91人が本棚に入れています
本棚に追加
「すみません!」
僕は思わず、その場で膝と手をついて頭を下げていた。
「ここがそういうお店とは知らず、うっかり立ち入ってしまったことをお許しください! 皆さんのお邪魔をするつもりはなかったんです! 僕は痩せていて肉付きが良くないですし、偏食気味なのでたぶん不味いです! 食べたら食当たりを起こすと思います!」
そうとは知らずにぼったくりバーに入ってしまった客の気分だ。妖怪に土下座が通用するかはわからないが、とりあえず謝っておくしかない。
人間相手でも格闘技や喧嘩などしたことがないのに、妖怪を相手にして勝てるはずはなく、ここから走って逃げ切る自信もない。望みがあるとすれば言葉が通じることだけだ。
必死に許しを乞う僕の頭の上で、くすくすと笑いを噛み殺す声が聞こえてきた。
「食当たりって……プッ……ハハハ……こいつ面白ぇ!」
「クク……やだもう、ホントに可愛い! 食べちゃいたい!」
笑っているのは黒羽さんと麗巳さんだ。彼らの妙に明るい笑い声と『食べちゃいたい』という一言に、僕は気が遠くなりかけた。
詰んだ……僕は今夜ここで死ぬのか?
享年二十二歳。死因、妖怪による捕食。
平凡すぎる人生の、最後の最後にとんでもないエピソードが加わるのか。
振り返ってみても、なにひとつ充実感がない人生だった。取り柄はないし、趣味もないし、友達はいない。未来にもそれほど夢も希望も持っていなかった。だけど――
それでも、ここで死ぬのは嫌だ!
「……死にたくない」
生きるか死ぬかという瀬戸際で、ぽろりと本音が零れ出る。
そんな僕の肩に、そっと誰かの手が掛けられた。
「頭を上げてください。君が謝る必要はありません。悪いのは、君をからかった黒羽です。彼のことは後でしっかり懲らしめておきます」
そう話すのは白銀さんだ。その後ろから「だから、冗談だって!」という黒羽さんの抗議の声が聞こえた。
「大丈夫です。君はまだあと六十年は死にませんよ。泣かないでください、恭也」
顔を上げると、白銀さんが目の前で膝をつき、笑っているような困っているような微妙な表情をしていた。泣かないでと言われて初めて、自分の顔が涙でべしょべしょになっていることに気がつく。
カウンターの中から出て来た少年が、白銀さんに近づいてなにか手渡した。
「主、これを」
「ありがとう風斗、。気が利きますね」
風斗と呼ばれた少年が持ってきた温かいお絞りを差し出され、僕は素直にそれで顔を拭く。
死なない? 食われずに済んだのか?
どうやら、思っていたより修羅場ではないようだが、これはこれでどういう状況なのかわからない。
そこで、ハタと気づいた。今さっき、白銀さんから名前を呼ばれなかっただろうか。
この店に入ってから、彼の名前は聞いたが、僕のほうは名乗っていない。それなのに、どうして名前を知られているのか。
「白銀さん、僕の名前を……」
疑問を口にしかけると、白銀さんは頷いた。
「その昔、私は君と会ったことがあります」
「どこで……ですか?」
「私の社、天星稲荷神社です」
白銀さんが僕の左腕を取り、さっき転んだときにつけた擦り傷にそっと触れた。そこがほんのりと温かくなかったと思ったら、傷はいつのまにか綺麗に消えている。
「あのときも、君はあやかしに追われて泣いていました」
まるで、それが合図だったかのように、記憶を覆っていた霧が晴れ、僕の中にそのイメージが流れ込んできた。
私の社、と彼は言った。
星の光を集めたような白銀さんの髪と瞳は、あのとき見たものだ。忘れられるはずのない鮮明な記憶だったのに、どうして今まで忘れていたのか。
「天星様……なんですか?」
「こうして会うのは久しぶりですね、恭也」
白銀さん、いや天星様の指が僕の両目を隠すようにそっと触れる。それが離れた瞬間、僕が見る世界は一変した。
☆
最初のコメントを投稿しよう!