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夏の夕暮れほど美しい景色があるだろうか。太陽の沈んだ空はどこまでも深い青色で、ビルの切れ間からはピンク色に染まった入道雲が顔を覗かせている。ただひとついつもの夕暮れと違うのは、静かすぎることだった。街路樹に止まったセミの声も一切聞こえてこない。異様なまでの静けさに包まれている。
街には誰の姿もないが、すべての店には明かりが点り、食べ物のいい匂いがしていた。ハンバーガーショップやカフェ、ファミレス、居酒屋から漂う様々な匂いを嗅ぎながら、私は街をひとり練り歩いた。その間も、ずっと夕暮れ時は続いている。ピンク色の雲が浮かぶブルーアワーの中で、私ははじめて心が軽くなったような気がした。
漁港近くのカフェに入り、誰もいないカウンターにお金を置いて、これ見よがしに置かれているコーヒーを飲んでみようとした時、はじめて自分以外の人間の声を聞いた。
「やっと来たかい」
背後からそんな声が聞こえた。私は飛び上がり、危うくコーヒーを全部床に飲ませるところだった。
振り返ってみると、窓際のカウンター席に立派な髭を蓄えた1人の老人が腰掛けてコーヒーを飲んでいた。
「そんな。誰もいないかと……」
私が言うと老人は愉快そうに笑った。
「確かに誰もいないさ。私とあんた以外には。それ、どうぞ飲んでください。私がさっき淹れたものです。お代も要りませんよ。ここはおそらくそういう場所なんです」
そう言って、私の手に持ったコーヒーを指差す。一口飲んでみる。何の変哲もない、ただの熱くて苦いコーヒーだ。
「あの、あなたは? どういったお方で?」
「さあ。自分でもよく……まあ恐らくは、あなたと同じような立場の人間ですよ。あ、アップルパイもいかがですか?」
「いえ、コーヒーだけで」
そう言いつつも私は老人からひとつ空けた席に腰を下ろした。人と話したいという願望は多少なりともあったのだ。
カウンターの窓からは漁港が見え、ピンク色に染まった水面が静かに揺れている。未だ太陽は水平線の上に留まったまま動かない。
「私はいつか不意に訪れる死が怖くなって、逃げ出したんだ。自分で死に方を選んだ。でも、それを気に入らない何かがいて、そいつがこの世界に私を連れてきたんだろう。もうどれくらいこの場所にいるか、自分でもよくわからない。気付けばこの世界の番人になっていた」
老人は一言一言噛み締めるようにそう言った。
「この世界は何なんでしょう」
私が訪ねると、老人は苦笑を浮かべ、「さてね……」と言い淀んだ。
「――地獄、かもしれん」
暫くの間を置いて、彼は答えた。咄嗟に返す言葉を見付けられず、私たちの間に乾いた沈黙が流れる。
確かに、そうかもしれない。歳を取ること、人間としての役割を全うすること。すなわち生きること。私は受け入れることを拒んだ。だから、これは罰なのかもしれない。ならお前は永遠に、何もない止まった世界を漂い続けろということなのかもしれない。
「不変とは、孤独なものだ」
老人がぼそりと呟く。私は窓の外を見た。相変わらず景色に変わりはない。
「私はずっとここにいるんでしょうか?」
「おそらくな」
急に怖くなって、泣きたくなって、コーヒーを一口飲んだ。自分のわがままさに呆れる。コーヒーは酷く苦い。そして、まったく減る気配がない。
「ちょっと、外を見てきます」
私は席を立つと老人にそう声を掛けた。彼はほんの一瞬、何か言いたげなそぶりを見せたが、すぐにすべてを悟ったような顔で「そうかい」と言った。
「頑張りたまえ。まだ間に合うかもしれん。皆そう言って戻ってこなかったからな」
私は店を出て、真っ直ぐに伸びる道路の真ん中をひた走った。どこかに出口があるような気がして。
世界はしんと静まり返り、すべての時間が止まっていた。さっきまでしていた食べ物の香りも、もうしない。少し前まで天国のようだった夕暮れの街は、別のものへと姿を変えていた。
やがて疲れ果てた私はまたカフェに戻り、紙と鉛筆を拝借すると、老人の隣に座って小説を書いた。今まさに書いているこの文だ。誰か。誰か読んでくれる人はいないか。この文が誰かに届く日は来ないのか。
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