黒猫とわたし

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 もうすぐ五月だというのに朝晩は暖房なしで過ごせない寒さが続きました。この国ではたとえ夏になっても日本のような日差しはなく、その夏もあと三か月後には過ぎ去り、その後はどんどん一日が短くなって、長く厳しい冬に向かうのです。  日本にいれば、瞼に温かいお日様を感じながらベルと抱き合って、一年中でもまどろんでいられたのに・・・。気が付けばそんなことばかり考えている私がいて、慌てて自分を戒める繰り返しでした。  ある日曜日の午後のことです。突然実家の母から電話がかかってきました。 『急にごめんね。まだ寝てなかったかしら』  その時日本では夜の十一時でした。思うに母は気が動転して、時差の存在を忘れていたのだと思います。どうしたの?と私が聞くと、堰をきったように涙まじりの声で話し出しました。 『ベルが昨日から帰ってこないの!少し目を離したら外に出ちゃって、どこを探してもいないの!ごめんね、ごめんね・・・』  瞬間、心臓が早鐘のように打ち、鼓動が頭に響きました。普段ならベルは独りで遠くへは行かないし、付近の交通量も多くはないのですが、が絶対に起こらないとは言い切れません。私の頭には交通事故という恐ろしい考えが浮かんでいました。 「F動物病院には聞いてみた?」  私の住んでいた町では、怪我をしていたり道で迷っていて保護された動物に関する情報は、たいていそこに寄せられるのでした。 『聞いたわ。だけど知らないって』 「保健所のほうは?」 『きちんと首輪をしている猫なら、間違って捕獲されたりはしないでしょうって』  ああ、今すぐ日本に帰ってベルを探したい!私の声が聞こえれば、何処かからひょっこり出てきてくれるかもしれないのに・・・。そう思う自分自身を、私は必死に抑えていました。目を閉じて、爪が皮膚を破るまで手をぎゅっと握りしめながら。  少しの沈黙をまるで永遠のように感じた後、私は精一杯の努力をして、なんとかこれだけの言葉を絞り出しました。 「きっと大丈夫よ・・・。できることは全てやったんだから、後は無事を信じて待ちましょう。そうよ、親切な人に保護されているのかもしれないわ。だから・・・だからそんなに自分を責めないで」  受話器を置くとKさん、主人が何か異変を感じたのか声をかけてきました。 「どうかした?なにか悪いしらせ?」 「ううん、何でもないの・・・」  すぐに答えました。涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼に見られぬように、壁の方を向いたままで。 「なんかね、テレビのね・・・番組予約の仕方が分からなくなったんだって」  私は顔をぐっと上げました。次々と溢れては落ちる涙を止めるすべも知らないままに。 (こんな顔をしてたらだめよ!毎日神経をすり減らしてへとへとになるまで頑張っているKさんを元気づけてあげられるのは私だけなんだから・・・!)  冷たい奴だと思われるでしょうが、私のような今まで何一つ不自由なく生きてきた娘が異国で暮らしを立てていくには、それ相応の覚悟が必要だったのです。私は全てを投げ打つ覚悟でこの地に赴いていました。
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