1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「君、名はなんというのですか?」 「恭也(きょうや)……伊ノ森(いのもり)恭也」 「伊ノ森? なるほど。君はこの社を創建した伊ノ森家に連なる者でしたか。どうりで、馴染みのある匂いを感じました」  伊ノ森家は古くからこの一帯の大地主で、『天星稲荷神社』を建てたのもその先祖らしい。伊ノ森家の当主(現在は僕の祖父)は代々、神社の氏子総代を務めている。 「恭也、君にはあやかしが見えるのですね」 「あやかし?」 「あやかしというのは、君を追いかけていた小さな鬼たちのようなもののことです」 「あの角が生えたオバケのこと?」 「まあ、人を化かすあやかしも多いので、オバケと言っても間違いではありませんが。かくいう私も今では神と呼ばれていますが、この社が作られる以前はただの狐のあやかしでした。要は、神もあやかしも人々にどのような形で認識されているかの違いで……ああ、君にはまだ少し難しい話でしたね」  困惑が僕の顔に出ていたのか、天星様は苦笑した。  僕が化け物と呼んでいる彼らはあやかしというらしい。だけど、天星様も昔はあやかしだった? よくわからない。  ただ、そうやって話しているうちに、僕の緊張はだんだんほぐれてきた。誰にも見えない化け物の話を真剣に聞いてくれる人……神様に、初めて出会ったからかもしれない。 「僕、よくああいうのを見るんだ。時々は今日みたいに追いかけられたり、髪をひっぱられたりすることもある。だけど、他の人には見えてなくて、その話をすると友達には笑われるし、大人には怒られる。怖いのに、誰も信じてくれなくて、どうしたらいいのかわからない」  だから、そんな弱音が口をついて出た。  あやかしが見える僕は、他の人たちと上手くつきあえない。小さな頃から友達の輪には入れなかったし、両親を困らせるばかりだった。  ずっと怖い思いをしてきたこと、誰にもわかってもらえず寂しかったことを、この神様ならわかってくれると思ったのだ。 「ほとんどのあやかしは、人間に自分たちの領域を脅かされない限り、危害を加えることはありません。さきほどの小鬼たちは悪戯が過ぎましたが、おそらく、君に自分たちの姿が見えていることが嬉しかったのでしょう。だから、ちょっかいを出して気を引こうとしたのです」 「嬉しい……?」 「多くのあやかしは、人に存在を認めてもらいたがっていますからね」  天星様の話に僕は戸惑った。  あやかしは人に存在を見てめてもらいたい? だから悪戯をして気を引こうとしている?  そんなことを言われても、僕はどうしたらいいのだろう。  危害を加えられないのはいいけれど、彼らと仲良くできるほど僕は強くないのだ。それでもやっぱり、怖いと思ってしまうから。 「昔はあやかしが見える人間が今よりも多くいましたし、たとえ見えなくても人々は自然の中にあやかしの存在を感じていたのです。元来、あやかしは自然が多い場所に生息していますが、今ではそういった場所がどんどん失われています。そして、あやかしが見える人間はもうほとんどいません。君にあやかしが見えるのは、伊ノ森家の血筋だからでしょう。私の社に関わりが深いせいなのか、伊ノ森の家にはこれまでも霊力が強い人間がたびたび生まれていましたから」 「でも、伊ノ森のお祖父ちゃんもお父さんも、オバケなんていないって言うよ。僕だってこんな力ほしくなかった。オバケが見えるのは怖いし、人と違うことが嫌なんだ」 「人間は他者と共存して社会を築く生物ですから、君がそう感じることも理解できます。ですが、人はみな違うのですよ。君がそうであるように、他の人もそれぞれ他人にはわからない悩みを抱えて生きている」  そう言って、天星様は少し寂しそうに笑った。  あやかしの仲間だから、それを怖いという僕の言葉を残念に思ったのかもしれない。そう考えたら、僕の心はわずかに痛んだ。 「まだ幼い君にそれを理解しろというのは酷な話です。あやかしを恐れるあまり、君の魂が押しつぶされそうになっているのを感じます。ここで出会ったのもなにかの縁。恭也、私から君に加護を授けましょう」  天星様が僕の額に右手で軽く触れると、そこから白い光が生まれて、しばらく発光し続けた。やがてそれは小さくなり、僕の中へ吸い込まれるように消えていく。  温かなものを感じて、僕は額を両手で押さえた。 「この神域から出た後、君にはあやかしが見えなくなります」 「本当に!?」  思ってもみなかった神様からの贈り物に、僕は嬉しくて大声になった。  あやかしが見えなくなること。それは、僕にとってなによりの願いだったからだ。  けれど、天星様はこう続けた。 「ただし、この加護は永遠には続きません。またいずれ、君には本来のあやかしを見る力が戻ります」  喜びが大きかっただけ、その言葉にはがっかりしてしまった。  いずれというのがいつのことかはわからない。だけど、僕はいつかまた同じことで悩む日々に戻るということだ。  すると、それを慰めるかのように、天星様が僕の頭にそっと手を載せる。 「恭也、君の力はとても尊いものです。人にとっても、あやかしにとっても。この世界には人以外の生き物も存在していることを、君がいつか理解して受け入れてくれることを、私は願っています」  人にとっても、あやかしにとっても尊い力。  僕にはその意味がわからない。だけど、もしも本当に天星様の言う通りになったなら、そのとき僕はあやかしを恐れなくなるのだろうか。それは僕が強くなるということなのか。 「そのときが来たら、私は君の願いをひとつ叶えましょう」 「願いを? なんでもいいんですか?」 「ええ、約束します。それまでに、考えておいてください」  神様直々の申し出に、僕は大いに期待した。  高性能の天体望遠鏡が欲しいとか、自転車に乗れるようになりたいとか、もっと背を伸ばしたいとか。願い事ならたくさんある。  いつか、僕があやかしを恐れずに、彼らの存在を受け入れることができたら、神様が願いを叶えてくれる。  そのために、僕がもっと強くなれたなら。  そんなときが本当に来るのだろうか。今はとても自信がないけれど、そうなればいいと思った。 「わかりました。僕は、いつか天星様にお願いを聞いてもらえるように努力します」 「生意気でいけ好かない子供が多い近頃では珍しく、君は素直ですね。そういう子供は好きですよ」  神様なのにちょっと毒づきながら、天星様は感心したように頷いた。 「恭也、またいつか会いましょう。そのときを楽しみにしています」 「はい。天星様、ありがとうございました」  天星様に向かって頭を下げると、僕は走って境内を飛び出した。  神様に出会ったこと。怪我を治してもらい、あやかしが見えなくなる術をかけてもらったこと。  いつか僕がもっと強くなったら、願いを叶えてもらう約束をしたこと。  とても不思議で特別なそれらの出来事は、僕にとって大切な、神社でもらうお守りのように感じた。  天星稲荷神社には本当に神様が住んでいる。  そう思うだけで、僕は本当に強くなれるような気がしたのだ。  けれど、境内を出たとたん、どういうわけなのか僕はすべてをきれいさっぱり忘れた。あやかしに悩まされていた記憶も、天星様の面影も、跡形もなく頭から抜け落ちた。  ただ、心の奥底に、不思議で温かな気持ちだけを残して。  そして、それから十年の月日が流れた――                ☆
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