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ふたりはこれから風呂に入って、それから部屋で雑談するのだという。俺もこの後にやるべきことをひとつずつ頭に浮かべながら、男子寮までの短い道のりを歩いた。
そういえば、ひとつ気づいたことがある。俺が恐れるものをうひとつ挙げるとしたら、珠希さんのことだと思う。
もちろん彼女自体が怖いというわけではない。彼女の平穏を脅かされるのが怖いのだ。さらに突き詰めていうと、失ってしまうのが怖い。
ずっと恋人のままでいたい、というのとはまた違う、もっと根本的な意味で。
彼女はいつも朗らかに笑っているようで、まるで深淵に臨んでいるかのように、瞳に暗い影がさして見えることがある。それは強い諦観の念、とでもいうのだろうか、うまく言葉にまとめて表すことはできないのだが。
とにかく、彼女はいつかふっと幻のように消えてしまうのではと、悪い予感が顔を覗かせるのだ。
いや、それは俺もか。
立ち止まり、足元に落ちた影を見る。夜を照らすためのいくつかの光源が重なって生み出した影は、陽の光が生むものに比べるとはるかに薄く、輪郭がぼやけて、揺れているように見える。
俺もまた、この影のように曖昧で危うい存在だ。得体が知れないもの、世界を壊すものと恐れる人間もいることを知る機会もあった。それはおそらく、実直に誠実に生きていても拭うことができないもの。
それでも、恐くても、立ち向かうしかないのだが。
階段を上がって男子寮のドアを開け、キッチンで珍しくコーヒーメーカーを動かしていた最中の紺野先生に、戻りました、と挨拶をした。
先生はすでに入浴を終えたらしく寝衣に身を包んでいた。洗濯機の回る音が規則的に響いている。
「環くん。おかえり、ずっと待ってたんだよ」
「アイツが出たときにひとりだと怖いからって意味ですか?」
「あはは……そうとも言うね。ああ、君も飲むかい? 多めに淹れたから」
先生が自分のカップに並々とコーヒーを注ぎながら笑う。たちのぼる香りを吸い込むと、先ほどまでの不安が鎮まっていくような気がする。
「ありがとうございます、でも遠慮しときます。間違いなく眠れなくなるんで」
コーヒーを好む父親の影響もあってか、近頃はこの匂いが心地いいと思うようになった。やっぱり牛乳と砂糖はたっぷり欲しいが、好物にもなっている。
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