1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「どうしよう……」  深い溜め息を吐いて、僕は途方に暮れた。  周りに広がるのは鮮やかな緑の田園風景。心地いい初夏の風が水田を吹き渡り、青草の匂いとともに前髪を揺らしていく。  こんなに爽やかな場所で散歩をして、なぜ憂鬱な気分になっているのかというと。畦道(あぜみち)を歩いていたら、行く手を阻むように横たわるを見つけたからだ。  昨夜の雨のせいで、黒い泥が水たまりのように、田んぼのほうから広がっている。それだけならいい。避けるか飛び越えるかすれば済む。  問題は、それがうねうねと動いていることだ。  目の錯覚ではなく、どう見ても自力で動いている。  しかも、泥の中から人の腕のようなものが伸びたかと思うと、次に頭が、そして上半身が現れ、そこからずるずると匍匐(ほふく)前進を始めつつあった。真昼間の怪奇現象である。  いやいや、あれはただの幻覚だ! 深呼吸して、落ち着いてもう一度見れば消えるはず!  目を閉じて深呼吸を三回。ふたたび前方に目を向けると―― 「まだいるし!」  残念ながら、泥人間はまだそこにいた。  実はここ数ヶ月の間、僕はたびたびこういった現象に悩まされている。  道端でも学校でも会社でも、得体の知れない化け物を目撃するのだ。それらはこんな、B級ホラー映画に出てきそうな泥人間だったり、動物に似た形だったり、時には無機物だったりと、バラエティーに富んでいる。  最初の頃はぼんやりとしていたので、気のせいか、目の錯覚だと思っていた。けれど、時が経つにつれてだんだんはっきり見えるようになり、今ではすっかり僕の日常を脅かしている。  厄介なことに、それは僕以外の人間にはまったく見えていないらしい。ということは、あれは現実ではなくて、原因は僕自身にあるということだ。  そう思って眼科や脳神経外科を受診したが、どこにも異常はなかった。最後に心療内科に行ったところ、おそらくストレスによる幻覚だろうという診断が下され、これといって有効な治療法がないまま今に至っている。 『……ウゥ……ハ……イ……』  化け物がなにか言っている。  ヤバイ、幻聴まで聞こえだした。症状が悪化している証拠だ。  それにしても、これはどういう幻覚なんだ?  僕の深層心理に、こういう化け物を恐れる子供じみた感情でもあるのだろうか。あるいは、もっと深い心の闇的ななにかとか、欲求不満とかが、化け物の幻覚となって表れているのでは。  これがただの幻覚だと思っていても、見える以上はやはり怖い。あのぬかるみに近づいた瞬間、泥人間に足首をつかまれて田んぼの中に引きずり込まれそうな気がする。  家に帰るにはこの道をまっすぐ行かなければならないが、無理をせずに回り道をするべきか。しかし、それではかなり時間がかかる。  さて、どうしよう。 「伊ノ森の坊ちゃん、こんな場所でどうしました?」  悩んでいると、背後からのんびりとした声が聞こえた。  作業着姿の中年男性が立ち止まり、じっとこっちを見ている。見覚えがあるから近所の人だろうけど、まだ名前は覚えていない。 「あ……えーと、こんにちは」 「こんにちは。さっきからずっとここに立ってますけど、具合でも悪いですか?」 「いいえ、違います! ちょっと散歩中で……大丈夫です、すみません」 「ああ、そうですか。それならいいんですが。散歩といっても、ここは若い人にとって面白いものなんて何もないでしょう? 坊ちゃんみたいに都会から来たならなおさらですよ。田んぼと畑しかないんですから」 「いえ、そんなことは……ないです、けど」  ちらちらと化け物に目をやると、それはまだ(うごめ)いていて、なんだかこちらを見ているようにも感じる。  近所の男性も同じ方向を見ているのに、まったくの無反応。やはり、あれは僕にしか見えていないのだ。 「これから家に帰るところですか? 私も同じ方向なのでご一緒に……」 「あっ、急用を思い出したので、僕はこっちに……それじゃ、失礼します!」  僕は素早く頭を下げると、男性の返事も聞かずにぬかるみとは反対方向へ歩き始める。  明らかに挙動不審だし、失礼な態度を取ってしまった。申し訳なく思いながらも黙々と歩き続け、しばらくしてからそっと振り返る。  歩いていく男性の姿が遠ざかっていく。  泥人間の姿はなく、そこにはただのぬかるみがあるだけだった。                ☆
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