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ずっとイヤホン
武は、コーヒーショップのカウンター席に座った。
横のテーブル席の若い女の子の集団が武の方を見ながら話していた。
同じ大学の女子だった。
武は、そちらに背を向けるように斜めに座ってコーヒーに口をつけた。
また悪口だ。
武が人を避けるようになったきっかけは、中学一年生のときだった。
友だちを驚かせようと、武は教室の掃除用具入れに隠れていた。
クラスの男子数人が教室に入ってきて、「わっ」と出ようとしたとき、武の名前が聞こえた。
一番仲が良かった俊也が武の悪口を言い始めた。
それに賛同するように、クラスメートが次々と武を非難した。
次の日から、武は、俊也やクラスの男子を無視し始めた。
突然の武の行動に、彼らは腹を立て大きな声で武の悪口を言った。
悪口は、尾ひれをつけて広まり、武が駄菓子屋で万引きしているとか、親が前科者だとか、事実でないひどい悪口が学校内を飛び交った。
明るかった武は暗くなり、いつも教室の隅で一人怯えていた。
誰かの声が聞こえれば自分の悪口だと思い込み、笑い声が聞こえれば自分が笑われていると思い、話しかけられても敵意をむき出して無視した。
人間なんて信用できない。
それが武が中学一年のときに学んだことだった。
それから、武は人を避けて生きてきた。
大学に入り、知らない人に話しかけられても、どうせ嫌われる。
そう思うと、仲良くなろうとは思わなかった。
『どうせ』が武の口ぐせだった。
「悪口って聞きたくないですよね」
すぐ隣から低い声がして武の身体はビクッと反応した。
いつのまにか隣には、スーツを着た三十代くらいのサラリーマンが座っていた。
メガネをかけていて、細身で、やけに姿勢が良かった。
武が無視をすると、男は顔だけこちらに向けて、もう一度同じことを言った。
「悪口って聞きたくないですよね」
「……」
「他人の悪口を聞くのも不快ですし、ましてや自分の悪口を聞いてしまうなんて最悪ですよね」
男は、ぐっと首を伸ばして武の顔に迫ってきた。
「何ですか?」
武は、マグカップをドンッとテーブルに置き敵意を示した。
「なぜ無視するんですか?」
「知らない人だからですよ」
「知らない人でも話しかけられたら無視できないのが日本人でしょう」
武は男の会話をさえぎるようにもう一度聞いた。
「何か用ですか?」
「はい」
男は返事だけすると、じっと武の横顔を見ていた。
男が黙っているので、武は男の顔に目を向けた。
男の耳にはイヤホンがついていた。
この人は、自分に話しかけているのではなく、電話で会話をしているのか?
武は焦った。
電話中の男が自分に話しかけていると勘違いして返事をしたことを恥ずかしいと思った。
しかし、会話は成立していたような気がする。
しかも、男は武をじっと見つめている。
「電話じゃありません。あなたに話しかけています」
男は、そう言うと、イヤホンに手をかけた。
「これ、外れないんです」
イヤホンを引っ張ると、耳も一緒に動いた。
「マジックか何かですか?」
武は面倒そうに聞いた。
「いえ、本当に外れないんです。私は、自ら選んでこのイヤホンを装着したのです。このイヤホンは特別なイヤホンで、一度つけると二度と外すことができないんです」
「特別?」
武は、自分が他人に興味を持ったことに驚いた。
そして、家族以外の人間と会話をするのが数年ぶりだということに気づいた。
「このイヤホンをつけると、悪口が聞こえなくなるんです」
男の最初の言葉を思い出した。
「これをつけると、ほめ言葉しか聞こえないんです。みんな自分をほめてくれるんです。いいでしょ?」
男は、ニヤリと口の端を上げた。
「他人の悪口もシャットアウトされますし、自分への悪口もうっかり聞いてしまうということがなくなるんです。きれいな言葉しか聞こえないので実に気持ちがいいものです」
AIが言葉を選択するということだろうか。
技術はそこまで進化したのか。
武が心の中で感心していると、男が手のひらを差し出してきた。
「よろしければ差し上げます」
男の手の上には、どこにでもある普通のワイヤレスイヤホンが二つのっていた。
「ただし、一度つけたら二度と外すことはできませんからね」
男の顔に影が差した。
男は、ニッと歯を見せると、イヤホンをテーブルの上に置いて店を出た。
男の姿が見えなくなると、武は、それを手に取り眺めた。
一生外れない? そんなことありえない。
たとえそうだったとしても、デメリットはないのではないか。
むしろ、男の言うほめ言葉しか聞こえないというメリットは魅力的だった。
それは、武が最も望んできたことだからだ。
武は、軽い気持ちでイヤホンを耳につけた。
イヤホンをつけた途端に、店内のBGMや人々の話し声、食器が触れ合う音など一切の音が消えた。
無音だった。
テーブル席の方を見ると、同じ大学の女子の一人と目が合った。
彼女たちは、こそこそと会話をすると笑った。
その声がまったく聞こえなかった。
男が言うようにこのイヤホンが悪口をシャットアウトしてくれるというのならば、やはり彼女たちは自分の悪口を話していたのだと武は鼻で笑った。
やっぱりね。どうせ嫌われている。
一人でうなずきながら武はイヤホンに手をかけた。
耳から抜こうとしたが、外れなかった。
右も左も耳の穴にぴったりと隙間なくくっついていてイヤホンを引っ張ると耳まで引っ張られて痛みが走った。
「嘘だろ」
声を発して違和感に気づいた。自分の声が聞こえなかった。
「あー、あー、あーーーーー」
武は、立ち上がって叫んでいた。
どんなに叫んでも自分の声が聞こえない。
身体の内側で振動音が聞こえるだけだった。
店内にいる全員が武を見ていた。
武は、逃げるようにコーヒーショップをあとにした。
静かで怖かった。
武は歩きながら音を探した。
誰かの声、車の音、店のBGM、救急車のサイレン……どれも聞こえなかった。
細い路地を歩いていたら、突然、誰かに腕をつかまれ引かれた。
武の身体はよろよろと塀にぶつかった。
その直後、車が通りすぎた。
「危ないよ」
武の腕を引いたおじさんの口がそう動いていた。
おじさんは、武の耳と自分の耳を指差しながら何かしゃべっていた。
おそらく、「イヤホンしてたら車のクラクションが聞こえないだろ」みたいなことを言っているのだと武は思った。
自宅に帰り、テレビをつけた。
もちろん聞こえない。
しかし、バラエティ番組は字幕が多用されているし、ドラマもなんとなく分かる。
ぼーっとテレビを眺めながら男の言葉を思い出した。
ほめ言葉しか聞こえない。
男は確かにそう言っていた。
それなのに、生活音が聞こえないとは一体どういうことなのだ。
だまされた。武はそう思った。
こんなことで自分の人生が奪われてたまるものか。
武は洗面所で石けんを泡立てた。
そして、耳とイヤホンの間に泡を押し込むようにこすった。
ゆっくりとイヤホンを回したら、耳の皮膚も一緒に動き強烈な痛みが走った。
水で洗い流すと、耳が赤くなっていた。
お湯で流しても、ホットタオルで温めても、逆に押し込んだりしても何をしてもイヤホンは武の耳から外れることはなかった。
布団の中で武は涙を流した。
次第に嗚咽が激しくなったが、それさえも聞こえないことに悲しみから激しい怒りに変わった。
次の日、武は、朝から昨日のコーヒーショップに居座った。
コーヒー二杯とサンドイッチだけで閉店まで過ごしたが、男が現れることはなかった。
次の日も同じように男が現れるのを待ったが期待は外れた。
三日目、無音の世界に慣れている自分に気づいた。
よく考えると、人との関わりを避けていた武にとって、聞こえないことはそれほど不便でもなかった。
誰かと会話をすることもないし、店員とのやり取りは指を差して注文すればいいし、買い物はすべてネットで注文すればよかった。
そんなことを考えていたら、男が店に現れた。
武が立ち上ると、男は待ち合わせでもしていたかのように武に近づいた。
「イヤホンしたのですね。どうですか?」
武は三日ぶりに声を出した。
「どうして生活音が聞こえないんだ? 自分の声も聞こえない。ほめ言葉しか聞こえないイヤホンなんだろ? このイヤホンを外してくれ!」
男は、ゆっくりと首を横に振った。
「悪口というのは捉え方次第です。何を言われても良い方に解釈してしまえば、それは悪口ではなくほめ言葉になります。つまり、あなたは日常会話や生活音、川のせせらぎさえも自分への悪口だととらえているということです。自分のしゃべる言葉でさえも自分への悪口なのです。自分を変えない限り、あなたは一生音が聞こえません」
男の口元を凝視し、読み取ろうとしたが、武は男が何を言っているのか分からなかった。
武は、バッグからメモ帳とペンを取り出し男に差し出したが、隣に座っていたはずの男はいなかった。
店内にも窓の外にも男の姿はなかった。
一瞬で男が消えたことに武は夢でも見ていたのではないかという気持ちになったが、耳にはイヤホンが装着されていて、「あー」と声を出しても自分の声が聞こえなかった。
あー、あー、あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
武は無音の世界をひたすら走った。
武の耳には聞こえないのに、人々の口はせわしなく動いている。
みんな武を見て口を動かしていた。
武の頭の中では、動く人々の口元と、自分の悪口が永遠に再生された。
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