1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「待ってください……えーと、白銀さん!」  玄関を出て、門扉の手前にいた白銀さんに声を掛けた。  僕の中では未だに『天星様』なのか『白銀さん』なのか定まらなくて、名前がブレてしまう。祖父の話を聞いたせいでますます混乱していた。  白銀さんが立ち止まって振り向いてくれたけど、その顔を見たらなにを言おうとしていたのか忘れた。そもそも、言いたいことがあったのかもよくわからない。 「どうしました、恭也」 「ええと……あの、『夜迷亭』って、この世に実在する店なんですか?」  混乱してアホな質問をしてしまったが、白銀さんは笑うことなく頷いた。 「もちろんです。昨夜、君も店に入ったではありませんか」 「それはそうなんですけど……あの店は別世界にあって、僕がたまたま迷い込んだだけだと思っていたので。神社から店までの距離も、なんだか行きと帰りでは違っていたし。行きはすごく長く感じたのに、帰りはあっという間で」 「それはおそらく君の勘違いです。行きに関しては、途中で黒羽に邪魔をされ暗い森の中で迷ったからそう感じたのでしょう。森の木々を避けて作ってあるので、店へと続く道は曲がりくねってはいますが、社からそれほど離れていませんよ」 「そうなんですか?」  そう考えてみれば、夜に初めて歩く道で緊張もしていたし、灯篭の幻想的な光で感覚がおかしくなっていたせいでもあるかもしれない。そしてやはり、黒羽さんによる妨害のせいである。 「『夜迷亭』はちゃんとに現世(うつしよ)に存在しています。伊ノ森さんには地代をお支払いしていますし、店の営業許可もあります。たとえ神でも、無許可で飲食店の営業はできません」 「そう……ですよね」  営業許可って……。  どうやって取得したんだ?  ものすごく気になるが、それを聞いている場合ではない。 「でも、なんで神様である白銀さんがカフェなんてやってるんですか? あやかしの憩いの場なら、わざわざ人間に営業の許可を取る必要はないでしょう?」  あのカフェは、黒羽さんたちあやかしが集う場所ではないのか。人が訪れるには目立たない場所だし、夜間だけの営業だと言っていた。  しかし、どうやらそうではないらしい。 「あの店に来るのはあやかしだけではありません。夜だけの営業なのでそれほど多くの集客はありませんが、時には人も訪れます。それこそ、昨夜の君のように。道に迷い、人生に迷った眠れぬ人が、ふらりと立ち寄る店なのです」  だから、店の名は『夜迷亭』なのか。  命からがら(という心境で)辿り着いたあの店は、僕にとっては暗闇に現れた救世主みたいだった。  白銀さんの言葉には、そんな迷い人たちへの慈愛が込められているように感じる。迷ってもいいのだと、神様に許されている気がした。 「天星稲荷神社が作られる以前、私は今の風斗のようなただの野狐(やこ)でした。それがこの社で長い時を過ごすうちに、神としての力を得ることになりました。ここの社には、創建された当時から今日までの、様々な思い出があります。私と、天星町の人々との絆が」  千年の時を見通すように、白銀さんが遠い目をする。  気が遠くなるほどの長い時間、この神様はここで人々を見守って来たのだ。人にとっても神様にとっても、この社は大切な場所だったのだろう。  それを守りたいという気持ちがどれほど重いものか、ようやく僕にも理解できた。 「私は長い間この地で人々を見守ってきましたが、最近少し考えが変わりました。ただ見守り、願いを聞くだけでなく、もっと人と接して、人を理解したいと思うようになったのです。カフェはそのための切っ掛けのようなものです」  それでカフェを開くって、ずいぶん手が込んでるな。そして茶屋とか喫茶店とか言わないところが、神様は意外とハイカラである。 「白銀さんのお気持ちはわかりました。……でも、もうひとつだけいいですか? 僕を雇うというのは、どうしてですか? 理由がわからないんですけど」 「理由は、昔の約束です」 「約束?」 「忘れてしまいましたか? 十年前に社で出会ったとき、君の願いをひとつ叶えると私は言いました」 「願い……」  そういえば、そんな話もしたっけ。  僕が自分の力を受け入れたら願いをひとつ叶えてくれるって。あの当時はそれが僕にとって励みになった。具体的にはまだなにもお願いしていなかったはずだけど。 「昨日、君は私の社で『再就職できますように』と願ったでしょう?」  昨日の夕方天星稲荷神社にお参りをした。なにかいろいろお願いというか、神様に愚痴をこぼしたことは覚えている。再就職についても確かに願った。 「えっと……確かに、お願いしましたけど……」 「あやかしが見えなくなるようにという願いは、その後で君自身が撤回してくれましたので、そちらの願いを叶えることしました」 「ちょっと待ってください! 本当に願いが叶うなら、もっとちゃんと考えてお願いしたのに……っていうか、どうして僕の願い事がわかるんですか? 声に出して言ったわけでもないのに」 「社の前での願い事は、たとえ口に出さなくても私には聞こえます」 「それって……」 「君の心の中の葛藤は、すべて聞こえていたということです」  うわあぁぁー―っ!  あまりの恥ずかしさに、僕は思わず両手で顔を覆った。  あれは人には絶対に言わないような不安とか悩みとか、恥ずかしい心の声だ。願い事ではなく懺悔みたいなものなのに。  相手が神様だから告白したのに!  あれ……この人、神様なんだっけ? じゃあいいのか? なんかよくわからなくなってきた。 「いかがです? 『夜迷亭』で働いてみませんか? 君は願いが叶う。私は君を雇える。今風に言えばウィンウィンというやつです」  神様の口から『ウィンウィン』などと聞くと妙な感じである。  確かに願いは叶うが、なんだかお手軽すぎて狡くないだろうか?
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