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第2章
◆◆◆◆◆
原が桜台調剤店を去って半月、岸田は慣れない店長業務に奔走していた。
朝、出勤して白衣に着替えた後パソコンを立ち上げてメールの確認をし、スタッフが揃ったら毎朝恒例の【経営理念】を唱和する。
「ひまわり薬局は、お客様の満足を従業員の満足とし、お客様の健康のために努力を惜しまず信頼される薬局づくりをめざします!」
原に成り代わり、自分が先頭に立って声を発するのが いまだに信じられない。
そんなことを思っていると、斜め横の宮川が唱和もせず不服そうな表情をしているのが目に入った。理由はわかっている。原が抜けた分 多忙になった上に、希望の休みが取れなかったことが気にくわないのだ(おまけに、新任の店長は経験不足ときている)。
彼女の性格は わかり切っていたから『一人でふて腐れとけ!』と放っておきたいのは山々だが、自分はこの薬局の店長。スタッフの不満をくみ取り、それを解決に導き、働きやすい環境を整えることが長の役割だと原の仕事ぶりを見て理解していた岸田は、皆がそれぞれの持ち場に散らばって行くさなか宮川を呼びよせ、一緒に休憩室へ入った。
「【経営理念】を唱和する時、声が出てなかったようですが どうしたんですか?」
「店長、突然で申し訳ありませんが来週休みをください。このままではストレスがたまって おかしくなりそうです」
無理だと わかっていることをズケズケ言う態度が相変わらず頭にくるが、感情的になると「もう辞めます!」と啖呵を切られるのは目に見えていて、岸田は気持ちを落ち着かせるため心の中で数を数えてから言い含める様に言った。
「原さんが抜けてしまった分、みんなが大変な思いをしているのは わかっています。本部にはスタッフ増員を要望しているけど、第一医科大に人が取られているので期待出来ないんです。あともう少し辛抱してもらえませんか?」
「あともう少しって…… いつまで待てばいいんです? 期限がわかってりゃ我慢もできますが、そんな曖昧な言い方では やる気も起きません」
ではどうすればいいんだ? と、彼女に言ってやりたかった。手立てがあれば とっくにやっている。それがないから、こうやって頼んでいるのに……
「そう言えば以前、原店長が【薬剤師募集】の張り紙をしたことがありましたよ。岸田さんも やってみたらどうです?」
この上から目線の言葉に、さすがの岸田もカチンときた。確かに自分は年下だし薬剤師歴も彼女より短い。しかし、自分は上司。それを わきまえていない彼女の態度に怒りにも似た感情が湧き上がるのをどうすることもできなかった。
こんな場合、原なら彼女の言葉を本気には取らず なだめることに終始した。同じ土俵に立つと喧嘩になるとわかっていたからだ。
しかし、岸田は彼女の扱いがわかっていなかった。生真面目過ぎるというのもあるが、元々女性が嫌いなのだ。自己中心的で我儘で頑固。かと思えば母性的なもので男を甘やかす…… そんな偏見の目で彼女たちを見ていた。女性が多い調剤薬局内において、この考えが店長業務の苦労を増強させる一因になっているなど、今の彼には理解できていなかったのである。
どうにかこうにか宮川とのやり取りを終えた岸田は、持ち場に行って業務を開始した。
今日の担当業務は【投薬】だ。岸田が席に着くと、隣の窓口に座っている天野がチラリと視線を寄越してくる。先程、宮川を呼び出したことを気にかけているのだろう。そんな彼女の気遣いを少しだけ うっとうしく思いながら、今日最初の患者に薬を渡す。
半月経った今でも、患者が原のことを尋ねてくる。
「原さんはどこに行かれたんですか」
「第一医科大? あんな遠い場所に」
「あの人がおらんと寂しかねえ……」
「もう戻って来んとね?」
そして店長が岸田に変わったと聞くと、大半が励ましの言葉を掛けてくる中、「あんたで務まるのか?」と、遠慮なく言う患者もいて、そのたび岸田は「未熟ですが精一杯頑張ります」と頭を下げるのだった。
あれから、原から時々電話がかかってくるようになった。話の内容は、仕事に終始していた。『そっちは忙しいか?』とか『なにか困ったことはないか?』とか……。そのたび、日々の悩みをぶちまけたい衝動にかられたが、すんでのところで呑み込んだ。
原の方が何十倍も大変なのだ。24時間勤務に耐えられなかったスタッフが、再三の引き留めにも応じず退職したことは岸田の耳にも入っていた。さっそく各店舗に応援要請が来て、この桜台店からも薬剤師の川崎が来週早々手伝いに行くことが決まった。
『桜台店も大変なのに、悪いな』
電話の向こうで頭を下げる姿が目に浮かんできて、切ない思いをしながら原の声を聞く岸田だった。
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