1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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 朝になった。  歩き回ってずいぶん疲れていたし、家に帰ったのは真夜中だったのに、僕は目覚まし時計が鳴る前に目覚めた。  畳に敷いた布団の上でゆっくり体を起こす。昨夜の出来事を覚えていることを確認して、ほっとした。  天星稲荷神社のずっと奥にある、あやかしたちが出入りするカフェ『夜迷亭』。  そこの店主は、十年ぶりに会った稲荷神の天星様だった。店にいたのは天狗と白蛇と、河童? それから、稲荷神の眷属(けんぞく)らしき子狐。  夢としか思えない経験だけど、僕があの店に入ったことは現実だ。  洗面所で歯を磨きながら、僕はぼんやりと鏡を見つめた。  これまではあやかしが見えることに不安と恐怖を感じていたけれど、昨夜の出来事を経験した今はそれがずいぶん薄れている。  もちろん、異形の姿が見えることにまったく抵抗がないわけではないし、あやかしが自分以外の人には見えない状況は今後もなにかと面倒だろう。  けれど誰だって、自分の見ている世界が他人と同じものであるとは限らないのだ。もしかすると、UFOや宇宙人が見えてしまう人や、妖精が見えることを誰にも言えずに悩んでいる人だって、世の中にはいるかもしれないじゃないか。  そんなふうに開き直れたのは、神様やあやかしたちのおかげだ。  この世には、人知の及ばない世界がある。宇宙の果てや海の底だけでなく、それは案外すぐ身近に存在している。  そう思うと、僕の悩みなどちっぽけなものに感じて、生きることが少しだけ楽になった気がした。  洗面所を出ると、居間のほうから祖父の話し声が聞こえてくる。朝早くから来客があったらしい。田舎の人は早起きである。 「恭也、ちょっとこっちに来なさい」  なぜか祖父に呼ばれたので、居間へと向かった。  腰の具合でも悪いのかと思ったが、祖父の声は元気そうだ。むしろ、いつもより少し弾んでいる。 「おはようございます。お祖父ちゃん、僕になにか用?」  廊下から声を掛け、ゆっくり障子戸を開ける。座椅子に座る祖父が手招きした。 「ああ、おはよう。今、お客様がいらしてるんだが、おまえに頼みがあるそうだ」 「頼み? 僕に?」  怪訝に思いながら来客に目をやった僕は、座布団に姿勢よく正座しているその人を見て固まった。 「えっ!? な、なんでここに……っ」 「おはようございます、恭也。昨夜は良く眠れましたか?」  にこやかにそう挨拶したのは、カフェ『夜迷亭』の店主白銀さんであり天星稲荷の祭神天星様である。  昨夜と同じ黒で揃えたカフェ店主の服装で、今朝もまったく隙のないイケメンだ。  『夜迷亭』は夜明けまでの営業と言っていたが、徹夜でこの美貌なのか。それとも、神様には睡眠もアンチエイジングも必要ないのだろうか。  いやいや、問題はそんなことじゃなくて!  神様がナチュラルに祖父と対面しているのは、どういうことだ?
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