化粧人

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 幸い家の者がいなかったのですぐさま逃げ出した。いつも外で若旦那とだけ会っていたので、他の人間には顔が知られていない。これ幸いと化粧人の仕事を持ちかけようと思っていたのだが。 「憎いあなたに大切な金を触られそうになって、頭に血が上ったのでしょう。ところで、どうしてあなたに真っ先に襲い掛からなかったのでしょうね」 「あ?」  確かに恨まれていたのは自分だ。妹の目は相変わらず冷たい。なんだか気味が悪くなって外に出ようとしたが、なぜか閂を抜くことができない。 「化粧人が部屋を閉じたら、その戸を閉めた者にしか開けることができません。まして、あなたは尚更」 「何を言っている」 「ここに来てもまだ気づいていないのですか。なぜ家の方たちがあなたに見向きもしなかったのか。なぜ若旦那様があなたに襲いかからなかったのか。若旦那様は悪霊になりかけていました」  スミは、樒をくるくると指で回す。 「悪霊は、死者には見向きもしないのです」  死者。自分が? 「はあ?」  だが確かに家の者たちは己に見向きもしなかった。見えていなかったのか、自分のことが。悪霊がおそいかかるのは生きた人間だけだと幼い頃に父親から聞いたことがある。 「揉み合っているときにあなたも頭を殴られたのではないですか。酒に酔っていて覚えていなかったとは言え、己が死んでいることに気づかないとは。仮にも化粧人の血筋の者が情けない。いえ、化粧人だからこそでしょうか」  死んだのか、自分は。そんなはずは……だがしかし、確かに殴られたような気がする。頭がフラフラしたので一旦昼寝をして、そして、そして……。 「化粧人は化粧するだけの生業ではありません。亡くなった方の死出の旅支度を手伝いをする者。しかし同時に亡くなった方を起こしてはいけないという大切な役割もある。それに失敗したら責任を取って後処理をしなければなりません」  後処理。その言葉になんだか嫌な予感がして必死に戸を開けようとするがまったく開かない。スミにしか開けることができない。 「ここを開けろぉ!」  油断しているだろうと勢いよく襲い掛かる。千両箱を持ち上げて振り上げるが、スミは口を開く。 お静かに。
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