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結婚記念日
「なぁ、誠、最近の学校生活はどうだ」
居間で寝転びながらスマホを触っていると、俺の父親はいきなりそう言った。
「どうって、別に普通だよ」
「恋人とかはできたか?」
「全然。父さんは高校時代に恋人とかいたの?」
「いや、いなかった。だからこそ、高校生のカップルを見ていると羨ましいな、と思ったりするんだよ」
「ふーん」
父さんはカーテンを開け、朝日を浴び、目を細めながら牛乳を飲んでいる。そんな姿が少しかっこいい。
「誠には、高校の内から恋人を作って欲しいと思ってる」
「母さんみたいな人?」
「そうだ。俺と母さんみたいに、心の底から深い関係をつくれる人を見つけて欲しい。それが幸せにつながると思うから」
「父さんは、母さん以外の人に目移りしたりしないの?」
そう俺が聞くと、黙って食器を洗っていた母さんが喋り始めた。
「お父さんはお母さん一筋だから、不倫なんてありえないわ。誠には、お父さんみたいに誠実な人間になって欲しいなぁ」
「そういうことだな」
母さんの言葉を聞き、満足そうに頷く父さん。
いつも通り、円満な夫婦。
「わかったよ、父さん、母さん。俺、父さんみたいに誠実な人間になる」
これが2年前の俺と両親の会話。
本当に俺の両親は仲良しで、俺は幸せだ——。
「よし、買えた」
今日は6月15日。両親の結婚記念日。
俺は近所のショッピングモールで、予め注文していたペアグラスの品を受け取った。透明なグラスに、父さん用は緑色の字で"Minoru"、母さん用は紫色の字で"Sachiko"、と名前が入れられている。緑色は父さんの、紫色は母さんの好きな色だ。
今年で両親が結婚してから20周年らしく、プレゼントを贈ることにした。
今まで俺が生まれてからの18年間、こんな風にプレゼントを贈ることなんてなかったし、感謝の言葉でさえあまり伝えられていない。
俺は両親のことが大好きだ。父さんはいつも明るく家の雰囲気を和やかにしてくれるし、母さんは優しく家のことを包み込んでくれる。両親はとても仲が良く、今でも一緒の部屋で寝ているし、週1回ぐらいは2人でデートをしたりする。俺のいる前で手をつなぐことなんて当たり前で、たまに抱き合ってキスをしたりする。
あの歳であんなにラブラブな夫婦は、なかなかいないのではないだろうか。
今年で父さんは48歳、母さんは43歳だというのに‥‥。
今日ぐらいは、感謝の気持ちを伝えよう。
そう思い、俺はペアグラスと一緒にメッセージカードを書いた。
メッセージの内容は、『結婚20周年おめでとう。これからも仲良しの夫婦でいてください』だ。
両親は喜んでくれるだろうか、メッセージカードなんて恥ずかしいな、と思ったりもする。が、もう注文し、商品を受け取ってしまった。
今更、後に引けるはずもない‥‥。
俺は、紙袋に入ったお祝いの品を持ち、ショッピングモールのエントランスを出た。
近所の自宅まで、徒歩で家に帰る。
両親に「今日は留守番しといて」と頼まれていたが、少しくらい大丈夫だろう。自宅までは徒歩で片道10分もかからない。
母親は温泉に行くのが趣味で、今日の午前10時ごろに家を出ていた。今日も温泉に行ってリラックスしてくるらしい。
父親はゴルフが趣味で、今日の午前11頃に家を出ていた。今日は打ちっ放しで練習をするらしい。
いつもは留守番をしておいて、なんて言わないのに、なぜ今日はそんなことを言ったのだろうか‥‥。結婚記念日と何か関係があるのかな‥‥。
そんなことを思っていると、視界の先に見覚えのある人物の姿が見えた。父さんだ。
白色のシャツに黒のパンツを着ている。ファッションに疎い父さんは、いつもそんな感じのシンプルな格好でいる。目立たない格好かもしれないが、逆にわかりやすいかもしれない。
父さんに喋りかけようと走って近づこうとしたとき、父さんが見覚えのない女性と二人で喋っていることに気づいた。
後ろ姿しか見えないので顔はわからないが、金髪ロングで高校の制服を着ている。セーラー服に短い丈のスカート、ルーズソックスに黒のローファー。
あの人は一体誰なのだろうか?父さんとはどういう関係なのか‥‥?
気になった俺は、隠れて少し後をつけることにした。父さんのことを信じていないわけではないが、もしものこともあるのかもしれない。あのラブラブな両親に限って、不倫なんてないと思うけど‥‥。
尾行をしてからしばらくし人気が少ないところにくると、女子高生は父さんに抱きつき腕を組んで歩き出した。父さんも満更でもない様子で、頬をニヤつかせ、女子高生の頭を撫でている。更に女子高生のことを抱き抱え、路上でキスをし始めた‥‥。
——俺はショックだった。あんなに明るくて家族のことを大切にしてくれる父さんが不倫だなんて‥‥。しかも、相手は女子高生‥‥。
あんなにニヤけた父さんの顔、母さんと一緒にいるとき以外に見たことがないのに‥‥。
今までの父さんの明るい発言が嘘のように色褪せ、仲良しだった両親が幻のように感じてきた。
母さんのことが好きだった父さんはどこに行ったの?あれは嘘だったの?父さんは俺に誠実な人間になってほしい、とよく言っていたけど、父さんは誠実じゃなかったの?俺が大好きだった、仲良しの父さんと母さんはハリボテだったの‥‥?
いつの間にか俺の目には涙が溢れていた。立ち尽くし、ぼんやりと父さんと女子高生の姿を眺める。2人は何やらラブホテルに入ったようだった。俺は咄嗟にスマホでその様子を写真で何枚か撮った。
俺はしばらく顔を上げることができなかった。いつの間にか、ペアグラスが入った紙袋は涙でビショビショになっていた。
はぁ‥‥。
俺は、父さんに初めて失望した。
俺は一度家に帰り、ビショビショになった紙袋を自分の部屋に適当に放り投げた。
今すぐにでもペアグラスを粉々に砕いて、メッセージカードを燃やしてやりたい気分だった。
これから俺はどうすればいいのだろうか‥‥。見て見ぬふりをすることもできるが、本当にそれがこの家庭のためになるのだろうか‥‥。両親にそのことを言ったとしたら、2人はどうなってしまうのだろうか‥‥。幸せな家庭は、再び訪れるのだろうか‥‥。
——悩んでいても仕方ない。
誰かに打ち明けたい、そう思った俺は、高校の友達の大川翔太に相談することにした。メッセージを送り、近所の喫茶店に来てもらう。
喫茶店で待っていると、午後3時ごろ、大川はやってきた。
「お待たせ。今日はどうしたの?」
大川はやってきて一番にそう言った。店員さんに水をもらい、ミルクティーを注文している。
「いや、相談事があって‥‥」
俺にとってはなかなか言い出しづらいことで、続きを言うことをためらった。誰かにこのことを言うのは、父さんの不倫を認めることになり、それが嫌だったのかもしれない‥‥。
大川はそんな俺の様子を見ながら、言葉を急かすことをせず、俺から言葉を発するまで待ってくれているようだった。
「実は、俺の父さんが不倫をしているところを見てしまって‥‥」
「マジかよ。それは大変だな」
大川は他人事みたいにそう言った。大川はいつも適当な感じでそれが面白いのだが、こういう場合はもっと真剣に聞いて欲しい‥‥。
「他人事みたいに言わないでくれよ」
「いや、それはすまん」
「今日たまたま歩いてたら、父さんのことを見つけて、そしたら女子高生と歩いてて、腕を組んだり、頭を撫でたり、抱き合ったり、しまいにはキスまでし始めたんだ‥‥」
俺は恐る恐る、今日見た父さんの不倫のことを口にした。大川は表情ひとつ変えずに、グラスのミルクティーを飲んでいる。
「俺、どうすればいいかな‥‥」
「まぁ、どうかなー。そもそも勘違いなんじゃね?直接、話かけて聞いてはないんだろ?」
「それはそうだけど。あれは絶対、父さんだよ。父さん以外にあり得ない‥‥。——これ、今日撮った父さんの写真」
俺は大川に、父さんと女子高生の写真を見せた。何回か大川は自宅に来て父さんと喋ったことがあるので、顔もわかるはずだ。
「ありゃぁ、確かにねー。これは誠の父さんだねー」
「だろ。俺、マジでショックで‥‥」
「でも、誠のお父さんが不倫するとは思えないけどなぁ。だってよそ者の俺の前で誠のお母さんと、あーん、とかしてたし。何か事情があるんじゃないか」
「事情ってなんだよ。この写真は紛れもなく父さんで、見知らぬ女子高生とキスをしたり至らぬことをしている。それは事実だろ。そんなのどんな事情があっても、許されるはずがない」
俺はつい言葉を荒げてしまった。両親のこととなると、ムキになってしまうのかもしれない。
「まぁ、まぁ、落ち着いてくれ。俺が言いたのは可能性の話だよ。もしかしたら、今日誠が見た誠の父親はドッペルゲンガーで、父親じゃないのかもしれない。もしかしたら、誠の父親は何かめんどくさいことに巻き込まれていて、仕方なく女子高生とキスをするしかなかったのかもしれない‥‥。可能性だけで言ったら、誠の父親が許されうる理由なんていくらでもある」
大川はいつも通り、淡々とそう言った。
「もういいよ。お前に相談した俺が馬鹿だった。帰る」
俺は全く手をつけていない飲み物をテーブルの上に残し、喫茶店を後にした。俺が店を出て行く途中、「父親に直接確認した方がいいと思う」と大川は言っていた気がする。
自宅に帰り、俺は自分の部屋に篭って泣いた。ベットの上で体育座りになり、電気もつけずにうずくまる。
あー、なんでなんだ。
どうして父さんに限って不倫なんて‥‥。
俺は、どうしたらいいんだ‥‥。
見なかったことにするか?そんなこと俺にできるのか。そんなままで、両親に対して笑顔でいられるのか。ハリボテの仲良しを見せられて、俺は耐えられるのか‥‥。
それとも、父さんと母さんにこのことを言うか?でも、そうしたら離婚とかになるのかもしれない。そんなの絶対に嫌だ‥‥。
父さんと母さんには本当の意味で仲良しでいて欲しい‥‥。ハリボテの仲良しでいて欲しくない‥‥。
大川も直接父さんに確認した方がいい、と言っていた。
適当なやつだけど、大川の言うことも一理ある。
事情を話せば、父さんも改心してくれるかもしれないし、母さんも父さんのことを許してくれるかもしれない‥‥。
その時は、そう思っていた。
午後6時ごろになり、父さんは家に帰ってきた。
涙に溢れた目を急いで拭い、父さんの元へ行く。
「誠、ただいま」
父さんのいつも通り明るい声。それがいつも以上に明るく聞こえ、それが皮肉のようだった。
「父さん、少し話があるんだ‥‥」
「どうしたんだ、そんな真剣な顔して。——もしかして恋の相談か。恋の相談だったらいつでも父さんが乗るぞー」
父さんはいつも通りふざけていた。
ただ、さすがに今日はムカついた。今まで、不倫を隠しながら、そんな風な態度をとっていたなんて、そんなことを考えるとまたムカついた。
「ふざけないでくれ!」
俺は、初めて父さんに向かって怒鳴った。今まで聞いたことがない息子の様子を見て、父さんは戸惑った様子になる。
「今日、父さんどこに行ってたの?」
「どこって、言っただろう。ゴルフの練習に行っただけだよ」
「嘘だろ。俺にいつも誠実な人間になって欲しい、って言ってたけど、そう言ってた父さんはどこに行っちゃたのさ」
「嘘じゃない」
「はぁ‥‥。俺、今日見たんだ。父さんが女子高生と2人でキスするところ‥‥」
そう言うと、父さんは目を見開き、顔をこわばらせて気まずそうにした。
「あれはなんなの!」
俺は、強気な口調でそう言った。怒りの感情と悲しみの感情を父さんにぶつけることで、なんとか消化しようとしていた。
「いや、あれは違うんだ‥‥」
父さんはそう言うと、黙り込んでしまった。
そんな様子を見て、俺は悲しくなり泣いた。
俺が尊敬していた、誠実な父さんはどこに行ったのか。
大川が言っていたけど、事情なんかどこにもないじゃないか。父さんの気まずそうな表情、そしてこの沈黙、それが答えだろ‥‥。
「というか誠、今日は留守番しているように言っていただろ」
「そんなの知るかよ!父さんのこと大好きで、尊敬してたのに、見損なったよ!」
そう俺が言うと、父さんはいつものおちゃらけた感じではなくなった。息子の初めての様子を見て、戸惑い、悲壮感に満ちた表情をしていた。
「違うんだ。あれには事情があるんだ‥‥」
「何だよ事情って。まだ言い訳するつもりなのか。あんなことをして、母さんに失礼だと思わないの?母さんのことが大好きな父さんはどこに行っちゃたの‥‥?」
「母さんのことは大好きだよ」
「じゃあ、何で不倫なんてするの‥‥。父さんのことなんて大嫌いだよ‥‥」
そう言い、目に涙を溢れさせる俺。涙のことなんてお構いなしに、父さんのことをじっと見つめる。
父さんも泣いていた。真剣な俺の思いが届いたのかもしれない。
少し考え込むと、父さんは観念したように喋り始めた。
「いいか、誠、落ち着いて聞いてくれ」
真剣な父さんの眼差しを見て、俺は無言で頷いた。
「今から言うことは誰にも言わないで欲しい‥‥。結論から言うと俺は不倫なんてしてないし、女子高生とキスなんてしてない‥‥」
じゃああれは何だったんだよ、その思いを何とか飲み込み、真剣な表情の父さんを信じて無言で耳を傾ける。
「あの女子高生は——」
いつになく神妙な面持ちの父さん。続きの言葉を聞き、俺は仰天した。
「あの女子高生は——母さんだ」
え?という俺の思いが胸の中で反響する。
涙が止まり、一筋の希望が見えてくる。
確かにあの女子高生は、母さんと同じくらいの身長だった気がする。それに、俺はあの女子高生の顔をよく見ていない。
もしかしたら、本当に母さんなのかもしれない。
でも、何で母さんが女子高生なんかに‥‥。
「母さんは、女子高生の格好が好きなんだ。でもあの歳じゃ、女子高生の格好なんて普通できないだろう?だから毎年、結婚記念日という特別な日だけは女子高生の格好をして、2人でデートをすることになってるんだよ。本当は2人だけの秘密なのだが、誠に不誠実な姿を見せる訳にはいかないからな‥‥。ごめんな、誠、心配させて」
父さんは頭を深く下げて謝った。頭頂部が薄くなった父さんを見て、もう父さんも歳なんだな、と思った。
「ごめん、俺も勝手に勘違いして怒鳴ったりして‥‥。じゃあ、あれは不倫をしていたんじゃなくて、ただ父さんと母さんがラブラブだっただけなんだね」
俺は久しぶりに笑みを浮かべて、そう言った。
「そうさ。息子にラブラブとか言われると恥ずかしいけどな」
父さんは頭の後ろを掻きながら、照れ臭そうにそう言った。
「このことは母さんには内緒な。母さんに絶対に言わないように釘をさされているから。一度母さんに『誠にこの姿を見られたらどうする?』と聞いたことがあるんだが、その時母さんは『恥ずかしすぎて、顔が爆発する』と言っていた。母さんもたまには面白いことを言うだろ?だから、内緒にしてあげて欲しい」
「わかったよ、父さん」
笑顔で俺に語りかける父さんと、それを笑顔で聞く俺。
幸せに包まれていた。
大川の言葉を思い出し、事情って本当に存在するもんなんだなと思った。
父さんに直接聞いて、良かった‥‥。
午後7時ごろになり、母さんは帰ってきた。
手にケーキの箱を携え、わざとらしく「あー、今日も温泉気持ち良かった」と言っている。温泉なんて行っていないはずなのに。
母さんの後ろ髪には、金の髪が一本絡まっていた。金のウィッグの髪なのだろう。
そんな母さんの様子を見て父さんと目を合わせ、2人でニヤニヤした。
夕食を終え、家族3人でケーキを食べる準備をした。いつも通り仲良しで、あーん、をしている2人を見て、幸せだなと思った。
母さんがミルクティーを入れると言うので、2人にペアグラスをプレゼントした。
涙でビショビショに濡れた紙袋を見て母さんは「これ、何で濡れてるの?」と言っていたけれど、俺は「俺から父さんと母さんへの、愛の爆発だよ」と言った。
2人にメッセージカードを読み、渡した。
「結婚20周年おめでとう。これからも仲良しの夫婦でいてください」
父さんと母さんはとても喜んでくれた。
お揃いのグラスにミルクティーを注ぐ母さん。
美味しそうにケーキを頬張り、ミルクティーを飲む3人。
「俺、父さんと母さんのことが大好きだよ。いつもありがとう」
普段は恥ずかしくて言えない気持ちも、今日は素直に口にすることができた。
この家庭に生まれることができて本当に良かった、心の底からそう思った。
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