昭和三十六年

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昭和三十六年

「大変だ、助けねえと」 「救急車呼んだほうが、えんじゃないか」  海雲が穴に落ちたことで若い衆に動揺が走った。リーダー格の男が落ち着かせようと口を開きかけたとき、涼し気な声がした。 「なにを騒いでいるの?」  皆の視線が集まった先には、懐中電灯を持った比美(ひみ)が立っていた。 「比美さま!」  男はバツが悪そうに頭に手をやった。 「比美さま、海雲さまが」  安堵した凪が比美に駆け寄ると、破裂音と共に突っ伏した。なにが起きたのか理解できぬまま、凪は比美を見上げた。 「あなたのせいでしょう女狐。お前たちも何をやっているんです?」  凪は比美の冷たい視線と頬の熱さを感じて、自分が叩かれたのだと気が付いた。冷たい視線は、そのまま若い衆に向けられた。 「す、すいやせん。海雲が死んじまったかも」 「だったら誰にも分らないようにすればいいでしょう」  落ち着き払った言葉に凪の背筋が凍った。 「いったいなにを。まさか、あなたが!」 「ふん。誰にも分らないようにしなさい。いい! この女狐は好きにすればいいわ」  海雲にも凪にも目をくれず、比美はもう関係ないというようにいなくなった。 「そういうこった。わりいな」  醜い笑みを浮かべた若い衆が、凪との距離を詰めた。凪は、こんな形で貞操を奪われるくらいならばと気持ちを決めて穴に飛び込んだ。  
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