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序
俺の名前は幽太郎。以前の姓名は各務祐太郎といったが、人間を辞めて妖怪になる際に、恋猫叉のと縁組をしたので、今はそちらの姓を名乗ることになった。
と言っても妖怪にとって人間の姓など本来的に意味を持たないのだが、人間界に紛れて暮らしているため、方弁として使っている。
そして俺の愛しい猫叉は今、眠っている。俺の膝の上で。
昨夜は勤め先の妖怪居酒屋が盛況でくるくると休む間もなく働いていたからきっと疲れたのだろう。
店が引けて家に帰ってくるなり人型を解いて、俺の布団の脇に潜り込んで眠ってしまった。
今朝も、同じ屋根の下に棲む小豆洗いの老爺と座敷わらしの少年と共に朝食を取ると、さっさと俺の膝の上に丸まって寝てしまった。
それをひょいと横抱きにして自分の部屋に戻って布団の上にそっと寝かせておいたのだが、いつの間にやらまた、胡座の膝に頭を乗せてすやすやと気持ち良さそうな寝息をたてている。
時折、両手で頭を隠してみたり手足をいっぱいに突っ張って伸びをしてみたり、可愛らしい口元をむにゅむにゅと動かして何か呟いたりもしている。だが一向に起き出す気配は無い。
俺は時折そっと手を伸ばして、背中を撫でる。烏の濡れ羽色というのだろうか、艶々として陽の光を浴びて七色に照り輝くしっとりとした毛並みが最高に美しい。長くピンと張ったヒゲ、眉から伸びる三本の睫毛も見事に真っ黒だ。
今は閉じられている眼は金色味を帯びた黄色がかった緑色で、パチリと開いて夜の闇の中に輝くそれは、淡々と揺れて、人間の小さな子どもだった頃に追いかけた蛍の灯のようだ。
ケイ、という名前の由来は彼は知らないという。
最初に彼と共にあった人ー仔猫の彼を養い育てた齢を経た婦人がそう名付けたのだという。
『あんまり学があったふうでもないから、倅か誰かの名前から付けたんじゃないの?』
彼はふわぁあと欠伸をしながら言っていたが、きっと『蛍』の『けい』なのだろう、と俺は思っている。
ふと見ると、愛らしい口元から小さな舌先がちょろりとはみだしている。淡いピンク色の桜の花弁のようだ、と思いながら軽くつつくと、すいっと口の中に吸い込まれていった。
ケイの猫の体は全身が真っ黒なのだが、小さな口の中と両手足の肉球は淡いピンク……というより桃色でとても可愛い。小さなふっくらしたその粒を密かに揉んで柔らかな感触を堪能していると、微かにうぅぅと唸って抗議してくるところがまた可愛らしい。
ケイ曰く、もうおよそ五百年近くは生きているはずなのだと言うが、その身体はあまり大きくはない。
普通は猫叉というと、長く生きて巨大化しているものかと思うが、そういうことではないらしい。
『ま、中にはそういう猫もいるけどさ』
ケイの言うには、猫叉は長く生きて霊力を身に着けて神通力を得た猫と、ある契機によって妖力を身に着けた猫とに別れるらしい。
『まぁ人型を取った時にすぐに分かるんだけどね』
長生きをして神通力を着けた猫叉は大概が歳を経た僧侶の姿形をしているそうだ。中には神主の容姿をしている猫もいるという。
『そうじゃない俺たちみたいなのは、大抵、猫だったときの飼い主やその家族に近い容姿をしてる。俺は百姓んとこで育ったから……』
ケイとしては筒袖の丈の短い単重の着物にやはり丈の短い股引きに脚絆といった姿が馴染むのだという。
『けど、時代っつーの? 長く生きてるうちに皆んな格好が変わっちゃっててさ。それに俺も猫叉の里で色々修行して……さ』
そうだ。初めて会った時にはケイは絣の着物の少年だった。旧家の子なのだ、と俺は思っていた。
『けど……俺、十歳くらいで猫叉になっちゃったから、なかなか大人になれなくてさ』
二股の長くしなやかな尻尾を垂れて、ケイは少し悔しそうに言った。まぁそれ以前に、妖怪としては五百年ではまだまだ子どもの部類らしいのだが……。
それゆえ、ケイは妖怪の青少年の為に作られた『妖怪学校』の高等部に通っている。
そこで人間界での生活の仕方、妖怪としての在り様を学ぶのだという。
だが、ケイはその事が嫌いでは無いらしい。
『俺が生まれた頃って、人間たちが四六時中殺し合ってる、物騒な時代でさ。俺を養ってくれた婆ちゃんもその息子も読み書きなんて、とんと出来なかった。毎日毎日、いつ殺されるかって怯えててさ……俺だって』
ケイの口元から幽かな声音が漏れる。
まだ古い時代の、普通の猫だった時の夢を見るのだ、と彼は言っていた。
ー幸せにおなりーと言って身罷った老婆のこと。
ーお前は常に御仏とともにあるのだよーと諭した僧侶のこと。
そして飢えた野武士に殺されかけた時のこと。
俺はケイの瞼にまだ薄っすらと残る刃の痕をそっと指先で撫でた。
「大丈夫だよ、ケイ。俺が守るから……」
ピクピクと小さな鼻がひくついて、ニッと寝顔が微笑んだ。
「ゆうたろ、遊ぼ……」
「うん、遊ぼう」
俺は猫叉の頭をくりくりと撫でる。
二股の尻尾が嬉しそうにゆらりと揺れる。
そして俺は膝の上の温もりを愛おしみながら、物語を綴り始める。
俺の大好きな妖怪たち、ケイとその仲間たちの物語を人間たちに届けるために。
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