1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

15/22
前へ
/22ページ
次へ
 白銀さんの髪が長く伸び、服装はカフェ店主の黒い服装から白の狩衣へと変わっている。そして、その頭には大きな狐の耳が、背後にはふさふさとした尻尾が揺れていた。  たった今思い出したばかりの、記憶の中の天星様がそこにいる。  神々しい姿形も、艶やかな微笑もそのままに。  もう一度会いたいと願っていたあのときの神様に、ようやくまた出会えたのだ。その衝撃で、僕はたった今まで命の危険さえ感じていたことを忘れた。 「これが我々の真の姿。そして、本来あなたが見るべき世界の真実です」  そう言う天星様の後ろでは、黒羽さんは黒い翼を持つ天狗に、カウンター席に座っている麗巳さんはスカートから伸びた綺麗な足が真っ白な大蛇となっていて、太郎さんの肌は爬虫類とも両生類とも言い難い不思議な斑紋に覆われている。風斗くんに至っては完全に小さな狐だが、あり得ないことに二足歩行していた。  天星様が言う真実。  それはつまり、彼らが人ならざる異形のものであるということ。 「白銀さんが天星様……だったんですね」 「氏子からはそう呼ばれていますが、私はいくつも名前を持っていますので。ここでは白銀とお呼びください」  僕の目の前で天星様が一瞬にしてもとのイケメン店主、白銀さんに戻った。後ろにいるお仲間たちも同様に、人の姿に戻っている。妖術というのだろうか。まさに、狐につままれた気分だ。 「我々はあやかしと呼ばれる、人ならざる存在です。そして、君には我々の姿を見る力がある。さきほど、幻覚に悩まされていると言いましたね。それは君の力が元に戻ったということです」  白銀さんが言っている意味が、今はよくわかる。  僕には幼い頃、不思議な生き物が見えていた。怪物のような、妖怪のような、この数か月間悩まされていた、幻覚だと思っていたものたち。  それが、あやかしだ。  あやかしたちは様々な形をしていたが、昔から僕以外の誰にも見えていなかった。  中学一年の、僕が天星町に住んでいた頃のことだ。ある日、近所で小鬼のようなあやかしに追いかけられて、天星稲荷神社に逃げ込んだことがある。  そして、そこで天星稲荷神社の稲荷神、天星様に出会った。 「あの日、私は君のその力を封印しました。幼い君にとって、その力が負担になっていたからです。ですが、その封印は時間の経過とともに解けるものでした。あれから十年が経ち、君には本来のあやかしを見る力が戻ったようですね」  天星様が、僕に施してくれた力の封印。そのおかげで、僕はつい最近まであやかしを見ることはなく、その存在すら忘れて生きてきた。  自分を救ってくれた神様のことさえも、すっかり忘れて。 「あのときのことを、僕はずっと忘れていました。あやかしのことだけでなく、天星様に救われたことも。今の今までなにも思い出せなかった」  いくら子供でも、あまりに非礼ではないか。それ以上に、幼い自分にとって大切だったはずの記憶をすべて忘れていた自分に愕然とする。 「君が忘れていたのは、私が掛けた術のせいです。見える力を封印したせいで、あやかしのことも、私と会ったことも君はすべて忘れたのです。それでも君はあの翌日、私の社にお供えものを持ってきてくれました。あのときの稲荷寿司はとても美味でしたよ」 「稲荷寿司……」 「ええ、馨子さんの手作りです」  祖母は料理が得意で、稲荷寿司もレパートリーのひとつである。砂糖を入れて煮た油揚げの絶妙な甘さが、店で買ったものとはまるで違う。僕も子供の頃から大好物だ。  僕は幼い頃に、一人でお供え物を持って神社にお参りをしていたと祖母が言っていた。あれはたぶんこのことだ。  稲荷神だから稲荷寿司をお供えするというのも単純だけれど、子供の感覚でそうするべきだと僕は考えたのだろう。きっと、天星様と出会った記憶をなくしても、神様に対する感謝は心のどこかに残っていたのだと思う。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

91人が本棚に入れています
本棚に追加