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「ライム、キスをしましょう」
深紅の天平付きベッドに隣同士。ネグリジェの裾が私の足に当たるくらいの距離で、頬を桜色に染めたお嬢様は、私をサファイアのような澄んだ瞳で見つめている。
「わ、私は――」
汗が背中をつたう。私は膝の上で拳を握りしめていた。
「えっと」
私の頬もどんどん熱くなってくる。これは恥ずかしいからなのか、私がお嬢様のことを好きだからなのか、それとも、「この鈍感脳内薔薇色少女小説大好きお嬢様が。人の気も知らないでずかずか距離を詰めてきやがってこっちはもっとそういうのちゃんとした雰囲気と場所で大事にやりたいんだよ、なんでわかんねえんだよこの完璧クロワッサン頭」という怒りの感情からなのか。
そもそも!と、私はお嬢様のベッドの周りに転がっている少女小説を睨みつけた。こいつが全部悪いのだ。お嬢様が鈍感脳内薔薇色少女小説大好きお嬢様になってしまったのも、この紙の束が悪い。
「私の王子様は執事で大好きな人」
タイトルから頭が妄想恋愛ピンク野郎が書いたことが伝わってくるふざけたタイトル。これは、この町で最近非常に人気の少女小説で、全3巻、淑女からお嬢様のような貴族に至るまで幅広く人気を得ている恋愛小説だ。お嬢様のことが好きなのに自分は執事だからお嬢様のことは好きになってはいけないと理性全開で無表情で淡々と仕事をこなす完璧執事と、執事のことがずっと大好きだけど好きと伝えるのが恥ずかしいため色々な手を使って執事をドキドキさせようと奮闘するお嬢様の話だ。二人は両想いだというのにそれをお互い伝えない、伝えることができないもどかしさとお互いが本当に心から相手のことを愛していることが分かる描写の巧みさで大人気。作者は不明となっていて謎に包まれている。小説を出版する身分の人間じゃないからなのかもしれないし、他に素性を知られては困る理由があるのだろう。
例えば、“自分が仕えている世界で一番大好きなお嬢様との恋愛を妄想して自分を男の執事と過程して妄想全開で書いた小説がたまたま編集の目に留まって出版されてしまった”なんていう特殊な問題を抱えている1人の哀れなメイドのような人間が書いているのかもしれない。
しかもその小説が出版される前は、モデル本人であるお嬢様が喜んで読んじゃっているし、目の前で感想とか言ってくるし、執事が本当に好きとか言ってくるとか……そんな展開が待っているなんて作者である“私”、ライムは夢にも思わなかったのだ。
一週間前。今までキスどころか男性と付き合ったことさえないヴェルサス家のご令嬢、ヴェルサス・クラリッジお嬢様がキスをしようなんて言い出してしまったのは本当にこの小説のせいなのだ。
*
遡ること一週間前。
「ライム、ライムライム!本当にこの小説面白いのよ、なんかこう胸のここがね、ここがきゅんきゅんするの、ねえ、聞いてよ、聞いてるの?」
今日もお嬢様は私が完璧にセットした金髪楯ロールを揺らして絶好調だ。吸い込まれそうなくらい深い海のような瞳が、太陽の光を浴びた水面のようにキラキラと輝いている。ただでさえ端正な顔立ちなのにこうも顔を近づけられると口の締まりがなくなるのでやめてほしい本当に。しかも作者の前でずっと語っているの感想を。可愛いし嬉しいし本人だしバレないかとひやひやするし、かといって出版を辞めると大好きなお嬢様が悲しんじゃうし、情緒がぐちゃぐちゃのまま、私は「私の王子様は執事で好きな人」略して「わたしつ」の執事のように両手で組んだ手で手の甲をつねっていた。
「みて、手を繋いだのよ、庭で手を繋いだの、しかもバニラの方からよ!「庭を一緒に見ましょう」って、さりげなくね!信じられる?男性の執事のラクトの方じゃないのよ!?」
「そうなんですね」
「バラの庭園が二人で手を繋いで歩くといつもと全く違う景色に変わったって書いてあるの!楽園のようですって!どう思うかしら!?素晴らしい経験ではなくて?ねえ、ライム!」
「へー」
私の腕を掴んでぶらぶら揺らしてきゃあきゃあと喜んでいるお嬢様は、桃色のレースのドレスを物ともせずゆらゆらしていてまた転ばないか危なっかしい。まあ、絶対そんなことはさせないけど。
「ねえ、ライム、ちょっと来て!」
「はい、お嬢様」
お嬢様は私の腕をひいてずんずん廊下を歩いていく。廊下の突き当りで使用人たちが何かこっちを見て話しているようだ。
「ライムさんはまたお嬢様に引っ張りだされているのか」
「お転婆なのも考え物だな」
「ライムさん仕事完璧で憧れるわ。あんなにお嬢様に付きっ切りで他のメイドや執事の仕事を手伝ってくれるし」
私の表情が乏しいせいもあるが、同じ使用人たちにはお嬢様に振り回されている可哀そうな専属メイドと思われている。しかし赤いバージンロードのような廊下を毎日毎日お嬢様に引っ張られて歩くたびに、私はこの仕事に就いてよかったとこの上ない幸せを感じているのだ。
ヴェルサス家の庭園はこの季節はバラで埋め尽くされていて大変綺麗である。色とりどりのバラが計算されて植えられており、庭園の中にはバラの甘い香りが立ち込めていて胸いっぱいに吸い込みたくなる。
屋敷にお客が来るたびにこの庭園を必ず褒めて帰る程だ。お嬢様も大変気に入っていてこの季節を楽しみにしているので、私も何かできないかと庭師に最近手入れのコツを聞いて勉強している。
「ライム、この庭園作中に出てくるバラ庭園みたいなの」
「そうなんですか」
はい、ここが小説の現場です。というかわたしつの全ての現場はここです。
「バニラは庭園のバラが大好きなお嬢様なの、私も気持ちが分かるからここに来ると小説の中のヒロインになったみたい。
はい、ヒロインです。今も昔も作中でもあなたは私のヒロインです。
「ねえ、ライム」
お嬢様は私にすっと顔を寄せてきた。普通にドキドキして思わず顔をよけるとお嬢様は照れくさそうに自分の白い手を差し出してきた。
「バニラの気持ちを経験してみたいの、好きな人と手を繋いでバラ庭園を歩くと見慣れたバラ庭園は楽園のように見えるそうなの」
「す、は、はい」
え?今なんて?好きな人?好きですけど、友達もいなくて身寄りもなくて孤児院からヴェルサス家に連れてきてもらって、荒んだ目で不愛想に挨拶をした私に、純真無垢で敵意のない天使のような笑顔を向けて手を握ってくれたお嬢様のことが世界で一番好きですけど。小さい頃からずっと一緒に過ごしてきて恋愛感情があることを伝えるどころか、好きであるという友愛の言葉さえも伝えることができなかったけどずっと好きですけど?
脳内で早口言葉のように言葉が紡がれてはパニックを起こしているが、私は必死に背後で手の甲をつねって耐えていた。
「私にはまだラクトのような王子様は現れていないから、ライムが代わりに手を繋いで!」
はー?そういうことかー?はー?私が好きな人で王子様なわけないですよねー?そうですよねー?はー?
純粋無垢な笑顔でお嬢様は尚も私に手を差し出してきた。
「ええ、じゃあ私なんかでよければ代わりで」
若干ネガティブな言い方になってしまったが、私はお嬢様の手をとった。お嬢様の手は赤ちゃんのように柔らかくて小さくて、私の固い指とは違って大事にしないと折れてしまいそうだった。
「ライムの手、私より少しおっきいのね」
「はい」
もうこの笑顔がみれたらなんでもいいです。お嬢様が私を引いて見慣れたバラ園を歩いていく。私は歩くスピードがお嬢様より速いが、お嬢様はテンションが上がると私より足が速くなる。それなのに今日は私も、お嬢様も歩く速さがゆっくりで、祝福されているようなバラの小道を2人で1歩1歩大事にするように歩いていく。
「本当にここのバラはいい匂いね、甘い匂い、私この庭園の匂いを瓶に詰めておきたいってここに来るたびに考えるわ」
「匂いは瓶に詰められませんが、バラの花びらを3時のティータイムの紅茶に浮かべてお出ししましょうか」
「素敵な考えね、ライム。ぜひそうして頂戴」
風がバラの香りを運んで、色とりどりのバラが私たちを迎える。お嬢様のひんやりした手は、私の手の熱が伝わって、少しずつ色を取りもどしていた。それだけで私はなんだかドキドキして、いつもお嬢様には手を引かれているが、まるでこれは――。
「デート」
「え?」
「デートしているみたいね、っていうのよ。バニラは」
「そ、そうなんですね」
デートか、本当に自分で書いておいてなんだが、ただ手を引かれていつもの場所を一緒に歩いているだけで満ち足りていたのに、好きな人と一緒に手を繋いで、同じ匂いを感じて、同じペースで歩いて、同じものを見て感動して、全身から薔薇が咲きそうな程に私の思いは満ち溢れていた。
「好きですよ」
思わず口に出した言葉。ずっと言いたかった。ずっと好きだった。好きだ、お嬢様のことがずっとずっとこれからも。お嬢様は、きっと泣きそうになっている私の顔を見てぽっと頬を赤らめて、目を潤ませた。
「私も大好きよ」
お嬢様は私の手を自分の小さな手で優しく包んだ。
やっと私の思いをお嬢様に伝えることができた。今まで小説で赤裸々に書いてきた自分のお嬢様への思いを、このバラの楽園のような庭園デートによって伝えることができた。赤いバラの花びらが風で舞い、深紅の風が私たちを包んで、私たちの両想いを祝福していた。
使用人とお嬢様、身分が違うし伝えたらこの関係が崩れてしまうんじゃないか、色々考えて言えなかった。でも今日はこの庭園とずっとどうしようかと思っていたわたしつのお陰でこうしてお嬢様に思いを伝えることができた。
「ライムもやっぱり好きだったのね」
「はい、勿論です。ずっと前から」
「この庭園のこと」
「は?」
私は思わず立ち止まった。そして先ほどの小説のワンシーンのような深紅の風は何故かぴたりとやんでいた。
「聞いたわよ、この庭園の手入れについて庭師の人に聞いているって」
「え、はい」
「この庭園のことが大好きだから自分もお世話しようと思っているんでしょう?知っているわよ!そんなこと、私はライムとは長い付き合いだものね」
「……は、はひ」
「どうしたの?急に膝をついて、あ、なに反対の手にあるこの赤い痕は!腫れているわ!早く屋敷に入って手当しましょう!」
脱力した。そうだった、私の小説のバニラお嬢様は、この私の好きなクラリッジお嬢様の「鈍感」である部分をあえて抜いているのだった。はあ、そうだった。はあ……この鈍感脳内薔薇色少女小説大好きお嬢様め。心底心配そうに私の手を引くお嬢様は、いつもよりペースが速くて、私は引きずられるように理性の勲章の手当にお嬢様の部屋へと連れていかれたのだった。
*
と、手を繋ぐだけでいい雰囲気だったのに、いきなりキスとはどういう了見だという話なのであるが、お嬢様はこのわたしつで起きたことをやりたくて仕方ないのである。しかしいきなりキスだと私の心臓が持ちそうにないので、
「それはできません、お嬢様」
丁寧にお断りした。
「えー、まあそうよね、最新刊で寝ているラクトのところにバニラはこっそりキスしているところがいいのよね、これは、うんうんそうよ」
ふー、よかった。ベッドの上でキスしましょうなんて好きな人に真剣な顔で言われて溶けちゃうところだった。手を繋いだだけでドキドキしてここしばらくお嬢様とちょっとぎこちなかったんだから。
「じゃあ私はこれで」
「待って」
お嬢様は、尚も私を自分のベッドに座らせようとしてくる。
「なんですか?」
お嬢様は、私の腰にぎゅっと抱き着いてきた。そのまま私は抱きしめられたお嬢様にベッドに押し倒される。
「え?へ?」
「ねえ、なんか怒ってる?」
「なん、なんで、ですか」
なんですかこの状況はと言いたいが何も言えない。いやいや先週手を繋いで大進展したのにいきなりベッドに抱きしめられて押し倒されて私はとにかく何を言いたいかっているとパニックで何も言うことができなかった。思考停止こんなシーンは私の小説にはない、どうしよう何が起きている?これがむしろ小説のシーンなのだろうか。本当の現実はどこにいったのだろうか。
「だってバラの庭園を見に行ってからライム、少し私によそよそしい気がして」
「い、いつもと変わりませんよ」
「本当は仕事がしたいのに私が邪魔してる?」
「してないですよ、私はお嬢様と一緒にいられるのが楽しいんです」
「バラの庭園も、仕事だから付き合ってくれたの?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!あの時のことは一生忘れません」
あれ、なんか自分の気持ちをすらすら言葉にできている?というかむしろ私、とんでもないことを言ってないか?
「そう、よかった」
お嬢様はやっと私を開放してくれた。心臓に悪い。またこれをやられたら自分の言いたくないことや小説を書いているのが実は私だってことや誰にも言えない秘密なんかも全部吐き出してしまいそうだ。恐るべしお嬢様の抱きしめベッド押し倒し質問。幸福度と緊張とドキドキが高まって心拍数が跳ね上がるのが特徴。
「じゃ、寝る前にまた小説を読んで寝るわ」
お嬢様はピンクのネグリジェの裾をふわりと揺らして私の執筆した読んでボロボロになっているわたしつの1巻をもって微笑んだ。
「はい、おやすみなさい。本当にそのお小説がお好きなんですね」
「ええ、だってこの小説に出てくる執事のラクトが、あなたにちょっと似てるもの」
先ほどの出来事で胸を押さえて退出しようとした際に、私ははたと振り返る。
鳥肌が背中を駆けずり回り、私の背中はぶわっと汗をかいて、全身から薔薇が噴出しそうなくらい動揺し、それを隠すことなんて当然できなかった。
「あ、え、あ、わ」
「おやすみ、ライム」
扉を閉めた先で私はあの庭園の時のように脱力して膝をついた。
「お、お、おやすみなさい」
寝れるわけがない、あの言葉の意味を知るまでは。しかし私にはお嬢様を抱きしめてベッドに押し倒して質問するなんて芸当ができるわけもなく、もんもんとした気持ちを執筆で消化することしかできないのだ。
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