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1 座敷童子
トントン……と階段を登る軽い足音が背中越しに聞こえた。ふわりとおかっぱ頭の髪が揺れて、赤い綸子の子ども駆け寄ってくる。
「先生、お昼だよ……ケイちゃんも」
紅葉のような可愛らしいふっくらな手が膝の上の猫に伸ばされる。
「ケイちゃん、もふもふ〜」
わしゃわしゃと頭や背中を撫で擦る小さな掌に敢えて抵抗しないのは、この幼い同居人に対するちょっとした優しさなのだろう。
ーー止めさせてくれーー
丸まっていた二股の尻尾をゆらり持ち上げて俺の脚をぺしぺし叩いてくるものの双眸は相変わらず閉じたままだ。
「ケイちゃん起きて。ご飯だよ~。鰹節、あるよ」
ピクリと尖った両耳が立った。
「早く言えよ~」
ムクリと身体を起こし、ケイが俺の膝からストッと降りた。いっぱいに両手を突き出して伸びをする。
艷やかな毛並みが、太陽を照り返して金色の光を帯びる。と、次の瞬間、くるりっと身を翻して、猫は少年の姿に変わる。
猫の毛並み同様に漆黒の髪は艶々と艶めいているが、人間の髪にしては少し硬いらしく、頭頂部に三房ほどの毛が突っ立っているが、おおよそ気にも止めていないのが、彼らしい。
「ケイちゃん、抱っこ!」
「ほいよっ」
手を伸ばす小童を抱き上げて、にっこり笑う顔はいかにも『お兄ちゃん』だ。
そう、ケイよりもかなり小柄なこの小童も立派な妖怪。
世に『座敷童子』と呼ばれるある意味ありがたい妖怪なのだ。
童子は、妖怪になった経緯はあまりはっきり覚えていないという。
「家には、お父とお母と姉さんがいた」
食事を終え、今度は人の姿になった猫叉のケイの膝にすっぽり収まり、二股尻尾を手で撫で回しながら、童子は少し考えながらポツリポツリと話し始めた。
「オイラの居た村は飢饉がひどくてさ、何人もの人が食べるものも無くて、……ひどい病気になって死んでいった」
ここからずっと北の土地の、山間の村で生まれたのだ、という。
「オイラんちは、村長でさ。本当はもっと兄さんも姉さんもいっぱいいたみたいなんだけど、流行り病で死んじゃったり、お殿さまに人足に借り出されちゃったりして、家にはお父とお母と姉さんしかいなかった」
やがて産後の肥立ちの悪かった母も身罷り、父と童子をたったひとり残った歳の離れた姉が世話をしていたという。
「オイラは元々身体が弱くって……。姉さんもすごく心配して……。でも……さ。これは姉さんが七つの祝いに着た晴れ着をオイラのためにくれたんだ。……赤は魔除けになるし、女っ子の姿なら魔物も寄って来ないから……って」
男の子でありながら、赤い小花模様の袷の綸子の着物に絞りの兵児帯……といういでたちは、病に冒された童子になんとか助かって欲しいという姉の切なる願いだった。だが、それも虚しく童子は世を去った。
姉はひどく嘆いて泣いた、という。
「でもね、オイラは死ぬとき、あまり悲しくなかったんだ」
童子の姉は、たいそう童子を可愛がって大切にしてくれていたという。
「姉さんを悲しませてしまったのは申し訳ないと思ったけど、病気のオイラがいたら姉さんは幸せになれないから……」
母を亡くし、一人で一家を切り盛りしていた姉にもやっぱり好きな人がいた。
「オイラがまだ生きていた時にさ、聞いちゃったんだ。姉さんが好きな人との縁組みを断ってたの。……オイラを一人には出来ないって。だから……」
病が重くなり、この世を去るとき、泣き崩れる姉に申し訳ないと思いながら、それでも少し安心していた、という。
「でもさ……」
葬儀が終わり、童子が埋葬されても、いっこうに姉は自分の幸福を求めようとはしなかった。童子の墓石に縋りついては泣き、童子の着ていた着物を抱きしめては涙にくれていた。そして、姉自身も日に日に幽鬼のようにやつれていった。
ーそんなこと、オイラは望んでないー
意を決した童子は、オシラ様に必死で祈った。この世で何も出来なかった自分だが、なんとしても姉を幸せにしたい、と。
「オシラ様?」
目をまん丸くする猫叉のケイに童子はこっくり頷いた。
「オイラたちの信仰していた神さまだよ」
オシラさまは御霊になっても姉の幸せを必死で祈る童子の願いを聞き入れた。
しばらくして姉は幼馴染の男を婿に迎え、玉のような男の子と愛らしい女の子を授かった。
童子は子らが無事に育つよう見守り続けた。時には田畑仕事や家事に忙しい姉に代わって子守りをした。息子はやがて嫁を取り、娘は良縁に恵まれた。孫も無事に授かり、童子はその幼子たちの守りもした。
姉は老いて亡くなるその際に、童子がいつも子らと遊んでいた座敷に座り、童子に祈った。
『子や孫や、どうかその行く末までも見守って欲しい』と。
「なぁそれ我が儘過ぎないか?」
首を傾げるケイに童子はふるふると首を振った。
「オイラ、姉さんが育てるからって守ってくれなかったら、返されてたんだ……」
童子の村は貧しかった。いや、その時代の農村はどこも貧しかった。
飢饉や疫病で多くの人が斃れていった。自分たちが生きていくすら困難な地獄の中で、大人たちは産まれてきた子どもを育てていくことなど出来ず、子返しつまりは間引きをする親も多かった。
「せっかく産まれてきた子どもを親が殺すなんて……」
ケイは尻尾の毛を逆立てて憤慨していた。猫は、獣は産まれてきた子を必死で守り育てる。生きていけるはずの子に乳もやらず自らの手に掛けるなど信じられないことだった。
だが一説には死んだ人間の肉を喰らってようやく命を繋いでいたという話すらあるくらい、あの時代の鄙の村々は過酷な状況にあった。
「みんな泣いてたよ。隣りのお母も、下屋の姉やも……。それでも子を返さないと、皆んなが生きていけない、って」
「七つまでは神のうち……か」
その時代も今も人間の子どもを育てるのは難しい。無事に生まれたとして、医療も整っていないその時代は七つの祝いを迎えることが出来た子はごく僅かだ。
それでもその生命を自ら絶たねばならぬ母親の悲嘆は如何ばかりだろうか。
「オイラは姉さんが守ってくれたから七つまで生きられた。恩返し、したかったんだ。それに……」
だから、ずっと座敷で家族を子ども達を見守っていた。ーーそう言って童子はほんの少し悪戯っぽい笑顔を見せた。
「オイラ、生きてた時はずっと寝たきりみたいなもんだたから、うんと遊んでみたかったんだ。隠れ鬼も追いかけっこもしてみたかった」
童子の言葉に俺はきゅっと胸が絞まる気がした。ケイも同じなのだろう。なにか半分泣きそうな顔をしている。
それを振り払うようにケイが童子の頭を撫でて、頬っぺたをムニっと掴んだ。
「でも、なんでお前はあの街にいたんだ?里は北のほうだろ?」
ケイの言葉に童子の顔がすっ……と曇った。
「オイラの里は無くなっちゃったから……」
ある年の夏、童子の村ー集落は鉄砲水で押し流された。村人たちは早くに避難して、あまり生命を亡くした人はいなかったが、もう村には住めなくなった。
「オイラはさ、姉さんのずっと末の女の子と逃げたんだ。その子がオイラの宿っていた人形を抱きしめて一緒に逃げてくれたから」
そして童子は、その子と共に別な土地に移り、そうして何代も経ってこの街に来た。
「その時に……鉄砲水で里を去る時に、オシラ様に言われたんだ。『私に代わって子どもたちを守りなさい。自分の血筋だけじゃなく、縁のある者、お前の友だちを守ってあげなさい』……って。友だちって言葉、初めて知った」
気づけば童子の縁者は末広がりに広がっていた。童子は誰彼と区別をつけるのを止めた。
「みぃんな幸せになったほうがいいでしょ?だから……」
童子は訪れる子らと誰彼なく遊び、守った。
「それなのに……さ」
あの戦争が起こった。
童子のいた街は火の海になり、童子の友だちだった子らは行く方知れずになってしまった……という。
「そんな時に、爺っちゃんとケイちゃんに会ったんだ。爺っちゃんが、『また友だちには会える。待っていればきっと来る。……新しい友だちも出来る』って言ってくれて、さ』
誰もいなくなった焼け跡にしゃがみ込んで泣いていた童子の頬の涙をペロリと舐めた黒猫ケイが童子の新しい一等最初の友だちになった。
童子は小豆洗いに手を引かれて焼け跡の街を出て、そしてこの町に落ち着いた。
「そう……か」
小豆洗いの生業が甘味処なのは、自分の業のためばかりではない……と俺はこの時、ふっと気づいた。
「お〜い、何をしているんだ?汁が冷めるぞ」
「「「は〜い」」」
階下から呼ばわる嗄れ声に愛らしい声がハモって答えた。
俺は腰をあげ、う〜んと伸びをし、彼らの後ろに続いた。気難しそうでいて、情の深い無口な老妖怪の味噌汁をいただくために。
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