第11話 【里中の憂鬱】

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第11話 【里中の憂鬱】

「クソッ、やめだ、やめだ!」  里中は事務所兼自宅の雑居ビルで浮気調査の書類を作っている最中、嫌気がさして投げ出した。  他人の男や女の騙し合い、嘘で固めた夫婦や恋人たちの私生活を裏から覗いて現実を依頼者に突き付ける、どうでも良い、どいつもこいつもくだらない依頼ばかり持って来やがる。  ひとつの依頼でそれ相応の金額を吹っかける、決して安くはないその金額を平気で払う、それで探偵はメシを食っている、生きる糧を得ることが出来る……なんて馬鹿げた商売だ。  四角いリングの上で拳と拳で白黒ハッキリさせる、勝とうが負けようがそこには裏表のない真実がある。銭金なんか問題じゃない、そこは己同士の魂のぶつかり合いだ。  あまりにも、あまりにも落差が激し過ぎる……。  里中が現役時代、街中で絡んで来た酔っ払いのサラリーマン相手に大立ち回りを演じ、暴行容疑で逮捕され日本での現役生活が終焉した時、フィリピンに渡り向こうで再びリングに上がった時は「戻って来れた、またこの世界に。俺の居場所に……」と、あの時はとにかく嬉しかった。  事務所の机に足を乗せて酒を流し込む。刺激が欲しい、もっと生きているという刺激が……。そのまま、里中は寝落ちしてしまう、最近はこのパターンが増えていると里中自身が思っていることだった。  翌日、昼を回った頃に目覚めた里中は二日酔いでガンガン痛む頭を騙し騙し無理矢理引きずりながらシャワーで熱湯と冷水を交互に浴びる。頭痛薬の鎮痛剤を口中に放り込み、ガリガリ噛りながら水で流し込む。夕方近くスウェットに着替えると、会員でもある新宿大久保にあるボクシングジムに顔を出して、ひたすら汗を流した。もう何年も通っているこのジムで、里中が元プロボクサーだという事を知っている者は極わずかだが、里中のトレーニング姿を見た者は体力づくりやストレス解消で通っているただの中年練習生とは思えないくらい本格的だ。  里中が元プロボクサーだと知っているジムの会長やトレーナーたちは、プロテスト間近の者や、プロの4回戦ボーイたちのスパーリング相手として里中を重宝がってもいた。里中は若い連中に目一杯手加減するのだが、時折エキサイトしてしまい本気を出してしまう里中を恐れる若者もいた。 「あの人、只者じゃねえよ」  そんな言葉を耳にすると、里中は嬉しくて仕方なかった。 「明日らしいですね?」 「ん、ああ馬渕の公開スパーか」  里中がトレーニングを終えクールダウンを兼ねストレッチをしているとトレーナーたちのそんな声が聞こえて来た。
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