第2話 【エミとチェット・ベイカーとバーボンと】

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第2話 【エミとチェット・ベイカーとバーボンと】

「今夜はライブに来てくれてありがとう、次のライブも是非聴きに来てくれると嬉しいです!」  綺羅びやかな照明の中、ステージの上で深々と頭を下げる女性、エミ。だが、客席はガランとしており拍手もまばらだ。  楽屋に戻るとエミ以外のメンバー、ギター、ベース、ドラム、キーボードの四人は雑談も程々にそれぞれの楽器を仕舞い込む。エミはジーンズのポケットから折り畳んだ四つの封筒を取り出すと、一人一人に頭を下げて丁寧に礼を言いながら渡して行く。 「いや、歌はホント良いと思うよ」 「また声かけて下さい、よろしくです!」   メンバー達はそそくさと帰ってしまい楽屋にはポツンとエミ一人が残った。  毎回ライブの度にバックバンドのメンバーが代わる、一夜限りのセッションメンバー。自分の歌を生かすためには上手い人を使いたい、例えギャラを多く吹っ掛けられても……。    しかし、メンバーのギャラとハコに支払うチケットノルマ分だけでも一度のライブで10万円近い金がかかる。せめてもっと集客出来てノルマ分がプラマイゼロになればかなり楽になるのにな……と、エミは思う。  エミは歌うため、ライブのために三つのアルバイトを掛け持ちしている。それでもまだ足りないくらいだが、これ以上は時間も身体も限界だ。エミは毎日他に身入りの良いアルバイトがないか、スマホの求人サイトを見るのも日課になってしまった。  地下のライブハウスから階段を登ると、隣のビルから大勢の人間が吐き出されて来た。エミは度々その光景を目にしていた。なんだろ? 以前から気にはなっていたが、ビルから出てくる人々の年齢層や性別もバラバラだし、いや、若干男性の方が多かった。風俗? 違う、居酒屋? 違う、何かのイベント? イベント……。  エミは人々が出て来るビルの出口まで行ってみた。 「いや~面白い試合だったな」  若者たち……。 「ヤッバイ、超興奮したんだけど~」  若いカップル……。 「やっぱり風城は強えわ、体重差関係ねえもんな」  サラリーマン風のグループ……。 「ちっくしょう、ありゃイカサマだよ、5万もやられたぜ」 「馬鹿、デケえ声出すな! 仕切りは桜会だぞ」  中年男二人組……。  歌舞伎町の深淵、一般人がほとんど足を運ばない様な場所にある雑居ビルの地下で行われている"闇ボクシング"の試合。胴元は野々宮興業、暴力団『桜会』である。無論ただの試合ではなく賭け試合だ。  エミは賭け試合という言葉になぜか興味がわいた。  歌舞伎町にあるカウンター席が八つしかない馴染みの小さなBARで店内に流れるチェット・ベイカーのトランペットをBGMにしながら風城はバーボンのロックを舐めている。風城のリクエストだ。風城が来る日は決まってチェット・ベイカーをメインに、JazzやBluesを多く流す。  ジャズミュージシャンでトランペット奏者のチェット・ベイカー。ドラッグに溺れていた彼は1988年、アムステルダムのホテルの窓から転落死している。直接的な死因は不明。  風城はかなりチェット・ベイカーに心酔した時期があったらしい、店のマスターは以前風城から聞いていた。口数も少なく、寡黙な風城でもマスターとはたまに会話が続く事もある。  夜の八時過ぎ、風城以外に客は二人組の中年サラリーマンだけだった。マネージャーでトレーナーの唐木と待ち合わせた時間、少し遅れて唐木がやって来た。マスターに軽く挨拶をした唐木は「同じものを」と、風城が飲んでいるバーボンを頼む。  唐突に唐木が切り出した。 「実はな、お前にスパーリング相手の誘いが来てるんだ」 「へえ――、モノ好きがいるもんだな」 「日本チャンプの馬渕だ」 「……」  風城のグラスを持つ手が一瞬止まった。馬渕芳樹、現在日本バンタム級チャンピオンで戦績は20戦無敗、16のKO勝ち……。次戦で世界タイトルへの挑戦が決まっている25歳、話題になってる若手のホープだ。  風城がまだ表舞台にいた二年前に一度対戦している。結果は馬渕の判定勝ちだったが、馬渕がこれまでに唯一ダウンをきっし最も苦戦した相手が風城だと、今でもボクシングファンの間では語られている。唐木はその昔、馬渕が所属するジムのトレーナーだった事もあり、ジムの会長とは旧知の仲だ。 「世界戦前の調整相手ってわけか」 「相手の世界王者がオマエと同じサウスポーだからな、世界戦対策だろ」 「違うな、世界戦前にあの一戦を払拭しておきたいんだよ……今ではこれだけ差がつきましたよ、ってな」 「ん、まあそれもあるだろうが、試合前だ、軽い調整だよ」 「軽い調整ね」  風城は意味ありげに苦笑を浮かべた。 「興味ねえな、それにマスコミを入れての公開スパーはゴメンだ。だいたい一銭にもならない」 「銭カネの問題かよ、呆れるぜ、オマエには」  と、風城が思いたった様に唐木に問いただす。チェット・ベイカーのトランペットが強さと厚みを増す。 「そのスパーで奴を潰しちまったらヤバいか?」
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