第1章

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 予想もしなかった昇進話に、岸田は真夏に降る雹を見るように驚き、目の前の林部長を凝視した。 「まだここへきて一年も満たないのに、原さんの後任なんてムリです。務まるはずがありません」 「君の働きぶりは聞いているよ。良くやってくれてるそうじゃないか。患者さんの評判はいいし、スタッフからの信頼もある。なにより大学病院での勤務経験があるから知識が豊富だ。原君も『次期店長は岸田君に』と推薦している。ぜひ引き受けてはくれまいか?」  岸田は、林部長の肩越しに目をやった。穏やかな笑みを浮かべた原がこっちを見つめている。 ――― こんな表情、何か月ぶりだろう  混乱した頭で考えた。どうして原は自分を推したんだろう? 何度頭を巡らせてもわからない。 「適任者なら他にもいるはずでは? 差出がましいですが、中井さんには打診されたんですか? 彼女は八年間桜台調剤店に勤務して患者さんに接する態度はみんなの手本になっています。僕は彼女が一番ふさわしいと思うのですが……」 「一応打診したが『店長になるくらいなら退職する』と断られてしまった」 「他店舗はどうなんです? たとえば、梅ヶ枝(うめがえ)店の大野君、彼ならきっと……」 「彼にはつつじヶ丘調剤店の店長の辞令が降りた。そういえば、大学の同期なんだってね。彼と一緒に このひまわり薬局を盛り上げてくれ」  そして強く肩を叩かれると、岸田は何も言えなくなってしまった。  今すぐ返事はいらない、今週中までに考えておいてくれ――― そう言い残すと部長は帰っていき、部屋には岸田と原だけが残った。  このように向き合うのは久しぶりだった。あれ以来、二人きりにならぬよう ひたすら避け続けてきたのだから。しかし、今はそんな場合ではなかった。自分を推した理由をぜひ聞きたかった。もしかして、二度と同じ職場にならぬ為の計略なのか? と、捻くれた考えが頭をよぎるほど今回の話は納得いかないものだった。 「どうして俺なんかを推薦したんです?」 「適任だと思ったからだよ」  穏やかな口調がますます気に障った岸田は、眉根を寄せて原を睨みつけた。 「ここへ来て僅かの身には荷が重すぎます。責任が負えません」 「君は薬剤師になって何年目?」 「七年ですけれど」 「店長になるには妥当な年数だ」  一歩近づいてきた原に、岸田は咄嗟に身構えた。 「これまで君は充分過ぎるほどフォローしてくれた。俺の不在時にメーカーや問屋さんの応対をしてくれたり、患者さんのクレームに迅速に対処してくれたり。病院の外来師長や医事課長も君を買ってる。それなのに、一体誰を後任にしようっていうんだ。どうか頼みを聞いて欲しい」  最近の二人の関係からは考えられない原の真摯な言葉を聞きながら、岸田は一年半前に起きた【出来事】を思い出していた。  あの頃、自分は大学病院の薬剤部に勤務し、同じ病院に勤める整形外科医の伊集院(いじゅういん)と付き合っていた。  桜の花びらが舞い散る ある日のことだった。  多忙続きでしばらく家に帰ってこなかった伊集院が体調を崩して早退したという噂を耳にした岸田は、仕事が終わると すぐ彼の部屋へ向かった。  伊集院は二つの住居を所有していた。一つは岸田と同棲していたマンション、もう一つは仮眠を取るため病院近くに借りているアパートで、岸田は滅多に訪れないアパートに着くと恐る恐る中へ入った。  カーテンの閉め切った部屋で、伊集院は着替えもせずに横たわっていた。逢うのは十日ぶり。久しぶりに見る恋人の顔には、疲労の色が濃く現れていた。 「大丈夫?」  声をかけると「怜か?」と瞼を開け、いきなりベッドに引きずり込まれた。怯んだ隙にシャツのボタンを引きちぎる勢いで外され、「(つかさ)!」と、たしなめても止める気配がない。  露わになった胸をきつく吸われ、荒々しくまさぐられると次第に官能が呼び起こされ、十代半ばから受け入れることに慣れた身体は体液を塗り込んだだけで難なく剛直を呑み込み、激しく抜き差しされると あっさり高みへと連れて行かれてしまった。  二人が快楽の余韻にぐったり浸っている時だった。甲高い悲鳴で飛び起きると、ドアの向こうで女が立ちすくんでいた。  野田 祥子――― 原のかつての恋人で、伊集院の見合い相手。  彼女は両手に持っていた買い物袋を床に落とすと部屋を出ていき、それを伊集院が追いかけた。あとに残った岸田は、訳もわからずただ呆然となるばかりで……  やがて岸田は立ち上がると、入り口に散乱する物を見下ろした。うどん麺と卵と小葱――― 明らかに体調を崩した伊集院の為に買ってきたもので、この時岸田は 彼らの関係に気づいてしまった。  この事件後、岸田は伊集院の元を去り病院も辞め、偶然出会った原に近づくべく ひまわり薬局に就職した。寂しいもの同士 慰め合うことが出来ないか、あわよくば彼の心を得られるのではないか? との思いからだったが、この思惑は脆くも崩れた。  全てを知ったときの原の顔は一生忘れない。  怒りと憎しみの入り混じった眼差し、慟哭のような叫び――― それは今でも地獄から追いかけてくる亡霊の様に岸田を苦しめる。  彼の優しさに付け込み裏切り続けた代償は、どんなことをしてでも払わなければならないのである。  岸田は大きく息を吸い込み、そして吐き出すと静かに言った。 「そこまで言っていただけて嬉しいです。俺は…… 店長の任を受けることにします。原さんが移動するまで御指導御鞭撻のほど宜しくお願いします」
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