ暗で、ガラスにぼんやりと僕の姿が映っている。ぼんやりとそれを眺めているうちに、不思議と落ち着いた気持ちになった。  こんなに寛いだ気分になったのは、久しぶりだな。  三月に大学を卒業して四月に企業へ入社、五月に退職。そして実家からこの天星町に引っ越してと、この三ヶ月はずっと忙しなかった。  自分の居場所が定まらないと、心も定まらない。自分はどこにいるべきなのか、どこにいていいのかと、今もずっと迷っている。  その迷いが消えたわけではないけれど、ほんの一瞬だけ、そういう煩わしさを忘れられた。  ミステリアスな夜カフェという、非日常的な空間がそうさせたのか。これまでは、わざわざ店でお茶やコーヒーを飲むことに興味はなかったけれど、僕は確かに居心地の良さを感じている。  たまには、こういう場所も悪くない。  カフェというのは、こんな時間を提供する場所なのかもしれないと思った。 「いかがですか?」  気が付くと、白銀さんがテーブル横に立っている。いつの間に移動してきたのか、まったく気配を感じなかった。 「すごく美味しいです」 「お気に召したようでなによりです」  白銀さんが優美な笑みを浮かべる。洗練された物腰といい、浮世離れしていて、本当にどこかの貴族のようだ。 「お客様は少々お疲れのようにお見受けしましたから」 「お疲れ……?」  初対面の相手にもそんなふうに見えるのだろうか。自分では肉体的な疲れよりも、心の疲れのほうが深刻な気がする。 「どこか具合でもお悪いのですか?」 「いえ……ただ、ちょっとストレスで幻覚が見えるというか……」 「幻覚?」 「ああ、そんなに大袈裟なものじゃないんですけど! 幻覚というか、思い込みみたいなもので、本当にたいしたことはないので……」  白銀さんが驚いたように聞き返したので、僕は焦って言い訳した。  幻覚が見えるだなんて、驚くだろう。僕にとっては十分たいしたことだが、出会ったばかりの相手にこんな身の上話をしても困らせるだけだ。  黙って話を聞いていた白銀さんが、なにか思わせぶりな表情で微笑んだ。 「それは、本当に幻覚なのでしょうか」 「え?」  どういう意味かと問いかけたとき、チリリンと店のドアベルが鳴った。
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