1 甘くない人生に一匙(ひとさじ)の蜂蜜を

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「一般人? 冗談だろ? 陰陽師を名乗っててもまともに力が使えるやつがいない今の時代に、なんで一般人にあやかしが見えるんだよ」  男はさらに僕に近づくと、凄むように顔を近づけて来る。恐怖で硬直しながらも、僕はじりじりと体を離す。  ひ~っ、怖い! 助けて! 「あ、あやかし? なんのことかわかりませんけど、すみません!」  僕がなにかしたとは思えないが、反射的に謝ってしまう。こんな人気のない場所で天狗の格好をした怪しい男に絡まれるなんて、ついていない。これなら、化け物の幻覚を見るほうがずっとマシだ。 「しかしまいったな。この姿を人に見られると、今後の生活にいろいろと支障があるんだよ」 「人に見られると……って、コスプレを?」  それは確かに、恥ずかしいだろう。しかし、天狗男は怪訝な顔をする。 「コスプレ?」 「天狗のコスプレ……じゃないんですか?」 「あぁっ!? おまえ、この俺の立派な翼が偽物に見えんの? どう見ても本物だろ?」 「はいっ、どう見ても本物です! すみません!」  コスプレではなく、自分を天狗だと思い込んでいるようだ。  もっとヤバイ人である。    「あの、絶対に人には言いませんから! 僕はなにも見てません! ……じゃあ、失礼します!」 「ちょっと待て、小僧。おまえなんか匂うんだよな」  急いでこの場を離れようとした僕の襟首を、天狗男ががしっと掴んだ。そのまま引っ張られて、首が吊りそうになった僕は暴れる。 「ぐっ! 苦し……っ!」  男に片手で持ち上げられて、足が地面から離れそうになった。  なんて怪力だろう。いくら僕が痩せているとはいっても成人男性だぞ。子供とはわけが違う。  僕に鼻を近づけて、男はクンクンと匂いを嗅いでいる。顔が近い! 息ができない!  「この匂い、狐だよな。なんつーか、残り香みたいな古い妖力を感じるんだが。おまえ、あいつとどういう関係なの?」 「あいつ? な、なんのことだか、わかりません……は、放して……っ、息が……っ」 「ああ、悪い」  足をばたつかせると、男がいきなり手を離し僕は地面に転げ落ちた。  ぜいぜいと呼吸しながら見上げると、暗闇の中で輝く獰猛(どうもう)な瞳がこちらを見下ろしている。  狐とかあいつとか……わからないけど、とにかく逃げなきゃ!  変質者に言いがかりをつけられるなんて初めてだ。恐怖で足が震えるが、僕は自分を奮い立たせて駆け出した。  町の駐在所まで行ければいいが、ここからはだいぶ距離がある。コンビニは町でたった一軒で、それもかなり遠い。  町はずれにあるこの森は、天星町の中でもさらに辺鄙(へんぴ)な場所だ。おまけに住人の平均年齢は高く、こんな遅い時間に出歩いている人がいるとも思えない。  それでもとにかく、森を出てどこか人がいる場所に行かなければ。  灯篭に照らされた歩道をヘロヘロになりながら走っていたら、急に目の前に影が落ちた。 「逃げるなよ、小僧。俺の質問に答えろ」  嘘だろ……?  天狗男が目の前に舞い降りたのだ。  黒い翼が優雅に羽ばたき、その背で綺麗に折りたたまれる。  今、彼は確かに空を飛んだ。作り物の羽根でこんなことができるはずはない。だとしたら、彼が言ったようにこれは本物なのか?  なにより男の醸し出す空気が、ただの変質者のものではないのだ。一睨みするだけで金縛りにあいそうな眼力に、僕は体の芯から震えあがった。  コスプレじゃなくて……本当に天狗?  あり得ない。けれど実際に、目の前であり得ないことが起きている。  混乱する僕を威圧するように、男の翼がふたたびバサリとはためいた。  恐怖が頂点に達した僕の頭の中で、なにかがぷつりと切れた。 「おまわりさーん、ここに天狗がいます!」  考える間もなく、力一杯そう叫んだ。天狗男が慌てふためく。 「うわっ、突然なに叫んでやがる!」 「天狗に食われそうです! 助けてーっ!」 「黙れっ、人聞きの悪い! あ、おい待て……!」  天狗男がうろたえているあいだに小道を外れると、僕は暗い森の中へと逃げ込んだ。                ☆
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