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巷はバレンタインデームード一色だが、患者はいつも通り病院を受診し、院外処方箋をもって薬局を訪れる。しかも、今日は朝から患者が途切れないため、岸田は昼休憩をずらして仕事に没頭した。
今日は投薬業務だったので、調剤から回って来た薬を監査したあと、患者に服薬指導をして渡す。患者の中には慢性疾患を抱えた人もいて顔なじみなのだが、そのうちの一人が大きな紙袋をカウンターに置いてこう言った。
「今日はバレンタインだから、皆さんで召しあがって」
女性の心遣いに恐縮する岸田。すると、彼女はこう付け加えた。
「小さい箱はあなたのよ。お家でコーヒーブレイクする時にでもどうぞ」
まさか個人的にもらえるなんて思わなかった岸田は丁重に礼を言って受け取ったが、その後もチョコ持参の患者が6~7人続いてロッカーが雪崩寸前になった。
もうこれ以上入らない――― と無理やり扉を閉めて戻ってきたら、スタッフの一人がしみじみと言った。
「モテますね」
「まあ…… ね」
「歴代の店長で1位かも」
「原さんの時はどうだった?」
「さすがにこんなには」
「いくつ位?」
「3~4個」
「患者さんにはお返しした方がいいのかな?」
「お好きなように」
が、その時だった。宅配業者がやって来て荷物を2つ受付に並べた。
「店長の岸田様にお届け物です」
荷物が届く予定のない岸田は頭を捻ったが、送り主の名前を見て「あっ……」と呟いた。差出人はどちらも以前勤めていた大学病院。一つは病棟薬剤師だった時に世話になった看護師達、もう一つは薬剤部の同僚だった。彼女らに今の勤務先は教えていなかったのに、どこからか情報を得て送ってくれたのだと思うと胸が熱くなり、新人時代がむしゃらに働いた日々が走馬灯のように蘇ってきた。
大学病院を辞めた理由は、当時付き合っていた整形外科医が黙って見合いをして やけっぱちになったから。そのおかげで原のような自分には もったいない恋人と巡り合えたのだが、最先端の医療に携わりながらチーム医療を行う醍醐味を経験した身としては、やり残した感が否めない。
終業時間を過ぎたにもかかわらず在宅訪問の依頼があり、急きょ岸田が薬を届けに行くことになった。患者の自宅はここから1キロほど。陽が沈んでグッと気温が下がってきたためマフラーをぐるぐる巻きにして自転車で向かおうとした矢先、スタッフが周りに集まってきて紙袋を差し出した。
「私たちからです。いつも我儘ばかり言ってすみませんが、これに懲りずによろしくお願いします」
受け取った岸田はそっと中身を覗き込んだ。小ぶりの桐箱に熨斗と水引きが巻いてある和風モダンなパッケージで、スタッフの心使いを嬉しく思った岸田は、これまで誰にも言わなかった気持ちを吐露した。
「俺こそ不慣れでみんなに迷惑をかけている。原店長のような頼れるリーダーでもないし、コミュニケーション能力も低いし」
「あれだけ患者さんからチョコをもらう位だから大丈夫です。っていうか、自信満々だと思ってましたけど」
「やっぱ、俺って見た目で損してる」
「イケメンもいいことばかりじゃないんですね。でも、マイナスからのスタートの方が得ですよ。ちょっとしたことでも好印象に繋がるから」
「どうだろ」
「実は私もそうでした。店長がここへ来た時は『とっつきにくい』って思ったけど、裏表のない気さくな性格がわかって今では言いたい放題」
顔を見合わせて笑うスタッフに囲まれて、幸せだと思った。わずか10名の職場だが、みんなの気持ちが一つになってこの薬局を盛り上げようという気合が感じられる。
スタッフ達を帰らせた岸田は、自転車にまたがると薄闇の中に跳び出していった。冷たい風が頬を突き刺していくけれど、心の中は春の陽気のような温かさだった。
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