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ヤハからの積極的な誘いはグインにとっても初めてのことだった。
これまでヤハはグインに好きにさせて、何の干渉もしていなかったからだ。そしてそれが、ヤハにとって数十年の間続いていたことだ。
夜半、グインがヤハの部屋の扉をノックし、その室内に入るとその簡素さに驚いた。
ヤハはこの国の司祭であり、この塔の管理者だ。つまりこの国で宗教的には極めて高位にある。けれどもその室はわずか10畳ほどと狭く、簡素な文机と硬いベットが置かれるだけで、自らふかふかの枕などを買いこんでいたグインの部屋などよりもよほど質素だったのだ。
「随分シンプルな部屋だな」
「私も若いころはもう少し傲慢であったのだがな。今はこれで十分なのだよ」
「ふうん。それで話ってのはなんなんだ」
「お前は何故アデルに構う。どうせ明日にはお前のことなど覚えてないのだぞ」
「そんなことは知ってるよ。けれども俺は俺のやりたいようにやるだけだ」
ヤハはグインの瞳を真っ直ぐ見つめ、調べるように眺めた。けれどもグインの目はキラキラと煌めくだけだった。
ヤハは文机の上に置かれたポットからグラスに水を注ぎ、グインに勧める。
「最近な、罪悪感が酷いんだ」
「待て待て、それを俺のせいにするってのかよ。そりゃあ随分虫のいい話じゃねぇか」
「そうだな。本当にそうだ。酷い話だよ。グイン。お前はなぜそれほど、いや。そんなことより頼みがあるんだ」
「頼み?」
「私を殺してくれ」
「断る」
悲痛を滲ませるヤハの懇願をグインは一言で葬る。
「そうだよな。ああ。本当に心が痛い。えぐり出したいほどには。お前はこの国にこの教えが必要だとは思わないのか」
グインはまっすぐにヤハを眺め、そしてやはり何も言わなかった。
ヤハの言わんとするところはグインにも理解はできる。
数百年ほど前、世界は滅びかけていた。人はその心の芯を失い、浮草のように無気力で自暴自棄に陥っていた。そこでこの国が、正確にいえばこの国の教えが世界を征服したのだ。
それは物理を伴うものだった。この国の狂信者は聖戦を叫び、他国に攻め入った。けれども他国にとってすでに人の生命に価値はない。だから易易と攻め滅ぼされ、この国の教えに従う者はこの国の教えを芯として、旧来の人間の生活を復活させ、そして従わない者は全て粛清された。
そうして世界はこの国の教えだけになったのだ。
人口は激減したが、数百年ぶりに人間の出生率はわずかに死亡率を上回り、現在にいたるまで人間の数は微増傾向にある。神の教えに従った規則正しい生活が執り行われ、人々は死に向かうことなく前を向いて生活をしている。
つまりこの国では科学技術の中に宗教を内包するのではなく、宗教の下に科学技術を置くことによって人間は一定の規律を取り戻し、いわゆる『人間らしい』自活を始めた。
そしてこの国は神の実在を立証するためにある特殊な制度を置いた。
絶対的正義を既定したのだ。
絶対的正義の実在である経典は人としての拠り所となり、それに従わない者には必罰を与えた。そしてそれを神の行いとして再定義した。
そしてその規定を執行する者が『アデル』だ。
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