1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「え、そうなの?」  僕は驚いて、手に取った二個目の大福を落としそうになった。まったく身に覚えがない話だ。 「覚えてない? 言葉を話せるようになった2~3歳くらいの頃から、小学校のあいだくらいはずっと言っていたわね。中学に入ってしばらくしてから、急に言わなくなったけど」  オバケが見える……?  言われてみると、なんとなくそんな記憶がないこともない。  それは、夢の中の光景のようにぼんやりと思い出される、本当にかすかな記憶だった。  田んぼの畦道(あぜみち)で見た泥人間や、会社の窓から入って来た大入道のようなもの。あるいは、動物に近い形だったり、道具のようなものだったり。そういう得体の知れない生き物が蠢くイメージが、僕の記憶の中には確かにある。  子供の空想力と言えば聞こえはいいが、僕は昔から神経質な性格だった。暗闇や物音などを怖がりすぎて、オバケが見えると思い込んでいたことは想像できる。  当然、そんなものは他人には見えないし、誰にも理解されない。いつもひとりで、不安や恐怖を抱えていたのではなかっただろうか。  でも、誰かが助けてくれたような……?  わかってくれる人がいたのだと、嬉しかった記憶があるのだ。なぜだろう。大切なことだと感じるのに、思い出せない。  もしかするとそれもすべて、夢だったのかもしれないけれど。 「オバケが見えなくなったのは、天星様のおかげかしら」 「天星様? どうして?」 「あら、天星様のことも忘れちゃったの?」 「それは覚えてるけど」  伊ノ森家の裏にはこんもりとした森があり、その中に古い神社が建っている。  天星稲荷神社。天星様というのは、そこの稲荷神の通称のようなものだ。  この地に古くから祀られてきた氏神で、言い伝えによれば千年も前から神社が存在していたという。小さくて目立たない造りだが、それが本当なら、この町で一番歴史がある社なのだ。  代々この地を守ってきた伊ノ森家のご先祖がその創建に携わり、以来、氏子の代表として神社を守ってきたらしい。 「あなた、昔は天星様にお参りに行ってたじゃない」 「そうだったっけ?」 「ええ、そうよ。毎日のように通って、お供えものをしたりして。小さいのに感心だなって思ったから、よく覚えてるわ」  それもなんとなく思い出した。  理由は忘れたが、子供心になにか思うことがあったのだろう。このあたりは昔ながらの土地なので、祖父母だけでなく近所の人たちも氏神様に対する信仰心が篤い。そんなことも関係しているのか。  でも今、『天星様』と聞いてとても懐かしく感じたのはなぜだろう?  祖母ではなく、もっと別の人からもその名前を聞いた気がするんだけど……誰だったかな?  天星様、天星様……頭の中で繰り返していると、ふと奇妙な光景が浮かんできた。  いつのことかはまったく定かではないが、僕はその天星稲荷神社で誰かと会った。親戚とか、知り合いではなくて。滅多に会えないような、けれどとても大切な出会いだ。  なんだろう? なにかとても、キラキラした感じ。かすかに脳裏をかすめたのは、神主が着るような真っ白な狩衣と、それから狐の耳……?  もう少しで思い出せそうなのに、思い出せない。すごく気になる。 「ねぇ、お祖父ちゃん。昔、その天星稲荷神社に神主さんがいなかった? 白い狩衣を着た人を見たような気がするんだけど」  白い狩衣はともかく、狐の耳ってなんだ?  なぜか、狐の耳と尻尾がぴこぴこ動くイメージがあるんだけど。どう考えても奇妙だから、やっぱり夢なのかもしれない。  祖父も怪訝な顔で首をひねっている。 「いいや、私が覚えている限り、天星稲荷に神主がいたことはないな。そもそも、本殿だけで社務所もないような小さな神社だ。べつの神社と勘違いしてるんじゃないのか?」 「そうだよね。やっぱり、夢でも見たのかな」  夢として片づけるにはなにかが引っかかるが、現実とは思えない。けれど、それは確かに幸せな夢の一場面のように、思い返すと胸の中が温かくなる。  伊ノ森家を含む一帯が神聖な空気に包まれているように感じるのは、天星稲荷神社のおかげだろうか。僕が家では幻覚を見ないのも、なにかご利益があるのかもしれない。  天星稲荷神社か――。  物心ついてからは、ちゃんとお参りしていなかったな。  特別信仰心があるわけではないけれど、ここにいるあいだはお世話になるのだから、神様にもご挨拶しておきたい。  ついでに、幻覚が見えなくなりますようにと、ダメモトでお願いしてみよう。                ☆
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