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ここは天星町。
北陸地方の片隅に位置する、美味しい米と野菜とその名のとおり美しい星空が自慢の、日本のどこにでもあるような田舎町である。
僕――伊ノ森恭也が天星町に来て、一週間が過ぎた。
天星町に住む祖父が腰を痛めて動けなくなり、祖母だけでは世話が大変だろうということで、その介助のためにやって来たのだ。
とは言え、自発的に来たわけではなく、仕事で多忙な両親から半分強制的に送り込まれたのである。現在はいわゆるニートなので、両親に頼まれたら断るわけにはいかない。
僕が会社を辞めたのは、入社して一ヶ月ほど経ったつい先日のことだ。
大学を卒業し、内定していた企業に入社する少し前から、僕はある症状に悩まされていた。
時折、おかしな生き物というか、化け物のような幻覚が見えるのだ。
自分で言うのも何だけど、僕はもともと体力には自信がなく、人見知りで神経質でネガティブな性格である。幻覚を見るのは、新しい環境に順応できないストレスが原因に違いなかった。
それでも、できるだけ幻覚を無視して何事もないように振る舞っていたある日。高層ビルの上階にあるオフィスの窓から超巨大な坊主頭がにゅっと押し入って来たのを目撃して、あろうことか僕はその場で失神した。
その後は欠勤して自宅療養を続けていたが、入社早々にそんな状態になったことがあまりに気まずくて、結局、二度と会社に戻ることはできなかった。
普通に平穏に生きることをモットーとしてきた僕にとって、それは取り返しがつかない失敗だった。新卒でたった一月で退職したことは今後の就職に間違いなく悪影響があるだろう。そうでなくとも、これといって資格も特技もない僕に再就職のハードルは高い。
べつに働きたくないわけではないし、世間の目も気になるので、早く社会復帰したいとは思う。けれど、幻覚は今も続いていて、それどころかどんどん酷くなっていた。両親は「無理しなくていいから」と言ってくれるけど、僕としては肩身が狭い。
祖父が腰を痛めたのはそんなときだったので、気持ちを切り替えるためのいいきっかけだったのかもしれない。空気のいい田舎のほうがストレスも少ないだろうという両親の勧めもあって、僕は実家がある東京からはるばる天星町へ来ることになった。
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伊ノ森家は古くから天星町に住んでいて、このあたりでは大地主である。
天星町の半分が伊ノ森家の土地だとか、周辺に見える山はすべて所有しているだとか聞いたことがあるが、詳しいことは知らない。ただ、それはあながちデマカセではないと思えるくらい、伊ノ森の名は天星町では有名だ。
築百年以上の大きな屋敷は、豪華な近代和風建築で、柱も梁も今時の建築物とはくらべものにならないほど立派な木材が使われている。白い塀に囲まれた敷地は広く、幼い頃はこの庭で迷子になったこともあった。住居として使われている母屋の他に、いくつもの離れや茶室、お宝が眠っているに違いない蔵もある。
現在の当主は僕の祖父である伊ノ森宗一郎、御年八十一歳。
今は腰を痛めているが、それでも気力と口はまったく衰えていない。声は僕よりも張りがあって良く通るし、腰痛さえなければたぶん僕より速く歩く。
かつて町長を務めたこともある祖父は地元の名士として知られているため、その家にやって来た孫の僕は『伊ノ森の坊ちゃん』として、瞬く間にご近所中に認識された。
いい年をした男がいきなり現れて、仕事もせずに祖父母の家で厄介になっているのだ。借金取りから逃げて来たのか、ヤクザの女に手を出して追われているのか、それとももっと大変な事件を起こして指名手配されているのでは? などと、陰で噂されているに違いない。
そうでなくても、田舎はご近所づきあいが濃厚なのだ。家族構成に父親の年収、昨日の晩御飯のメニューまで隣近所中が知っている(偏見)。
田舎は怖い。ある意味、化け物の幻覚より恐ろしい。
みんなが自分について、あることないこと噂している気がする。泥人間の幻覚を見た後から、僕は以前にも増して被害妄想が酷くなり、家に引きこもりがちになった。
もともと、外出しなければならない用事はほとんどない。日々やることと言えば、祖父の移動に手を貸すとか、祖母の手伝いで庭仕事をするくらいだ。
近所の農家から食べ切れないほどの野菜をもらったり、それ以外の食材は町のスーパーから配達してもらうなど、食料にも困らない。だいたい、一番近い店までは徒歩で三十分以上かかるのに、僕は車の免許を持っていなかった。
外に出ないのは、人に会いたくないのが一番の理由ではあるが、なぜか家の中では幻覚を見ないという安心感もある。原因はわからないが、伊ノ森家に来てから家の中では一度も見ていない。
祖父母の役にまったく立っていないことが申し訳ないが、気持ちは一向に前向きになることはなく。
そんなわけでこのところ、僕はただのニートから引きニートにレベルアップしていた。
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