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祖父母の生活に合わせているので、伊ノ森家の夕食は早い。夕食後に神社へ行くと告げて外出したとき、外はまだ明るかった。
近所の人に出くわすことを思うと気が重かったが、夕食時ということもあって通りに人影はない。
それに、このあたりは隣同士でもずいぶんと距離がある。伊ノ森家など、隣の木下家と百メートル近くも離れているので、僕が気にするまでもなく、そうそうご近所さんと顔を合わせる機会はないだろう。
黄昏時の空の下、深緑の森は黒い影に染まりつつあった。
森へ向かって進むと、やがて赤い鳥居が見えてくる。昼間は厳かに見えるその場所が、今はなんだか別世界へ通じる門のようにも思えた。鳥居の先は石畳の参道になっていて、その先に天星稲荷神社がある。
黄昏時は逢魔時ともいう。昔は、魔物に遭遇する不吉な時間と考えられていた。
幻覚の化け物も現れやすいかどうかは知らないけど、僕みたいな小心者はこんな時間に出歩くべきではないのかもしれない。それでも、伊ノ森家で幻覚を見ないように、この神社がある森ならば大丈夫だという、妙な安心感があったのだ。
鳥居をくぐると、急に空気がひんやりと感じられた。
神域に足を踏み入れた緊張感に身が引き締まる。僕は一礼すると、道の端のほうをゆっくりと歩いていった。
まだ虫が鳴く季節には早く、森の中は静まり返っている。少しひんやりとした空気が頬を撫で、風がさわさわと周囲の木々を鳴らして通り過ぎた。
緑と、湿った土や石の匂い。物陰に潜む虫や小動物の息遣い。実家がある都会の町では感じたことがない自然の気配が、ここにはたくさんある。
稲荷神社というからには、祀られているのは稲荷神だ。稲荷神というのは通称のようなもので、その本質は古事記に登場するウカノミタマやトヨウケオオカミ、ウケモチノカミなどの農耕神であることが多い。
または、その土地で古くから信仰されてきた、いわゆる土地神が稲荷社に祀られていることもある。天星稲荷もその要素が強く、氏子からは『天星様』と呼ばれ親しまれてきた。
参道から神社へ至る一帯は森が切り開かれている。森の木々に守られるようにして、中央にぽつんと社が建っていた。
天星稲荷神社は、記憶の中の姿となにひとつ変わっていない。
三坪ほどの小さな木造で、壁は白、柱や垂木は赤く塗られた、よくある稲荷神社の彩色だ。
建物は本殿が一棟あるだけで、通常は扉が閉められたまま。それが開かれるのは祭事の時だけである。
神社そのものは千年も前からここにあると言い伝えられているが、今の社は戦後に建て替えられたものらしい。神主もいない小さな神社だが、参道や社の周りが綺麗に掃除されているのは、地元の人々から大事にされている証だった。
最後にここへ来たのはいつだっただろう。ここ数年は祖父母にも会いに来ていなかったから、高校の頃か。あるいはもっと前だ。
実は、中学に入学して間もない一時期、僕は伊ノ森の祖父母の家に住んでいたことがある。
その時も、今と似たようなストレスが原因の体調不良で、もともと入学した中学で登校拒否気味になっていた。
当時のことはよく覚えていない。環境が変われば健康になるだろうという両親の判断で天星町へ来て、実際に僕の体調はすぐに良くなったらしい。
ただ、健康になって実家へ戻ったのはいいが、おとなしくてネガティブな僕の性格は変わらなかった。
学校の勉強はそれなりに出来たから、大学までなんとかやって来られたけれど、それ以外はなんの取り柄もないまま。運動も芸術的センスもなく、顔もスタイルも十人並み。たぶん初対面で覚えてもらえないくらい影が薄い。
そのせいか人と関わることも苦手で、友達付き合いも当たり障りなくやってきた結果、ほとんどが学校の卒業とともに疎遠になった。会社を辞めたときも、地元から遠く離れた天星町に来たときも、誰からも様子を尋ねる電話のひとつ、メールのひとつもない。
昔から一人でいることには慣れているが、世間から取り残されたような気分にはなる。結局、内気な子供だったあの頃から、僕はなにひとつ変わっていないのだ。
暗い気分に沈みそうになり、それを振り切るようにぶるぶると頭を振った。
ダメだ! 最近はいろいろあったせいで、もともとの性格に輪をかけてネガティブになっている。ここで天星様にお参りして、厄を落として帰ろう。
賽銭箱に百円硬貨を投げ入れた。やや色あせた紅白の紐を引くと、静かな境内にガランガランと鈴の音が鳴り響く。深々と二礼して二回柏手を打った。
ご無沙汰していてすみません。わけあって、しばらく天星町に住むことになりましたので、よろしくお願いします。どうか、おかしな幻覚を見なくなりますように。そして、再就職もできますように。今後の人生が不安です。就職とか結婚とか、結婚以前に恋人をつくる自信もありません。友達もいないし、このままだと一生独り身で孤独死するかもしれません……
お願いというより、悶々とした心の声を神様に吐き出しただけだったが、寛大な心でお許しいただきたい。
ふたたび一礼をして顔を上げる。
改めて古い社を見上げると、またあの光景が蘇ってきた。
全身真っ白な神主のような装束を着た、美しい男性の面影……だけど、顔はよく覚えていない。
あの人は、僕になんと言ったのだったか。
――恭也、君の力はとても尊いものです
頭の片隅でその声が蘇りかけたとき、ふいに境内を強い風が吹き抜けた。
社を取り囲む木々が枝葉を揺らし、ゴオッと竜巻のような音が鳴り響く。気づけば、いつの間にかとっぷりと日が暮れていて、周囲は闇に沈んでいた。
「あれ?」
そんな中、境内がふわりと明るくなった。
社の前に立つ赤い灯篭に、ひとりでに火がともったのだ。
今まで気づかなかったが、参道が途中で分かれて社の奥へと続く細い道が伸びている。そちらにも両脇に赤い灯篭が点々と立っていた。それらがまるで森の奥へといざなうように、ぽつぽつと火がともっていく。
暗くなると自動で点灯するセンサーライトなのだろうか。まるで本物の蝋燭のように、ゆらゆらと揺れる明かりがよく出来ている。しばらく来ないあいだに、天星稲荷神社はずいぶんハイテク化したようだ。
あんな別れ道、昔はなかったよな。
幼い頃の記憶にはないので、僕が来なかった数年のあいだに作られたものなのだろう。神社の場合、同じ敷地内に別の神様を祀る社などがあったりもするので、新たにそういう社を作ったのかもしれない。あるいは、遊歩道のようなものか。
道の先になにがあるんだろう?
何事にも消極的な僕は、いつもならこんなことに興味は持たない。暗い森を歩いて、猪のような野生動物と遭遇する危険もある。帰りが遅くなれば祖父母も心配するだろう。
それなのに、今はどうしてか小道の先が気になって仕方がなかった。
誘うように揺れる灯篭の赤い火のせいだろうか。気味が悪いというよりは、とても幻想的で魅惑的に感じる。
ちょっとだけ、行ってみようかな。
鳥居のほうへ戻るのをやめて、僕はふらりと脇道へと入っていった。
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