第1話 【裏社会の囚われ人】

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第1話 【裏社会の囚われ人】

ラウンド終了の乾いた金属音が場内に響く。野次と歓声が交差する。正式なボクシングの試合とは明らかに違っていた。まず両者の体格差の違いは歴然としていたし、格好も上半身こそ裸だが、下半身はトランクスではなく、大きい方の男は作業着のズボン、小さい方の男はジーンズだ。 コーナーに戻って来た体格の小さい方の男を椅子に座らせたセコンドの唐木が毒づいて叫んだ。 「馬鹿野郎、飛ばし過ぎだ! 1ラウンドから何を剥きになってやがる?」 「4ラウンドだぜ、10ラウンドのマラソンじゃねえんだ。100メートル走でちんたら走る馬鹿がいるかよ!」  言い返すボクサー、風城京也。その言葉に唐木が舌打ちして熱くなる。 「だいたいガードも下がり過ぎだ! あんなに無駄なパンチをもらったら4ラウンドもたねえぞ、(キョウ)、今夜の仕事の内容を忘れたわけじゃあるまい、言ってみろ!」 「うるせえな······劣勢と見せかけ4ラウンド終了間際に相手を眠らせる······だろ?」 「そうだ、わかってんだったらガードだ。向こうさんはおそらく二階級は上だぞ、軽いジャブでも何発も貰えばそいつが命取りになりかねん。おまえが逆に倒されたらいくらの金が吹っ飛ぶと思ってんだ? 肝に命じろ!」 「ギャーギャー喚かなくてもわかってるよ、それより水だ、スティーブ、水くれ」  彼の言葉を聞き、セコンドのスティーブ唐木はペットボトルの水を掴み、口を開けている風城の口中に乱暴に水を注いだ。勢いむせる風城。  ゆすいだマウスピースを風城の口に咥えさせながら唐木が風城の頬をピシャピシャと叩く。 「上手くいけば当分遊べるんだぜ、金、金、金、忘れんな!」 「わ――ってるよ」  セコンドアウトのブザー、再びゴングが鳴り、風城は椅子から立ち上がる。このゴングの音、いったい今までに何度聞いてきただろう?  表舞台のリングだけじゃ気が済まずに、こうして闇の世界のリングにまでしがみついて殴り合いを続ける。戦いの始まり、そしてインターバルのゴング、勝利のゴング、敗北して、マットに沈んだ時のゴング······。いったい、あとどれだけこの音を聞くんだろうか? 何回聞けば、俺の魂は納得してくれる? 風城は自問しながらニュートラルコーナーからリング中央に向かって歩き出した。  ネオンサインが洪水のように溢れ出る18時、新宿歌舞伎町は眠りからさめる。毎晩繰り返される不夜城の饗宴はまるで尽きることを知らない。  その昔、『コマ劇場』という主に歌謡ショーが行われていた劇場跡にはシネコンや娯楽施設、飲食店が入った複合型の近代施設が建てられ歌舞伎町も様変わりした。ただ、そこから先、奥に入るとそこはまだ旧歌舞伎町の住人(常連)たちのアジトだ。  アウトロー達は夜が来るのを息を潜めて待っている……。  歌舞伎町の一角にある野々宮ビル。野々宮興業の自社ビルだが、野々宮興業は表の顔、裏の顔は暴力団『桜会』だ。  張り詰めた空気が漂う事務所内、来客用のソファーにふんぞり返る男、里中公平、職業は探偵……。 「茶ぐらいだせや、客だぞ、オレは」  里中を知らない初対面の若い組員が今にも噛みつきそうな勢いだが、他の組員に静止される。 「里中さん、社長は今留守なんすよ、今日のとこはお引取りを……」  と、テーブル上のガラス製の灰皿を投げつける里中。避ける組員たち。壁に当たって派手な音と共に砕け散るガラス片。 「オマエらヤクザもんはこの時代に携帯電話すら持たねえのか? あん? IT革命ナメてんのか?」  いつもより荒れている里中。ビビる組員たち。組員の一人がその場を離れ携帯電話で何やらやりとりしている。その間、さっきから顔を赤くし我慢をしていた里中とは初対面の若い組員がとうとうキレた。他の連中の静止をも振り切り里中に詰め寄る。 「お――、コラ! てめぇ調子こいてんじゃねえぞ、オイ!」  下から若い組員を見上げる形の里中はニヤリと笑みを浮かべるとゆっくり立ち上がる。若い組員が里中の胸元のシャツを掴んで捻り上げた瞬間、里中が顔面めがけて頭突きを食らわした。鼻から血を吹き出しながら顔を抑えて後退した組員、懐めがけて突っ込んで行った里中は体勢を低くし、左の拳を若い組員の右脇腹に叩き込んだ……。ボクサーの手本の様なレバーブロー、鈍い音と共にその場に倒れ込み悶絶する組員。圧巻。 「若いってのは良いな、これだよ、このくらい無鉄砲じゃなきゃイザという時に組長は護れねぇぞ、オマエらも少しは若い奴を見習えや」 里中はジャケットのポケットに手を突っ込んでセブンスターを取り出し一本を加える。と、横から素早く組員がライターを差し出し火を着けた。里中と目が合い互いに微笑む、が、 「ホストか、オマエは?」  里中のツッコミが入る。   「……そうか、わかった」  スキンヘッドで大柄の男、ビシッとしたビジネススーツが些か窮屈そうに見えるプロレスラー並の巨体。"シン"と呼ばれているこの男、野々宮興業、つまり暴力団『桜会』の幹部で社長で組長の野々宮茂の側近。携帯電話を切ると野々宮に耳打ちする。 「社長、公平さんが事務所で……」  野々宮の隣にいる新宿署の刑事、山口が聞き耳を立てる。山口元司、通称ヤマゲン。歌舞伎町の裏社会では知らない者はいないくらい有名な刑事。 歌舞伎町界隈の裏社会の住人達から警察の情報をリークしては金を受け取っている黒い部分を持ち合わせている男。   「なんだ、面倒ごとか?」 「いえ、公平の奴がね……いつものことです」 「相変わらずか? あの馬鹿め」  そう言いながらグラスのノンアルコールビールを飲み干すヤマゲン。テーブルに置かれた金の入った厚めの封筒をスーツの内ポケットに仕舞う。 「俺の方からも今度釘をさしといてやるよ」 「そいつはどうも」 「じゃあ、ぼちぼち行くわ。またな」  席を立ち小料理屋を出て行くヤマゲンに軽く頭を下げながら後ろ姿を見送った野々宮は深く溜息を吐いた。 「ったく、ハイエナの腐れ刑事(デカ)が……どっちがヤクザかわかりゃあしない」  事務所に戻って来たシンと野々宮。ドアを開けるとその場にいた組員全員が一斉に直立不動で頭を下げ声を揃え出迎える。 「お疲れさまです!」  一人の組員が近づいてシンに耳打ちする。ソファーにふんぞり返った里中を見た野々宮。床でまだ苦しそうに悶絶している若い組員に目をやる。   「まったく、組潰す気かよ」  シンが他の組員に目配せすると、慌てた組員が里中にのされた組員を引きずり出し事務所の外へ消えた。野々宮は里中を社長室へ呼び込みドアを閉める。 「留守中は事務所に来るなっつったろうが……」  野々宮は部屋の隅に置かれた金庫を開けると、中から帯封された100万円を一束ポンと机に投げた。 「先日のギャラだ、色は付けといた」  里中はそれを手にするとニヤリと顔をほころばせた。 「やれやれ、これで事務所代(タナチン)が払えるぜ……で、次の試合は?」 「試合?……公平、いい加減に足を洗って本業に精を出したらどうだ?」 「生憎こちとら不景気でな、浮気調査の1件も来やしねえのよ」  里中は100万円の帯封をパラパラめくりもてあそぶ。   「それにな……」  唐突に里中がボソっと呟いた。 「オレはあの場所でしか生きる術を知らねえみたいだ」
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