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何も答えない杏奈に、畳み掛けるように話を続ける。
『いらないよな?ってかそんな余裕ないよな?うちの家計』
「待って。弁護士さんに聞いてみる」
『は?そんなことしたら余計に金がかかるんじゃないの?弁護士費用って高いんだろ?』
「……ご心配なく。そういう相談に無料で対応してくれるところもあるみたいだから。わかったら連絡します」
そこでプツッと切れた。
_____え?弁護士とか入ったらヤバいんじゃないのか?
下手すると、下がってしまう給料までも差し押さえられるかもしれないじゃないか!
「いや、待て」
落ち着くために自分に向かって話す。
そもそも、ハッキリとした証拠はないんだし、家を蔑ろにしたというほどのこともしていない。
強いて言えば、圭太の怪我くらいか?
「だとすれば慰謝料はそんなにいらないだろ」
誰に言うわけでもない独り言を繰り返す。
自分の行動を思い返して、もしも弁護士が入っても不利にならないように手を打っておかないと。
「何をブツブツいってるんですか?」
声をかけてきたのは、紗枝だった。
「えっ、あ、なんでもない」
ここは非常階段の踊り場で、まだ会社の中だったということを忘れていた。
紗枝とはなんの後腐れもなかったのにと思い、あらためて紗枝を見る。
「こんなところで黄昏ちゃって。アレですか?リストラ候補とか?」
「まぁ、色々とね。それより君はリストラの話はなかったのか?」
「その話が出る前に、退職を申し出てたので。今日が最終日です」
ほら、と見せてきた紙袋には、机にあった私物が入っている。
「うそ、知らなかった」
「会社の人員整理の波に隠れて、そっと退職しようと思ってたので。みんなは早期退職だと勘違いしてますけど」
「そっか、自己都合ってやつか」
「……というか、寿?」
「えっ!うそ!じゃあ送別会とかしないと」
「そういうのが嫌だから、こそっと退職するんですよ」
「あ、まぁ。へぇ、幸せにね」
記憶を辿れば、あの夜の紗枝を思い出すことができるけど、それはもうずっと昔のことのようで現実だったかどうかも確信がない。
「私は大丈夫ですよ。それより、岡崎さんこそ、何かあったんですか?ずっとヨレてますよ」
「ヨレてるって……」
「もしかして、浮気がバレて奥さんが出て行ったとか?」
周りを気にして小声で言う紗枝。
非常階段には他に誰も見当たらないけれど、こういうちょっとした気遣いが、京香と違うところだ。
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