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「ただいま」
玄関を開けて帰宅を伝えれば、「おかえり」と母の声が返ってきた。声に紛れてじゅうじゅうと何かを焼く音がする。今年も母はあのテーブルに溢れんばかりの料理を並べるつもりなのだろう。
二階の自室に上がって荷物を降ろし、かばんを開けたところでお気に入りのクリアファイルから紙が飛び出ていることに気づく。忘れていた、学校から貰った書類に印鑑を押さなければいけない。
キッチンでフライパンを片手にしている背中に、火の音に負けない声量で声をかけた。
「お母さん、印鑑ってどこ?」
「えーと確か、引き出しの中にあったと思うわ」
フライパンを振りながら背中で返事をした母。言われた通りに引き出しを開けるが、一段目には無かったので二段目を引いてみる。
一段目とは真逆で、二段目は小物が雑に入れられてごちゃごちゃとしていた。苦笑をしながらもがさがさと漁っていると、奥の方に細長いケースが見えた。中指と人差し指で挟んで何とか取り出す。
「ん?」
ふと、奥の方に白い何かが見えて、閉めようとした引き出しを再び開ける。真っ暗ではっきりとは見えない奥の方を、目を細めてじっと見る。白いそれは、どうやら紙の類のようだった。
いつもならスルーして終わりなのだが、妙な胸騒ぎがした。再び手を突っ込んで、何とか届いた指先で紙を挟む。そろりと引っ張って取り出した物を目にした途端、どくりと心臓が音を立てた。
私が取り出したのは、白い封筒だった。
「これ」
カタンッ。印鑑が床に落ちた。でも私は拾うことができない。白い封筒から目が離せなかった。
震える手で封筒を開ける。夢の中よりもはるかに時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり封を切った。人差し指を中に入れると紙よりも固い手触りを感じ、逸る気持ちを抑えながら恐る恐る取り出してみた。
「写真……?」
出てきたのは裏返しになった写真用紙と二つ折りになった便箋。
思い切ってまずは写真用紙を表に向けてみた。
二人の女の子が笑顔で写っていた。左側にいる小学生くらいの女の子は、向日葵みたいな眩しい笑顔をこちらに向けている。そんな女の子の頭に右手を置いて、高校生くらいの女の子は柔らかな笑顔を浮かべていた。
左側の女の子は私だ。
「天音?印鑑は見つかった?」
「お母さん、この写真に写ってるのって、誰?」
「え?」
ひょいと台所の向こう側から顔を覗かせた母は、写真を見るなり表情を一変させて、持っていた菜箸を落とした。声を震わせて、うっかり声に出てしまったとばかりに。
「みつき」
誰かの名前を呟いて、視線を写真の右側の高校生くらいの女の子に向けた母。ハッとした様子で口を押えた。
みつき
その名前を聞いた瞬間、割れるように頭が痛みだして、印鑑と写真を床に落としてしまう。頭を抱えて床に蹲ると、耳の奥に誰かの声が響いた。
――え、私にくれるの?嬉しい!
――誰に書いてるのかって?うーん、内緒。
――ふふっ、天音の誕生日が来たら教えてあげるね。
駆け寄ってきた母の手が背中を擦り、顔を上げない私に何度も呼び掛ける。床に落ちた写真が再び目に映った時、唐突に思い出した。
「――お姉ちゃん」
痛みが最高潮に達して、私の意識はそこで途絶えた。
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