海面ポスト

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 目が覚めると既に父は帰って来ていて、重苦しい雰囲気にふさわしくない豪勢な食卓を三人で囲んだ。  最初に口を開いたのは私だった。 「全部、思い出したの」  そう言っただけなのに母の目にはみるみる涙が浮かび、嗚咽を漏らし始めた。「そうか」とだけ呟いた父は震える母の肩にそっと手を置いた。  私には五歳年上の姉がいた。大好きで、何をするにもずっと一緒だった。  その姉は五年前の、私が小学五年生の時に交通事故に遭って、呆気なくこの世を去った。私の誕生日に、「予約していたケーキを取りに行く」と言って靴を履いて外に出た姉はそのまま戻ってこなくて、ずっと玄関で姉を待っていた私は今か今かとドアが開くのを待ち構えていた。  トラックに撥ねられて即死だった姉は、ケーキを持たず、靴も履かずに、冷たくなって帰ってきた。  あのクラゲの便箋は私が姉の誕生日にプレゼントしたものだ。  母と立ち寄った雑貨屋さんで偶然目に入ったそれを見た瞬間、クラゲのストラップが付いた姉の通学かばんが頭に浮かんだ。店員さんに包装してもらった便箋ともらった白紙のメッセージカードを皺にならないよう、丁寧に自分のバッグの中にしまったのを覚えている。  姉はとても喜んで、その日の夜には便箋にペンを走らせていた。誰に渡すの?と聞いても微笑むだけで教えてくれなかった。 「あの手紙は天音に宛てたものだよ。自分の誕生日にくれたものだから、今度は天音の誕生日に届くようにして驚かせたいって。俺たちに楽しそうに話してくれたんだ」  口を開くことができない母の代わりに父が全てを説明し、懐かしむように写真に視線をやる。   「でも、お姉ちゃんは」 「ああ。……天音の誕生日に事故に遭った。まだ十六歳だったのに。」 「十六歳……」 「そしてお前はそのショックで、みつきに関する記憶をすべて忘れてしまったんだ」  精神を守るための防衛反応が働いた、と医者は告げたらしい。無理に思い出させるのは良くないので、二人とも私の様子を見守ることしかできなかったという。  届くことの無かった手紙は引き出しの奥にしまわれた。私が姉を思い出す日が来たら渡す予定だった、とようやく口を開いた母が涙声で告げた。  父が写真の横に置かれていた二つ折りの便箋に手を伸ばし、「読んでごらん」とこちらに差し出した。  震える手で、便箋を開く。 ――天音、お誕生日おめでとう!  夢の中で何度も見た、癖のある丸っこい字で書かれていた。  手紙の送り主は姉だったのだ。  大好きだった姉を、どうして忘れていたんだろう。  私の誕生日に死んだ姉は、自分の命日の日にだけ会いに来てくれていた。夢の中で、あの日渡せなかった手紙を一年に一回――私が姉と同じ十六歳になるまで毎年、不思議なポストから送ってくれていた。  ずっとずっと、私を見守ってくれていた。  視界が滲み始め、クラゲのイラストにぽたりと水滴が落ちて染みを作った。染みはどんどん増えて、私は必死に歯を食いしばった。  父がティッシュを数枚掴んで渡してくれた。滅多に表情を変えない父の目にも透明な膜が浮かんでいる。ついに母が顔を覆って声を上げた。  その声を皮切りに私も激しくしゃくりをあげて、姉の名を呼びながらひたすらに泣いた。
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