第五話 記憶~夕暮れ~

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 少し悩んだようにためらってからーーそっとあるフレーズを口にした。 「ーー『薔薇の花の名を、たとえ他の名で呼んだとしても、同じ芳しい香りがするだろう』……それでも、僕の名前は必要?」  一瞬わたしはあっけに取られた。  まさか名乗る代わりに、ある戯曲の『名前を捨てる』ワンシーンを引用してくるなんて。  その戯曲はここ数年、話題をさらっている気鋭の作家の作品だった。  敵対する家の子息と娘が恋に落ちる話。  そのなかでもとくに有名なシーンだ。  いま目の前にいる彼のように、子息が娘のベランダに忍び込む直前の独白。  家の名前などというものに縛られるよりは、体の一部ですらない名前など捨ててほしいと願うときのセリフ。  今、わたしたちは恋人どころか、初対面でしかないけれどね。 「……お互いに『仇敵どうしの家柄』なら、わたしはあなたの名前を知らない方がいいかもね」  わたしはクスッと笑って答えた。 「今はそういうことにしてくれる?」  彼はすまなそうに小さな声でそう言った。
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