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「先生は生まれ変わったらスイスの牛になりたいです」
今朝のショートホームルームで担任が呟いた言葉。目の下に青くて暗いクマがあった。どこか遠くを見つめていた。
騒がしい教室で、一番担任に近い席のきららにだけ届いたであろう言葉が放課後になっても妙に気にかかっていた。
きららはスイスに行ったことはない。ハイジは少し見たことがある。とろけたチーズをのせたパン。口笛はなぜ、から始まる歌。クララが立ったという有名なセリフ。クララときららって似てる。それは今はどうでもいい。
あの世界観の牛ならきっと幸せだろうな。薄暗くて狭い牛舎に繋がれている牛とは違って、青空の下をのんびりと歩いているのだろう。
先生、きららもスイスの牛になりたいかも。
なんてね。
「きらら、遅くなってごめん。帰ろう」
男子にしては高めな楓の声はきららしかいない教室によく響いた。小柄な楓はまだ声変わりしていない。部活終わりの楓の前髪は汗でかすかに濡れている。
文庫本を閉じてカバンにしまう。
「いつもありがとうね」
きららの車椅子を準備する楓に言う。最初は母が毎日迎えに来てくれていたけれど、いつからか隣の家に住む楓が送ってくれるようになった。きららはお金がかかるから、母は遅くまで働かなければいけなくなったのだ。きららと名付けた父はいつのまにか消えた。
校舎が改修されたばかりで本当に良かった。エレベーターがあるしトイレも使いやすい。でもきららにとって、本当の本当に良かったこと。
「楓がいて良かった」
振り向くと、頬を赤く染めた楓の後ろに広がる空が、オレンジ色に燃えている。
「いきなりどうしたのさ」
「明日からは大丈夫」
「どうして…」
「秋の空は綺麗だね」
「うん…」
楓の飼っていた犬が死んだ時、楓は泣かなかった。虹の橋を渡って天国に行ったのだと言った。生まれ変わって絶対にまた僕に逢いに来るとも言っていた。
死んじゃったら歩けるようになるかもしれない。それなら階段をのぼりたい。できれば、螺旋階段をのぼってみたい。星を映す透明な螺旋階段を淡いラベンダー色のバレエシューズで踊るようにかけるのだ。純白のスカートが広がって、揺れる。行きつく先がきっと天国。心が満ちるまで踊り歩いたら…
「スイスの牛に生まれ変わりたいな」
「楽しいかな?」
「それはわからないけど、きっと穏やかだよ」
「それなら、生まれ変わりたいね」
「死んだら無になるんだよ。何も残らないし、生まれ変わりなんてない」
同じクラスの女の子。気が強くて、きららの空想をいつも否定する。
「そうだね。あなたは無になるんだろうね」
きららの天国に、意地悪な子はいらない。夢を見れない人は無になってしまえばいい。
信号が青になる。女の子は走り去っていった。唇を噛んでいた。
「明日謝らないと」
「謝れないよ」
楓が困った顔をしているのがわかる。
あの子に言い返したことは一度もなかった。きららは助けてもらわないと生きられないから、嫌いな人にでも親切にする必要があった。
でも、もういいのだ。
「最近、成長痛で眠れないんだ」
「うん」
「声変わり、そろそろかな」
「うん」
「スイスは遠いね」
「…うん」
楓は大人になっていくんだね。ひとりで、歩いていくんだね。きららも。
やっぱり、スイスの牛になれなくていいから、古風で綺麗な名前もいらないし、健康な身体もいらないから…
「楓の近くにいれたらいいね」
天国への扉は、信じた人にだけ開かれる。きららは羽のように軽い身体で螺旋階段をのぼる。綺麗な秋の空を見下ろすのは気持ちがいい。
先生、先生はきっとスイスの牛になれると思います。
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