144人が本棚に入れています
本棚に追加
少し悩んだようにためらってからーーそっとあるフレーズを口にした。
「ーー『薔薇の花の名を、たとえ他の名で呼んだとしても、同じ芳しい香りがするだろう』……それでも、僕の名前は必要?」
一瞬わたしはあっけに取られた。
まさか名乗る代わりに、ある戯曲の『名前を捨てる』ワンシーンを引用してくるなんて。
その戯曲はここ数年、話題をさらっている気鋭の作家の作品だった。
敵対する家の子息と娘が恋に落ちる話。
そのなかでもとくに有名なシーンだ。
いま目の前にいる彼のように、子息が娘のベランダに忍び込む直前の独白。
家の名前などというものに縛られるよりは、体の一部ですらない名前など捨ててほしいと願うときのセリフ。
今、わたしたちは恋人どころか、初対面でしかないけれどね。
「……お互いに『仇敵どうしの家柄』なら、わたしはあなたの名前を知らない方がいいかもね」
わたしはクスッと笑って答えた。
「今はそういうことにしてくれる?」
彼はすまなそうに小さな声でそう言った。
最初のコメントを投稿しよう!