永遠のマジックアワー

1/2
前へ
/2ページ
次へ
 耳障りなロードノイズとインターホンの音を聞きながら、ベランダの柵にもたれ掛かっていた。雲ひとつない薄暗い青空に、半月を3日ほど過ぎた中途半端な月が浮かんでいる。このまま時間が止まって、この情景が永遠に続いたら良いと思うが、ほんの一時の安らぎの後、いつも真っ黒な闇がやってくる。今日もまた、虚しい1日がゆっくりと終わろうとしている。  2022年8月9日の夕暮れ時。私は自宅アパートのベランダから落下した。30歳の誕生日の前日のことだった。酒に酔っていた気もするし、自分から望んで落ちたような気もする。痛みは、たぶん感じる暇もなかったと思う。駐車場のアスファルトに叩きつけられた身体は一度だけ鈍くバウンドし、その瞬間私は自室のベッドの上にいた。いったい何を言ってるのだと思われそうだが、そうとしか言いようがない。  飛ぶ前に片付けたはずの鞄や服が元に戻っている。仕事でやらかしたミスにむしゃくしゃして丸めたシャツが、冷たいフローリングの上に転がっている。時計の針は19時を指していた。  酷く馬鹿げた言葉で表現すると「死ぬ直前まで時間が巻き戻った」ということになる。私は死をまぬがれたことに安堵しつつも、どこか残念に思っていた。  ベランダから駐車場を見下ろす。もちろんそこには誰もいないし、誰かが落ちた形跡もない。外はまだうっすらと明るく、影の落ちないマジックアワーが眼前に広がっている。 「なんだ。ただの夢だったんだ」  私は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、浴室に向かった。  特別な日に入れるミントの香りの入浴剤を湯船に放り投げ、頭からぬるいお湯を被った。疲れている。こういう時のシャワーはぬるくなくてはならない。  ライトブルーのお湯に浸かりながら、夢の中で自分が死のうとした理由を思い返してみる。   「夕理ももう30なのねえ~早くお嫁に貰われてくれないと。どんどん不利になるわ。ひ孫の顔を見なくちゃいけないから」 「やっぱり子供は女の子が良いよねー。早くしないとあっという間におばさんになっちゃうよ。どうするの?」  久しぶりに帰った実家での、祖母と母の言葉がふとよみがえった。もちろんそんなことが理由ではないはずだ。しかし、思い出すとどうしようもなく恐ろしい気分になる。価値あるものがすり減っていく気がする。私は2人の期待を裏切ろうとしているのではないかという罪悪感が沸き上がり、不安になる。  歳を取ることなんて、なんてことないと思っていた……はずだった。 「私、ババアになる前に死にたいなー」 「わかる。私もそうしたい。30くらいでいいや」  高校生の頃、友達とそんな馬鹿げた話をしたことをふと思い出した。  永遠に若くいたい。歳を取るのが怖い。今、死んでしまえば、永遠に20代の自分でいられるだろうか……とでも考えたのだろうか? いや、まさか。若さを売りに生きてきたわけでも、ましてや元々美しい訳でもないのだ。若かろうが若くなかろうが、同じこと。 「やっぱりただの夢だよな」  湯船から身を乗り出し、蓋の上に肘を置く。タオルで両手を拭いて、脱衣場から持ってきたスマホをいじる。相変わらずネットに投稿した小説の「いいね」はゼロだ。私の唯一の趣味。スランプのなか二週間かけて描いたものだったが仕方がない。明日の誕生日のSNS投稿にもきっといいねは付かないのだろう。何の成長もない。所詮皆の視界の端を通過する、景色の一部でしかない。それでも周りの皆はどんどん腕を上げ、やりたいことをやり、突き進んで行く。そして当たり前のように歳を取っていく。  何もかもが急に憂鬱で、不安で、そして本当に惨めになってしまった。自分はこんなにも退屈でくだらないことの為に、どうしてここまで思い悩んでいるのだろうか。  風呂から上がり、脱衣場で深く息を吸い込むと、部屋に漂う埃のせいか4回連続でくしゃみが出た。鏡の前に立つ。顔色が悪かったが、それ以上に頬にできたシミと目元のシワが気になった。それはほんの些細なものだったが、それ以外は目に入らない。そのままじっと見つめていると、自分が酷くいびつで危うい存在に思えた。頭の中がじわりじわりと歪んでいく。次から次へと不安と恐れが首をもたげ、私のすべてを占領した。   このまま歳を取り続けたらどうなる? 結婚しなかったらどうなる? 子供を持たなかったらどうなる? 仕事ができなくなったらどうなる? 身体が動かなくなったらどうなる?  考えれば考えるほど頭の中が熱くなり、やがて何もかもが嫌になってベランダの戸を開け、柵に手を掛けた。すると、奇妙なことに気が付いた。  時間が進んでいない。1時間以上風呂に入っていたはずだが、一向に夜が来る気配がない。美しい夕暮れ時が続いたままなのだ。 「皆は?」  ベランダから外を見る。ひとっこひとり見当たらない。車も全く走っていない。この世界から人間だけが忽然と姿を消していた。私をひとり残して。  このまま夕暮れが続いたら、歳を取らなくて良いってこと?  最初に思ったのはそんなくだらないことだったが、それだけですごく救われた気がした。このまま時が止まれば歳を取らなくて済むし、小説がうまく描けなくなったことに焦らなくて済む。滞納した家賃も払わなくて良いのだし、家族の期待を裏切ることもない。全部大丈夫になる。  これは神か何かが私に与えた休息なのだろうか。もしくはまだ夢の中にいるのか。いずれにしろ、とてつもなくわくわくした。こんな気持ちになるのは何年ぶりかわからない。     私は外に出てみることにした。今の自分ならどこへでも行けて、何でもできるような気がした。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加