黒猫とわたし

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 二度目の春を迎えたある日の午後。今年も綺麗に咲いた公園の桜の木の下で、柔らかい日差しを浴びて、膝に一冊のペーパーバックを置いたまま考え事をしていた私に、初めて言葉をかけてくれた人がありました。 「お茶でもどう?」  ハッとして顔を上げると、それは同じアパートに住む若い奥さんでした。隣には三歳くらいの、大きな黒猫のぬいぐるみを抱いた女の子が私を見つめています。その子にも見覚えがありました。数日前に同じこの場所で私が『猫、かわいいね』と声をかけた子です。  それをきっかけに、最初は遠巻きに見ていた近所の奥さん達とも次第に打ち解けてきて、定例のお茶会に呼んでもらえるまでになりました。温厚で親切な彼女達は代わる代わる私を、車でマーケットに連れて行ってくれたり、生活に必要な手続きを教えてくれたり、話相手にもなってくれます。これでもう寂しくありません。  例えるなら人生は自転車を漕ぐのと同じで、走り出す瞬間はしんどくて大きな力が必要ですが、一定の速度まで達してしまえば、あとは最低限の力だけで楽に走り続けることができるのです。ひとたび動き出した私の人生は快適なスピードにのって、穏やかで平和な日々が流れていきました。  また一年が過ぎる頃には、長い旅の終りを告げる小さな光が見えてきました。主人のここでの仕事ぶりや真面目な人柄が本社から高く評価され、今年いっぱいを無事に勤めあげることができれば、日本の将来性のある部署に転属されそうだということです。  うれしかったことはまだまだあります。その中でも一番うれしかったことといえば――この地で我が子を授かったのです!女の子です。こうしている今も、ふと視線を感じて振り向くとじっと私を見つめています。話しかけると、キャッキャと笑いながら両手を伸ばしてきます。なんて可愛いのでしょうか!  不安と寂しさに震えていた冬を乗り切り、苦しい坂を上りきれば、こんな御褒美が用意されていたのですね。神様、有り難うございます!  もう昔の、困難や悲しみにぶつかる度に自分の夢の世界に逃げ込んでいた無力な少女ではありません。この子さえいれば、私はそれだけで前を向いて生きていくことができます。  でもひとつだけ、気になることがあるのです。いえ、本当に些細なことなのですが・・・。  この子の喉元に、上を向くと見えるのですが、小さな痣のようなものがあるのです。黒くて、丸い形をしていて、そう、まるで(ベル)のような・・・。    
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