1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「すみません!」  僕は思わず、その場で膝と手をついて頭を下げていた。 「ここがそういうお店とは知らず、うっかり立ち入ってしまったことをお許しください! 皆さんのお邪魔をするつもりはなかったんです! 僕は痩せていて肉付きが良くないですし、偏食気味なのでたぶん不味いです! 食べたら食当たりを起こすと思います!」  そうとは知らずにぼったくりバーに入ってしまった客の気分だ。妖怪に土下座が通用するかはわからないが、とりあえず謝っておくしかない。  人間相手でも格闘技や喧嘩などしたことがないのに、妖怪を相手にして勝てるはずはなく、ここから走って逃げ切る自信もない。望みがあるとすれば言葉が通じることだけだ。  必死に許しを乞う僕の頭の上で、くすくすと笑いを噛み殺す声が聞こえてきた。 「食当たりって……プッ……ハハハ……こいつ面白ぇ!」 「クク……やだもう、ホントに可愛い! 食べちゃいたい!」  笑っているのは黒羽さんと麗巳さんだ。彼らの妙に明るい笑い声と『食べちゃいたい』という一言に、僕は気が遠くなりかけた。  詰んだ……僕は今夜ここで死ぬのか?  享年二十二歳。死因、妖怪による捕食。  平凡すぎる人生の、最後の最後にとんでもないエピソードが加わるのか。  振り返ってみても、なにひとつ充実感がない人生だった。取り柄はないし、趣味もないし、友達はいない。未来にもそれほど夢も希望も持っていなかった。だけど――  それでも、ここで死ぬのは嫌だ! 「……死にたくない」  生きるか死ぬかという瀬戸際で、ぽろりと本音が零れ出る。  そんな僕の肩に、そっと誰かの手が掛けられた。 「頭を上げてください。君が謝る必要はありません。悪いのは、君をからかった黒羽です。彼のことは後でしっかり懲らしめておきます」  そう話すのは白銀さんだ。その後ろから「だから、冗談だって!」という黒羽さんの抗議の声が聞こえた。 「大丈夫です。君はまだあと六十年は死にませんよ。泣かないでください、恭也」  顔を上げると、白銀さんが目の前で膝をつき、笑っているような困っているような微妙な表情をしていた。泣かないでと言われて初めて、自分の顔が涙でべしょべしょになっていることに気がつく。  カウンターの中から出て来た少年が、白銀さんに近づいてなにか手渡した。 「(あるじ)、これを」 「ありがとう風斗(ふうと)、。気が利きますね」  風斗と呼ばれた少年が持ってきた温かいお絞りを差し出され、僕は素直にそれで顔を拭く。  死なない? 食われずに済んだのか?  どうやら、思っていたより修羅場ではないようだが、これはこれでどういう状況なのかわからない。  そこで、ハタと気づいた。今さっき、白銀さんから名前を呼ばれなかっただろうか。  この店に入ってから、彼の名前は聞いたが、僕のほうは名乗っていない。それなのに、どうして名前を知られているのか。 「白銀さん、僕の名前を……」  疑問を口にしかけると、白銀さんは頷いた。 「その昔、私は君と会ったことがあります」 「どこで……ですか?」 「私の社、天星稲荷神社です」  白銀さんが僕の左腕を取り、さっき転んだときにつけた擦り傷にそっと触れた。そこがほんのりと温かくなかったと思ったら、傷はいつのまにか綺麗に消えている。 「あのときも、君はあやかしに追われて泣いていました」  まるで、それが合図だったかのように、記憶を覆っていた霧が晴れ、僕の中にそのイメージが流れ込んできた。  私の社、と彼は言った。  星の光を集めたような白銀さんの髪と瞳は、あのとき見たものだ。忘れられるはずのない鮮明な記憶だったのに、どうして今まで忘れていたのか。 「天星様……なんですか?」 「こうして会うのは久しぶりですね、恭也」  白銀さん、いや天星様の指が僕の両目を隠すようにそっと触れる。それが離れた瞬間、僕が見る世界は一変した。                ☆
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