カルピスソーダの呪い

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 緩く後ろにまとめられた髪が時折吹く風に揺れている。友達と一緒の時に見せる笑顔も可愛いけれど、僕は今みたいに一人で本を読む真剣な顔も好きだった。わざとルーズに束ねて作られたおくれ毛が、爽やかで清潔そうな制服姿に色っぽさを足している。  真剣に本を見つめていた彼女がパッと顔を上げて、手元のバッグからスマホを取り出し、代わりに本をバッグにしまった。そのまま立ち上がり真っ直ぐ前を向いて歩く。白い腕が制服の半袖シャツの中で泳いでいて涼し気で、その華奢な腕を掴んでみたい衝動に駆られる。  クラスメイトなんだから、挨拶くらいしてもおかしくないよな。と近付く彼女に声を掛けようと意気込んだ。  心臓がドキドキして喉が詰まったようになり「んんっ」と喉を鳴らした。それから白々しく今気づいたようなふりをする。 「……おっ、はよう……」  尻つぼみの声は小さすぎて彼女には届かず顔を上げることもない。さっきより近付いた彼女にもう一度チャレンジした。 「おはようっ!」  今度は意気込みすぎて大きな声が出てしまい自分でびっくりした。 「びっくりした。梶くん、おはよう。朝から元気だね」  けれど鈴のような声で笑って返されて、それだけで僕は舞い上がり嬉しくなってしまう。 「そうだ、俺、日直なんだ。またあとでね」  嬉しくなって、挨拶の後は何を話そうと考えていたプランを全部すっ飛ばして、駆け出してしまった。ガタゴトとカバンの中の教科書を鳴らして走る。せっかく今日は声を掛けられたのに! 練習までしたのに! なんでこう意気地がないんだとガックリした。  安原美鈴は僕と同じクラスの女子だ。サッカー部のマネージャーでもある彼女は、小さくて細い身体に見合わない程元気で通りの良い声をしている。吹奏楽部の僕は、サッカー部員を応援するその声を聞きながら、勝手に応援されているつもりで体力づくりのランニングをするのが日課になっている。 「よっ、おはよ」  彼女へ想いを馳せていると、背中をトンと小突かれる。中学からのツレの広田清也がピタリと後ろに貼り付いた。 「……おはよ。近くない?」 「今日こそ『おはよう』言えたの?」  こそっと囁かれて飛び上がる。 「なっ……なんで知ってんの?」 「見てりゃわかるし。そもそも尚人、昨日一人で『明日こそ挨拶する!』って叫んでただろ?」 「……! 叫んでないしっ!」  確かに、昨日の帰りに昇降口で『バイバイ』が言えずに、明日こそと決意を新たにした。……誰もいないと思ったのに見られてたのか。ニマニマ笑う清也にピシリと言い返す。 「今日は挨拶してもらったもんね!」 「ふぅん。安原さん誰にでも愛想いいもんね」 「……いいの、そこが可愛いんじゃん!」 「まぁね。……あ、安原さん、おはよう」 「おはよう、広田くん」  清也は後ろから着ていた安原さんに気安く声をかけ、もちろん安原さんも笑顔で答えた。清也は背も高いし、顔もキリッとした男前だし、人当たりも良い。成績もそこそこ良くて、地味運動部の卓球部だけれど、実は県大会常連になるレベルに強い。つまりはまあまあのモテ男だ。  ……くそっ、当てつけかっ! 「梶くん先行ったのに追いついちゃったね」 「あはは、そうだね」  ついでに僕にも話しかけて安原さんは友達との会話に戻る。少しの会話だけどワクワクと嬉しくなる。  今日はもう少し話せる気がする。話したい。日直なんだし、きっとチャンスはある! 前向きに考えて昇降口へと向かった。      * * *  ……はずだったんだけど、チャンス、無かったな。  しょんぼりと、部活を終えて戸締りをするために教室に戻る。無造作にガラリとドアを開けて中に人がいるのに驚いた。 「あっ……」  声を上げたのは安原さんだった。 「どう……したの?」  他に人のいない教室はなんとなく、触れてはいけないような緊張が漂っている。窓の外を眺めていたらしい安原さんは、タオルをにぎりしめていて泣いた後のように目元が赤い。  どうしていいのかわからずにただ立ち尽くす。 「ごめんね……。何でもないの」  そう取り繕う彼女はどう見ても何でもないわけがなくて、僕はそっと引き返すか慰めるべきかを悩んだ。夕方といっても真夏の太陽はまだ高く明るい室内が、却って安原さんを儚げに見せている。  少しでも元気づけてあげたくて、僕は涙に気付かない振りで戸締りのために窓に近付いた。何を見ていたんだろうと気付かれないように外を見るとサッカー部の練習風景が見える。部活で何かあったんだろうか? 聞いてもいいのかな? 「梶くんは日直の戸締り?」 「うん、そう。冬ならこの時間暗くなっちゃうのにね。こんなに明るいとなんとなく帰るのもったいなくならない?」 「ふふ、私はまだ部活あるから……っ……」  気丈に言って、だけど安原さんはそのまま声を詰まらせる。しまった、部活の話題に触れてしまった。 「あっ……ごめんっ……」 「ん……私こそ、ごめんね。ちょっと凹んでただけだから……」 「どうしたの? って、聞いてもいいかな?」 「それ、もう聞いてる」 「あっそうなんだけど、……言いたくなければいいよって意味で……。言って楽になることなら聞くし、あっ、もちろん誰にも言わないから」  力になってあげたいと思うのに、上手く言えなくてアタフタとみっともない言い訳をする。 「うん……」  安原さんがそう言ってうつむき、教室に沈黙が落ちる。こんな時なのに、ほつれた髪が色っぽく見えてドギマギする自分が心底嫌になる。 「……先輩にね、ちょっと言われただけなの。テーピングが下手だって。練習してるんだけど、緊張して失敗しちゃうんだよね……」  あ、と思いつく。安原さんがよく気にしている先輩。あの先輩のことだろうか? 「安原さん、テーピング上手なのに。ぼ……、俺、安原さんにテーピングしてもらったあと、すごく動きやすかった」  庇うでもなく言った。一度だけ、ランニング中にコケて軽く捻挫した時に、近くにいた安原さんがテーピングしてくれたことがある。単純な僕はその時に好きになってしまったんだけど……。 「梶くんにテーピング、したことあったっけ?」 「うん、一度だけね。部活のランニング中に軽い捻挫して。テーピングってこんなにすごいんだってびっくりしたんだ」  まさか忘れられてるなんて……と気落ちしながらも励ました。 「そっかぁ。……うん、ちょっとアガった。ありがと」 「ほんと? 良かった。……先輩もすぐに認めてくれるよ。僕、安原さんが頑張ってるの知ってるよ、いつも見てるから」  あ、これちょっと告白なんじゃ……? 「いつも見てるの? 恥ずかしいじゃん。でも梶くんが応援してくれるならもうちょっと頑張ろっかなぁ」  しまった、と思ったのにさらっと流されて、気にも留められていないんだな、と再確認した。 「うん、頑張ってよ。僕、頑張ってる安原さん好きだよ」 「……ん、頑張る。ありがとね、元気出た」  にっこりと笑って「部活に戻るね」と安原さんが教室を出ていく。嫌になっちゃう程可愛い笑顔。僕は「頑張ってね、また明日」と声を掛けて、お互いに「バイバイ」と言い合った。  教室から遠く離れていく足音を確認して、僕はハァ……と大きなため息をつく。 「全然……相手にされてないんじゃん……」  いや、知ってた。緊張して挨拶すら出来なくて、そんな僕が安原さんに好かれてるわけないことぐらい。グラウンドにエールを送る彼女の視線の先に、いつも先輩がいたことくらい。伊達に、見つめていたわけじゃないのだ。  ……だけど、へこむなぁ……。  窓際に立ちぼんやりと校庭を見つめる。シュート練習をしていたサッカー部の選手が、際どい所にゴールを決めて歓んでいる。背が高くて、ちょっと厳しい、明るい笑顔の似合う先輩。  ……敵うわけ、ないんだよなぁ。知ってたけどっ。  いつの間にか、グラウンドまで出てきていた安原さんが、自慢げに笑い転げてる先輩に目を奪われてるのが見えた。  あー……、俺も泣きたい。泣いちゃおっかな、誰もいないし……。  泣いたら、スッキリして諦めがつくのも早いかもしれない。  みるみる盛り上がる涙に、ズッと鼻を啜る。何もできなかったけど、見てるだけだったけど、好きだったんだよなぁ。  動くたびにゆらゆら揺れて跳ねる宮原さんの髪が、楽しそうに見えてズキズキと胸が痛んだ。ポタリと落ちる涙をそのままにして、歪んだ視界でグラウンドを眺める。涙になって、哀しい気持ちが全部出てっいってしまうように、明日からは全力で宮原さんを応援できるように、僕はポタポタと涙を落とし続けた。      * * *  どれくらいそうしていたのか、いつの間にか涙もひいて、感傷的な気分も過ぎて少し冷静になってくる。ちょっと……、泣き過ぎたかも。  顔洗って帰らなきゃ、と後ろを振り向いて驚いた。教室の入口でドアにもたれた清也が立っていた。 「……清也」  驚いた僕が名前を呼ぶと何も言わずに僕の隣に並んで、カルピスソーダのペットボトルを差し出す。イラストに描かれた少女が安原さんに似ていると言って気に入り、僕は近頃カルピスばかりを飲んでいた。実はそこに掛かれている乙女チックなキャッチフレーズも気に入っていた。  少し奥手な片想いの言葉。どれも、僕には身に覚えのありすぎるものばかり。……その恋も、今終わったばかりなんだけど。  プシュッと音を立てて栓を開け、甘ったるい恋の味を飲み込む。シュワシュワと舌先で弾ける刺激が、今のほろ苦さとよく合っている。  黙ったまま僕を見る清也の沈黙が気まずくて話しかけた。 「あのさ、もしかして見てた?」 「んー……」 「声、掛けてくれれば良かったのに」  だったら、こんなに一人で浸って泣いたりしなかったのに。 「泣きたかったんじゃないかと思って」 「……」  こういう所、清也は聡いんだよな。だから一緒にいて心地良い。でも、今は気恥ずかしかった。 「泣いてんの見られるの、恥ずかしいだろ」 「……見てねーし。それに、泣くのは恥ずかしくないよ」  茶化すでもなく真剣に言われて「そっか」と頷いた。 「振られちゃった」  なるべく明るくなんでもないように言う。 「まだ、早いんじゃないの? 何もしてないだろ」 「んー、そうなんだけど……。宮原さんが笑っていられるように応援したいからさ、それでもいいかと思って」  えへへ、と笑って言う。振られてしまったのは悲しいけれど、嘘じゃない、本当の気持ちだ。 「そっか……」 「それでも頑張れ、とか言わないの?」  清也は諦めずに頑張るタイプだから、てっきりそう励まされるかと思ったのに。 「『応援したい』っての、わかるからさ。嘘じゃないんだろ」 「うん。安原さんの笑顔が好きだからさぁ……。惚れた者負けっていうか……、安原さんに好きな人いるのはっきり解っちゃったし、頑張って欲しいなって。いつでも笑ってて欲しいもん」 「うん。……俺も尚人のこといつも見てるから、わかる」 「そっか」 「俺、尚人のそう言うとこ、好きだな」 「……ばーか。照れるだろ……」  恥ずかしいこと言うなぁ。と、清也のわき腹を小突いた。ま、さっきの僕もそんなセンチな気分に浸っていたわけだけど。  俺達って親友ってやつ? と、込み上げる気恥ずかしさにニマニマと笑っていると、清也が不満気にもらした。 「……やっぱ、お前も気付かないんじゃん」 「え? 何?」 「自分のした告白忘れたのかよ」  何のことか解らずに聞き返すと、安原さんとのやりとりを蒸し返されて驚いた。 「え……? え!? ……えぇっ? そんな所から見てたの?」 「ま、偶然ね」  偶然て……。隠れてずっと見てたんだろと問い詰めたくて、でも素直に頷かれても今更恥ずかしい。恥かしいのでとりあえず拗ねた。 「…どうせ俺は、直接言えないヘタレですよっ」 「困るのわかってるから言えなかったんだろ。俺、そーゆーとこ好きだよ」 「ばっ…っ、揶揄うなよっ!」 「俺はお前みたいに優しくないからな」 「……優しくないから揶揄って楽しんでるの?」  僕の言葉にこれみよがしにため息をついてみせる。 「俺、お前よりハッキリ言ってると思うんだけど」 「は? 何を?」 「お前が好きだって言ってんの」 「え?」 「尚人が安原を好きでも、俺は尚人が好きだよ。それでいつかは、尚人も俺のこと好きになるんだよ。俺はこれくらいじゃ諦めねーよ? 今、スタート地点に立ったとこだしこれから攻めてくから。明日からまたよろしくな」 「え……、俺、男……、本当に?」 「嘘は言わない。お前も本気だっただろ? 俺もお前に本気なの」  そう言い切ると、僕のカルピスソーダを一口飲んだ。 「……甘いな。でも炭酸じゃねーのよりはマシか。もう、充分泣いただろ?」 「何だよ、充分て……」  失礼な言い回しに、つい突っかかる。 「安原のことより、俺のことでいっぱいにしたいんだよな。尚人の中を」  清也は気障にそう言って、僕の胸をトンと突いた。 「まぁ、今日は俺でいっぱいになって」  そういうと、あっと言う間に清也の顔が近付き、目を瞑る間もなくふにゅっと柔らかい感触が唇に触れた。  驚いた僕は、突き飛ばすことさえ忘れて硬直する。  そんな僕を清也は愛しそうに見て笑い、人差し指で今触れたばかりの唇をツンと触った。それから飲んだばかりのカルピスソーダのボトルに栓をして僕に押し付ける。 「これ、呪いな」  清也は心底楽しそうに笑い「俺、帰るから」と僕の返事を待たずに、僕を置いて教室を出て行く。      * * *  しばらくそこで立ったままの僕は、時間が止まったみたいだった。  ……なん、だっ、て……?  一番最初に思考が動く。それから清也の触れた唇を手で押さえた。  ……なんだって?  言葉も状況も理解できるけど、感情が追いつかない。  清也が、僕を好き? そんな素振り今まで一度だって感じたことがない。……いや、僕が鈍くて気付かなかっただけかもしれないけど。ずっといい友達だと思っていたのに、僕が好き? そんなこと、あるか?  清也の方が僕よりよっぽどモテるのに、よりにもよって男で友達の俺なんて選ぶことあると思うか?  ……あるよな、多分……あるんだろう。わかる、わかるけども。  思わず唇をかんで、唇に残されたカルピスの甘さにドキリとした。ファーストキスなのに、まさかこんな形で男友達に奪われるなんて……!      * * *  昨夜は、なかなか遅くまで寝付けなかった。  カルピスソーダの呪いのパワーは絶大で、手に持っているからとうっかり飲んだら清也のキスを思い出すし、集めたペットボトルを見ても思い出すし、ご飯時のお椀が唇に触れても思い出すし……。とにかく、ことあるごとに清也を思い出した。  それどころか、夜ベッドに入ってからもキスしちゃったんだ……と思うとやたらともんもんして、興奮してきちゃうからたまらない。抜こうと思ってもここで抜いたら清也に負けるような気がして、諦めて夜中に腹筋してから寝た。   ……けど、見事に清也は夢の中にまで出てきた。そして、夢の中でもキスしやがった!  俺、意識しすぎ? 清也のこと、気になってるの!? ……ちょっと、自分が信じられない。  昨日、安原さんに失恋したばかりなのに、清也でいっぱいで安原さんに振られたショックは見事に吹っ飛んでしまった。こんなに簡単に俺の中身って変わっちゃうものなわけ?  今日からどうすりゃいいの……。とビクビクしながら学校に向かっていると「梶くん」と声を掛けられた。安原さんだ。 「おはよ」 「おはよう、安原さん」 「昨日、ありがとね。梶くんと話してスッキリしたので、お礼ね。よく飲んでたでしょう?」  手の中に、カルピスウォーターが押し付けられ「ありがとう」と受け取った。「じゃあね」と手を振って友達の元へと駆けて行く安原さんはやっぱり可愛くてドギマギする。  そして、安原さんが駆けていった向こうに清也の姿を見つけてドキリと心臓が鳴り、思わず手を唇に当てる。  声、かけた方がいいよな? いつも通りがいいよな?  どうしようか悩んで何パターンもシミュレーションして、結局いつも通りに……と決めてきた。だけど、清也の後ろ姿だけで、ドキドキと心臓が走り出す。  後ろから清也に近付き、声を掛けようと息を詰めた所でふいと清也が振り向く。僕はびっくりして「ひっ」とおかしな声が出た。 「……そんなに、警戒すんなよ」  ぼそりと清也が呟いた。 「びっくりしたんだよ、声掛けようと思ったら突然振り向くから」 「なんとなく尚人がいそうな気がして……」 「すごいな、超能力?」 「……俺、お前のことばっか気にしてるもん」  直球で言われ、でも清也は浮かない表情だ。 「そっか。おはよ」 「ん……、良かった。口きいてもらえなかったらどうしようかと思った」 「そんなわけないじゃん。友達だもん」 「そこのポジションは変わらないんだ?」 「……うん。清也いいやつだし、そういう意味じゃないけど清也のこと好きだし、今まで通りにしようと思って」  ニコリと笑って言ってやる。これが昨夜出した結論だ。清也は友達だから今まで通り!  僕の言葉にいつも通りを取り戻したっぽい清也がニヤリとする。 「ふーん……。呪いはどうなった?」 「えっ……呪い!? えっと、あのっ、それは何ともなかったよ……?」  ……しまった、途端に動揺してしまった。口が裂けても『そのことばかり考えてました』なんて言えない。 「そっか……。何ともね、何とも……」  満足そうに呟いて、清也が肩を組んでくる。 「よし、決めた! やっぱり俺ガンガン行くから、尚人もその気になったらすぐに言ってくれよな!」  真っ赤になってしまった僕をグッと引き寄せて、自信あり気に清也が笑う。 「ならないから!」  そう言いながらも、僕の心臓はバクバク脈打って今にも爆発寸前だ。  昨日の今日でいきなり清也にドキドキしてるなんて……。僕は余りにチョロ過ぎる心臓に呆れて、喝を入れた。
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