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新生活
離婚について、特になんの進展もないまま、俺は新しい(と言っても、数年前までやっていた)仕事に就くことになった。
食材の調達から、調理、バイトが足りないと配膳までやる。
閉店後も片付けや翌日の下準備で、帰りが終電をまわることもあった。
タクシーなど使えるわけもないので、自転車で通勤することにしたけれど、正直言ってヘトヘトだ。
「じゃあ、車で通勤すればいいじゃないの?」
とお袋は言うけれど、厨房責任者くらいでは駐車場なんてもらえない。
社員は最低限の人数でアルバイト頼りの店舗は、目が回るほど忙しく、杏奈と話すタイミングを掴めずにいる。
「ね、もういい加減、自分のことは自分でやってくれない?私は雅史の奥さんじゃないんだからね!」
お袋の愚痴が、増えてきた。
いくら息子だと言ってもいい歳した妻子持ちの俺の身の回りのことなんて、今更したくないのだろうけれど。
「あー、ごめん、ちょっと仕事が落ち着くまで待って………」
手にしていた缶ビールの重さが、ふっと軽くなった気がした。
カシャンと音がしたのと、ドサッと倒れ込んだ音がしたのは夢かと思った。
「えっ、ちょっと、雅史!ね!雅史!お父さん、ちょっときて、雅史が!」
遠くでお袋が俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
_____あれ?おかしいな、すぐそばにいたはずなのに
俺を呼ぶお袋の声がとても遠くに聞こえる。
返事をしたいのに声が出ない、それに見えない。
その後のことは、わからなかった。
◇◇◇◇◇
_____喉が渇いた
水が飲みたい!強いその感覚で目が覚めた。
「………あ、杏奈、み……ず」
目の前にいた杏奈に、水が欲しいと言おうとした。
「あっ、雅史、気がついた?」
「おとーたん、おとーたん、おきた?」
杏奈と圭太が間近で俺を覗き込んでいる。
「気がついた?よかった」
お袋と親父もいるようだ。
「え?」
まるで何かの重石を乗せられたように、全身が重くて動かせない。
左腕には何やら点滴が繋がれている。
「どこか痛いとこない?ここ病院だけど、わかる?」
杏奈の心配そうな問いかけに、すごくホッとする。
「びょう…いん?」
「そう、あなた、いきなり家で倒れたのよ、過労だって」
答えてくれたのはお袋。
_____あー、ここは病室か
ということは俺は救急車で運ばれたのか、なんて他人事のように想像した。
それにしても。
「水…が飲みたい」
ひどく喉が渇いて、かすれた声でやっと水が飲みたいことを伝えた。
「うん、待ってて」
杏奈はどこかに水を買いに出て行った。
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