第1章

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 原に連れて行かれたバ―は、送別会の場所から歩いて10分足らずの場所にあった。  ドアを開けると、ジャズの音色と柔らかな間接照明が落ちついた雰囲気を醸し出し、初老のマスターが笑顔で迎えてくれた。マホガニーのカウンターには、すでに先客が数人いる。  原はそのまま奥へ進むと、岸田を一番隅のテーブルに座らせた。原の肩越しには、たくさんのグラスで彩られたバックバーとカウンターの上で揺らめくキャンドルが見え、それに岸田が見入っていると、 「意外だろ、俺がこんなところを知ってるのが」  確かにそうだと思った。以前彼に連れて行かれたのは、薬局近くにある古びた焼鳥屋。似合わないとは言わないが、ここは彼のイメージと程遠い。 「初めて配属になった店舗がこの近くにあってね。就職したばかりで背伸びしたい年頃だったから、週末ごとに色んなバ―を飲み歩いて、ついでにナンパもしまくった」 「今の原さんからは想像つきませんね」 「誰にだって言えない過去の一つや二つぐらいあるだろ? 実は、祥子と付き合っている時に二股をかけていたこともあった」 「うそっ?!」 「6年も付き合ってたら色んなことがあるのさ。好き勝手した反動で、今じゃこんな洒落たバ―には足が遠のいて、手あかで汚れた縄のれんと油でギトギトした品書きのある店じゃないと落ちつかなくなってしまったけれど」 「すみませんね、縄のれんがなくて」  気がつくと横にマスターが立っており、慌てて口をふさいでも後の祭り。 「また昔のように来て下さり嬉しい限りです。いつでもお待ちしてますから足を運んでください」  注文したカクテルを流れるような仕草でテーブルに置いた後、カウンターに戻っていくマスターの後ろ姿を見つめながら岸田は尋ねた。 「最近、よくここへ来るんですか?」 「第一医科大へ行った帰り、近くを通ったら懐かしくなって。店に入ったら ことのほか居心地が良かったから、それ以来ね。昔は少々無理していた部分があったけど、やっと店の雰囲気に年齢が追いついたってことかな」  じゃあ乾杯しよう…… そう言うと、二人は今日3度目の祝杯を上げた。  再びこうして原と酒を酌み交わす日が来るなんて夢のようだ、彼がどんな心境で誘ったのかはわからないけれど…… と、岸田は素直に嬉しいと感じていた。 「君が桜台店の店長になるなんて、初めて会った日のことを思うと信じられないな」  マッカランの十八年物を飲みながら感慨深げに言う原に、あなたが推薦したから こうなったんだろうと岸田は冷えたギムレットをそっと口に運んだ。 「あの頃は凄く大変な時期だったから、君が来てくれて本当に助かった。あのまま殺人的な忙しさが続いていたら、宮川さん きっと辞めてただろうな」  一年前、体調を崩した岸田が処方箋を持って桜台調剤店を訪れたのは偶然だったが、ここに就職したのは作為あってのこと。それがわかっていての発言に、岸田は身の置き場の無さを感じた。 「実は、君をここへ連れてきたのは伝えておきたいことがあったからなんだ」 「伝えておきたいこと……?」 「君は今でも責任を感じているようだけど、俺はもう何とも思っちゃいない。だから、これ以上自分を責めないでほしい、悩まないでほしい…… ってね」 「それを言う為に、わざわざここへ?」 「そうだよ」 「すみません。そう言っていただけると少し楽になったような気がします」  そう言ったものの本音は違っていた。優しい男だから罪悪感を少しでも軽減させるための配慮なんだろう。その気持ちはありがたいし感謝している。しかし、心は鬱蒼としたまま、その慰めが余計に気持ちを沈み込ませていた。  感謝の言葉とは裏腹な岸田の表情を垣間見た原は、そっとため息を零すと再び口を開いた。 「それともう一つ、話しておきたいことがある」 「……」 「祥子とは別れた」  一瞬、時が止まった。 「一か月前、完全に。だから、今度こそ俺と付き合ってほしい」 
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