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第1章
「今、なんて言った?」
行きつけのバーで大学の同期で【ひまわり薬局】の社員である大野 雄平と飲んでいた岸田 怜は、グラスを回す手を止めて隣を見つめた。
「お前んトコの原さんが新店舗に移動するって話だよ。まだ本決まりじゃないけど、多分そうなるだろうって もっぱらの噂。知らないのか?」
――― 知らないも何も
「一緒に働いているくせに、意外と水臭いんだな」
この一言が岸田の胸を抉ったなど言った本人は知る由もなく、岸田は動揺を隠す為わざと きつい表情を作った。
「そうだよな、同僚の俺に一言もナシなんて。で、その新店舗ってどこなの?」
「第一医科大の門前」
百キロ近く離れた病院の名を聞いて、岸田は言葉を失った。
桜台店の店長で上司でもある原 圭吾と一方的な別れをして半年。いやが上にも顔を会わせなければならない岸田は、身を切られるような日々を送っていた。
とにかく仕事に没頭し、なにも考えないよう努め、夜は酒でまぎらわせた。そして、荒れ狂う波の様な感情が ようやく さざ波に変わった矢先、大野から驚くべき事実を聞かされ 再び心が うねり出すのを感じた。
「二十四時間 救急医療体制の病院だから 当然薬局もそれに準ずるわけだけど、薬剤師の絶対数が足りないから当分他店舗の応援でしのぐらしい。そんな前途多難なところを任されて原さんも気の毒だよな」
「移動はいつ?」
「一ヶ月くらい先じゃないの。で、後任の店長が誰になるかなんだけど、もしかしたら俺かもしれない。実は、店長昇格の打診が来てるんだ」
「お前が上司になるのか?」
「そうイヤな顔すんなよ。で、薬局の雰囲気ってどんな感じ?」
「悪くはない。みんなよく動くし仲もいい」
そう言ったものの、実は微妙に違っていた。別れて以来ギクシャクしている二人の関係に気づいた女性スタッフらに動揺が広がっていたのだ。
最初に探りを入れてきたのは、薬剤師歴二十年の天野だった。彼女は原が早めに帰宅した日、岸田に耳打ちしてきた。
「店長と なにかあったんですか?」
別に…… と、口ごもる岸田に、彼女は慰めるように こう言った。
「二人が喧嘩したんじゃないかって皆心配してるんですよ。あんなに仲が良かったのに、急に口も利かなくなったから。私に出来ることがあれば遠慮なく言って下さいね」
自分のせいで薬局の雰囲気を悪くして心苦しく感じた岸田は、それ以来 平生な態度で接するよう努めた。
「上等だ」
岸田の言葉に満足した大野は、片手を挙げてチンザノドライをロックでオーダーした。バーテンダーは客の好みを熟知しており、他の店に行こうなんて気がまったく起きないほど二人は ここを気に入っていた。ちなみに、岸田はオールド・ファッションドをよく注文する。
「実は、あと二年程したら実家の薬局を継ぐ予定なんだ。お前も知っての通り、俺の親父と ひまわり薬局の社長は懇意な間柄でね。大学卒業後、ひまわりに就職したのも いわゆる武者修行の一環で、十年経ったら実家を継ぐのは決まっていた。それで、折り入って頼みがあるんだ」
大野は組んだ足を元に戻すと姿勢を正した。
「俺の右腕になってほしい」
「はあ?」
最初、彼の言っている意味がわからなかった。右腕――― それは『仕事を手伝ってほしい』ということなのか?
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