笑わない天使

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 冬休みが明けて、一斗(かずと)は新たな一歩を踏み出すように真新しい教室へ足を踏み入れた。  去年改築(かいちく)工事を終えたばかりの教室には有難(ありがた)くもエアコンが取り付けられており、温かな空気が一斗を迎え入れる。  教師の後ろについて歩く一斗は、生徒たちの視線が残らず自分に集まるのを感じた。 その眼差しは単に転校生を珍(めずら)しく感じるという種のものではなく、別の含(ふく)みを持った好奇(こうき)な視線であることを、一斗ははっきりと自覚していた。 担任の深枝(ふかえだ)がクラスの新たな一員を紹介(しょうかい)すると、一斗は皆の視線を十分に意識して、期待通りの優雅(ゆうが)な笑みをその顔に浮かべてみせた。 「七波(ななみ)一斗です。よろしくお願いします」  零(こぼ)れる柔(やわ)らかな声音(こわね)に、室内の空気が一層ざわりとして揺(ゆ)らぐ。  一斗を見つめる女子の大半から、熱のこもった溜(た)め息が漏(も)れ聞こえた。                  *  転校してすぐの頃は授業間の小休みでさえも席から立ち上がれないほど周囲を取り巻いていたクラスメイトたちは、二週間も経つとようやく落ち着きを見せて一斗を解放した。 『歓迎(かんげい)してくれてありがとう。でも、そんな急に歩み寄らなくても大丈夫だよ。皆が良くしてくれるから疎外感(そがいかん)を覚えたりしないし、俺はずっとここにいるんだから。焦(あせ)る気はないから、ゆっくり仲良くなろう?』  その一言がクラスメイトをほど良い距離(きょり)へと落ち着かせたきっかけではあるが。  物心ついた頃から培(つちか)った人間観察力を用いれば、他者を自分の思い通りに動かすことなど容易(たやす)いことだった。一人一人の性格は複雑であっても、その行動の選択肢は思うほど多くはない。抜け駆(が)けを許容(きょよう)しない集団心理を利用すればなおさら。  だが、例外というものはどこにでもいるもので、そんな心理をすり抜けてたった一人毎日のように一斗に纏(まと)わりつく男子生徒がいた。名は柊善治(ひいらぎよしはる)。野球部に所属する能天気(のうてんき)な性格の持ち主で、他が遠慮(えんりょ)しつつ近付いてくる中で、善治だけが実にあっけらかんとした様子で一斗の傍にいた。そう、まるで十年来の友人の様に。  一斗にとってそんな善治の存在はやっかいなもの――ではなく、都合の良い案内人だった。  転校したばかりの一斗には当然のごとくその校舎に関しての知識はない。理科室や家庭科室などといった移動を伴う教室の場合はなおさらに案内を必要とする。その先導者として一人男の友人――女子では困ることは言うまでもない――が必要だった。  善治は単純(たんじゅん)明快(めいかい)で非常に扱(あつか)いやすい性格だったが、聞けないこともあった。それはクラス内での相互関係。さすがにそれを聞いては警戒(けいかい)を呼びかねず、善良(ぜんりょう)な人間と信じさせるには口に出してはならない質問だった。  一斗自身大いに自覚しているが、自分の容姿は異性から見て非常に魅力的(みりょくてき)なものである。ゆえに、それに伴った嫉妬(しっと)を受けることはあり、持ち前の世渡りの上手さを持ってしても回避(かいひ)が難しかった。一斗からすればいい迷惑(めいわく)以外の何ものでもないが、ある意味持って生まれた宿(しゅく)命(めい)のようなものなので、理解した上でそれを避ける術(すべ)を身につけることが最善(さいぜん)の手段だと納得(なっとく)する他なかった。 とにもかくにも余計な反感(はんかん)を買わないためには、まず真っ先に誰がクラスの中心であって、どのような力関係を持っているかを知ることが重要だった。  円滑(えんかつ)な学校生活を送るために、欠かせない情報収集。 最悪の場合は少数に権力の集中したカースト制度が築かれていると身構えていたが――様子見の二週間が過ぎた頃にはそれが無駄な杞憂(きゆう)だったことが知れた。都立であるこの日和(ひより)高校は、その名に違(たが)わず穏(おだ)やかな校風を有していた。生徒一人一人が伸び伸びとした生活を送り、何に怯(おび)えることなく楽しげに笑い合う。平凡(へいぼん)で理想とする環境がそこに整っていた。  それがわかれば、一斗が求めることは個人としての快楽(かいらく)だけだった。生きていく中でも人間は食指(しょくし)の動く何かが無ければ多幸(たこう)感を得ることは難しい。それは趣味(しゅみ)とも言い換えられるのだが、楽しみがあればそれだけ生活は充実し、生きることに意欲(いよく)的になれる。一斗の場合、それは「関わる人間すべてを理解すること」だった。  一瞬聞こえは良いかもしれないが、なんのことはない、他者の心をコントロールするための下卑(げび)た人間観察に他ならない。  誰に何を言えばどんな反応が返り、どんな感情を抱(いだ)かせるか。それが思惑(おもわく)通りになった時の快感(かいかん)は言い表せず、そんな一斗の興味を惹(ひ)きつける人間は幸(さいわ)いなことに、クラスの中に一人だけ見い出すことができた。  巴(ともえ)希(き)早(さ)。平均的な身長の、人形のような女の子だった。  希早は無口であるのにも拘(かか)わらず、クラスでは特別目立った存在だった。言い方を変えれば浮いている、悪(わる)目立ちした存在。容姿はどちらかといえば愛らしい方だったが、その無表情と取り巻く空気のせいでその印象は蜃気楼(しんきろう)のように霞(かす)んでいた。  二週間が経っても変化のない様子はまるでハシビロコウのようで、睨(にら)みつけるような鋭(するど)い眼光は持ち合わせていないものの、下手をすれば手洗いに立つことさえなく、ほとんど座席と一体化する毎日を過ごしていた。 恐らく、このまま観察を続けていてもその心理(しんり)を解き明かすことはできない。  稀(まれ)に見る謎(なぞ)な生態(せいたい)に、一斗は少なからぬ好奇心(こうきしん)を覚えていた。  ゆえに、唯一の情報である希早の早朝登校に合わせて、その日一斗は一時間早く家を出て教室の扉を開けた。  目当ての人物は情報通り、人気(ひとけ)のない静謐(せいひつ)な空気の中でぽつりと窓側の席に座っていた。  ともすれば無人とも思える教室の中を一斗が行く。 エアコンの動いていない室内の空気は、上着を着たままでなければ鳥肌が立つくらいに冷え切っていた。 「おはよう。今日も寒いね」  一斗が万人受けする爽(さわ)やかな微笑(びしょう)を湛(たた)えて声を掛けると、希早はふと顔を上げて一斗を見た。 「……おはよう」  鈍(にぶ)いのか、驚きゆえか、ゆうに三拍も置いて返事がくる。クラスの誰も希早には声を掛けないため自ら壁を作っているのかとも思っていたが、返事があったことを考えるとそうではないらしい。  何を考えているのか今一わからない顔だったが、一斗は構わず言葉を続けた。 「話すのは初めてだね。俺、七波一斗(ななみかずと)。冬休み明けに転校してきたんだけど――」 「知ってる。希早、ホームルーム聞いてた」  一斗がわずかに驚いて眉を上げる。  思ったよりも良い反応だったことはもちろんだが、何よりもその助詞の抜けたぎこちない片言に違和感を覚えた。 異国訛(なま)り、ではないが、流暢(りゅうちょう)なしゃべり方でもない。もしかすると彼女は帰国(きこく)子女(しじょ)か何かだろうか。 「――希早」 「え?」  推測(すいそく)に浸(ひた)っていた一斗の耳に小さな呟(つぶや)きが届く。 「名前、巴希早」  希早同様知ってはいたが、一斗は鷹揚(おうよう)に頷いてみせた。 「そう、珍しい名前だね。君に合っていて可愛い」 「可愛い? 名前が?」  希早は首を傾(かし)げた。  もちろん女の子を喜ばせるためのリップサービスではあったが、こんな風に疑問を返されるとは思っていなかった。  言葉に詰まった一斗から、希早はすぐに興味を失ったかのように目を逸(そ)らした。  普通ならば何らかの感情を伴った反応を返してくるものだが、希早は怒るでもなく恥ずかしがるでもなく、それ以上自分から何かをしゃべろうとはしなかった。 「…………」  別の話題に変えるべきか、立ち去るべきか。  逡巡(しゅんじゅん)している一斗の背後で、エアコンが起動する音と共に朗(ほが)らかな聞こえてきた。 「気にしないでいいよ。その子少し変わっているから」  本人にもしっかり届くような声量。  そこに居たのはクラス委員の三田(みた)橋(はし)京(きょう)香(か)だった。黒髪のロングヘアで真面目(まじめ)そうな少女だったが――。  わずかな勘繰(かんぐ)りを入れた一斗だったが、京香は少しも悪びれることなく希早に歩み寄ると、まるで小さな妹に諭(さと)すように優(やさ)しく告げた。 「巴さん、クラスメイトが話し掛けたらもう少しお話してあげなきゃかわいそうだよ。七波くんはまだ巴さんのことよくわかってないんだから、仲良くしてあげてね」  京香の言葉に希早の顔が上がり、転じて一斗の方を向く。 「……希早と話、したかった?」  今一(いまいち)読めない反応にとりあえず無難(ぶなん)な答えを返す。 「もちろん。俺は皆と仲良くなりたいからね」 「お話しないと、かわいそう?」  真顔でそう尋ねられ、一斗は内心困惑(こんわく)した。  真っ直ぐに向けられたその無垢(むく)な瞳にはなんの裏も影も見えず、とても十数年の人生を歩んできた女子高生のものとは思えなかった。  少し変わっている、というような状態では決してない。なんらかの障害(しょうがい)でもあるのか――希早はどこか幼児(ようじ)返りしているような少女だった。  一斗はすぐに戸惑(とまど)いを表情から消し去ると、京香に習って説明的に言葉を選んだ。 「そうだな、嫌われたかな、とは誤解(ごかい)してしまうかも。もう少し話をしてくれたら俺は嬉(うれ)しいよ」 「そっか。わかった」  何がわかったのか、希早はそれだけ言うとまたもや前を向き――今度こそ黙(だま)り込んでしまった。  一斗は刹那(せつな)、自分が宇宙語でも話しているような気になった。  彼女と自分は果たして同じ言語を話していただろうか。 「七波くん、巴さんっていつもこうだから、気にする必要はないよ。次はもう少ししゃべってくれると思うし、勘弁(かんべん)してあげて?」  京香は何を気に止めるでもなく、自分の席に戻って行った。  一斗は気勢が削(そ)がれた心地で前髪を掻(か)き上げた。 ほどなくすると、登校してきたクラスメイトたちで教室は活気に溢(あふ)れた。  朝の練習を終えて教室に飛び込んできた善治が騒(さわ)がしく挨拶(あいさつ)して回る中、一斗はもう一度振り返って希早を目端(めはし)に捉(とら)えた。だが、少女はやはり何を考えているのかわからない顔で静かに前だけを見つめていた。                  *  忘れかけていた希早への興味(きょうみ)を取り戻したのは、一斗が転入して初めての試験を終えた数日後だった。  日和高校は古風にも成績の順位を廊下に貼(は)り出す方式を採用していた。 成績(せいせき)を見られてしまう羞恥(しゅうち)心(しん)と闘争心を利用して全体の底上げを狙っているのか。  生徒たちは成績が貼り出されると同時にどっと廊下に押し寄せた。  悲鳴と歓声でざわめく中、一斗も倣(なら)って首を仰(の)け反(ぞ)らす。  紙の中央から右方に目を走らせ、三位の場所で目を止める。 ――最初の試験にしては好成績、か。  一斗が言葉もなく独り言つ。  学年全体のレベルはこれで大方予想がついた。後は下手な嫉妬(しっと)を受けないように調度良い成績を取っていくだけ。  進学校というのもあって、上位二十位の点数はほぼ僅差(きんさ)だった。  他クラスの人間ばかりなのか、どの名を見てもあまりピンとこない。  とりあえず自分よりも成績の良い人間の名だけでも記憶しておこうと視線をずらし――そこに信じられない名前を見つけて一斗は目を疑った。  ――二位、巴希早。  一位とわずか一点差にまで詰め寄ったその名に思わず唖然(あぜん)とする。  会話も覚束(おぼつか)ないあの少女が、まさかテストでこんな高得点を得られるとは微塵(みじん)も思っていなかった。同姓同名、もしくは何かのドッキリだと言われた方がすんなり納得(なっとく)できる。  ふと気付くと、隣に希早の顔が見えた。  喜びも悔(くや)しさも浮かばない瞳。  希早を見つめた瞬間、一斗はぞくりと奇妙(きみょう)な感覚が湧き上がるのを感じた。  肉体と精神のちぐはぐなこの少女。彼女は今、何を思っているのか。  一斗は薄暗い好奇心を人好きのする笑みに挿(す)げ替えると、「良い人」の仮面を被(かぶ)って声を掛けた。 「巴さん、すごいね。二位だって。いつもこんなに成績良いの?」  希早は頭一つ分高い一斗をぼんやりと見上げると、未だに掴(つか)めないテンポを持ってそれに答えた。 「……いつもは、一位」 「――一位? 本当に?」 「一位じゃないと、お母さん、見てくれない」 「二位だって立派(りっぱ)な成績だよ? それに一位とは一点差だし」 「でも、一位じゃないと、意味ない」  わずかに寄った眉(まゆ)が額に小さな皺(しわ)を刻む。  感情らしき色を伴った初めての反応。希早の言葉に一斗は少なからぬ驚きを感じて目を瞠(みは)った。アヒルだと信じていた存在が純白(じゅんぱく)の羽を持つ白鳥だったことを知るような驚嘆(きょうたん)。  胸の中で新しい何かが芽生(めば)える心地がした。  一斗は一瞬言葉を探し、正解を探るように口に乗せる。 「じゃあ、残念だったね?」 「……うん」  ようやくハマったピースに一斗は自信を得て半歩身を寄せた。 「ねえ、よかったらさ、巴さんの勉強の仕方教えてよ。参考にしたいからさ」 「仕方?」 「そう。家でどうやって勉強するのか知りたいんだ。もしかして、塾(じゅく)か家庭教師呼んでたりする?」  希早は首を振った。そしてぽつりと答える。 「希早、学校で勉強する」 「学校? 休み時間とか、放課後とか?」  授業外では何もせずじっとしている希早の姿しか、一斗の記憶(きおく)にはない。  常に注視(ちゅうし)していたわけではないので希早がいつ何をしていたか明言(めいげん)することはできないが……もしかしたら知らぬ間に教師に質問しに行ったりしていたのだろうか。  昨日以前の過去を脳内(のうない)で探っていると、希早は再びぽつりと――とんでもないことを言った。 「授業。希早、その時全部覚える」 「――は?」  届いた声が一斗の耳に一(いっ)拍(ぱく)遅れて入り込んでくる。  ――授業だけで、覚える?  聞き違いだろうか。「予習」や「復習」を重んじている人間をまるで馬鹿(ばか)にしたような言葉だ。一度授業を聞いただけで内容のすべてを理解するなど、普通ならば考えられない。  一斗は努力型の人間だった。家ではもちろん予習も復習も行い、テスト前には睡眠(すいみん)時間を削(けず)ってより深くを勉強する。この三位は紛(まぎ)れもなく日々の努力の結晶だった。なのに――。 「……巴さんは、授業以外では勉強しないの? 少しも?」 「うん」  即答だった。  一斗は言葉を失い、マジマジと希早を見つめた――とたん。 「そいつと張り合ったって虚(むな)しいだけだぞ」  投げ掛けられた低く冷ややかな声音に、一斗が目を上げる。  希早を挟(はさ)んだその向こうに、順位表をじっと見つめる少年の姿があった。  長身の、縁(ふち)なしメガネを掛けた精悍(せいかん)な顔立ち。 「君は?」  少年はちらりと横目で一斗を見ると、嘆息(たんそく)交じりに名乗りを上げた。 「久住涼(くずみりょう)」  ――なるほど。  順位表の一番右に目を止めて得心(とくしん)する。 「一位おめでとう」 「……それが嫌味(いやみ)じゃないなら受け取っておく」  無愛想(ぶあいそう)な態度に一斗が苦笑(くしょう)する。 「捻(ひね)くれてるなあ。今回は天才に努力が勝(まさ)った結果ってことでしょ? すごいことだと思うけど。俺は――」 「知っている。七波だろう。美形の転校生が来たと噂(うわさ)になっていた」 「光栄(こうえい)だね。君のような秀才(しゅうさい)にも興味を持ってもらえるなんて」 「お前も努力家か?」 「まあ。及ばずだったけどね。今までの学校ではずっと首席(しゅせき)で通してたんだけど、残念(ざんねん)」 「そうは見えないけどな」 「頭良さそうには見えない?」 「違う。残念そうには見えないという意味だ」 「そうかな? これでも落ち込んでるんだけど」  一斗はまるで感じてもいない悔(くや)しさを表現するように表情を作り直す。そして周りの視線を十分に意識して涼に右手を差し出した。 「これからは二人に負けないように頑張るから、よろしく」 「……ああ」  涼と向き合いながらも背後に意識を飛ばして、一斗が気配を探る。  本音(ほんね)を言えば、試験の成績や周囲の目など、今の一斗にとってはどうでもいい瑣末(さまつ)なことだった。一斗が嫌うのは、なんの楽しみも見い出せない退屈(たいくつ)な毎日。それを覆(くつがえ)せるのはたった一つ、滅多(めった)に現れることのない好奇心をくすぐる対象を見つけ、探求(たんきゅう)すること。  この瞬間(しゅんかん)も、希早が何を考えどう感じているのか知りたくてうずうずした。  この時の希早は、子どもにとっての買ったばかりの玩具(おもちゃ)と等しい存在に他ならず、どんなことをすれば希早が感情を乱(みだ)すのか、一斗は試(ため)したくて仕方ない衝動(しょうどう)に駆(か)られた。 その日から、一斗は事あるごとに希早に付きまとうようになった。                 * 「おはよう、巴さん。今日は機嫌(きげん)良い?」  朝、同じ質問を繰(く)り返すようになって、今日で二十日目。  読み取り辛い表情を向ける希早に、一斗はまずその心の動きを知ることから始めた。 「――普通」  本当にわずかだが、眉がぴくりと上がる。  それは希早が少しだけ身構(みがま)えた証(あかし)。  希早は近頃、頻繁(ひんぱん)に話し掛けて来るようになった一斗に対し、動揺(どうよう)を感じているようだった。  一斗はにこりと愛想(あいそう)良(よ)く微笑(ほほえ)むと、希早の前――まだ主(あるじ)の来ない冷えた席に後ろ向きに腰を掛けた。 「今朝は霜柱(しもばしら)も見えたのに、手袋して来なかったの?」 「希早、持ってない」 「手、赤くなってるよ?」  一斗が徐(おもむろ)に希早の手を取ると、両手で包んで息を吐きかけた。 「いい、しないで」 「温かくない?」 「温かい、けど……」  居心地(いごこち)が悪そうに寄る眉に、一斗は内心喜びを覚えた。感情の一(ひと)欠片(かけら)でも引き出せたことに小さな達成感を覚える。嫌がるならもう一度くらいしてやろう。  一斗が再び息をかけると、今度は明確に嫌悪(けんお)を露(あら)わにして身を引いた。希早はこうした接触(せっしょく)にはまったく慣(な)れていないようだった。 「――やだ、もういい」 「じゃあ、代わりにこれ」  一斗は上着のポケットからカイロを取り出すと、その両手に挟(はさ)んで持たせた。 「温かいでしょ?」  ぎりぎりの線引きで一斗が身を引く。彼女に嫌われては元も子もない。  希早は小さな熱の塊(かたまり)にあからさまにホッとした顔でカイロに視線を宿(やど)した。 「あったかい」 「ねえ、巴さんってなんでいつもこんなに早く登校するの? 毎日大変じゃない?」  希早はきょとんとして一斗を見つめる。 「……別に」 「ふうん? でもじゃあ朝ご飯ってどうしてるの? あんまり早いとお母さん大変じゃない?」  一斗の質問に希早は微妙(びみょう)に暗い顔をした。普段にはない反応だった。  一斗は興味を深くしてその顔を覗き込む。  希早はどこか言い辛そうにカイロを見つめて言った。 「食べない。お母さん、忙しい。お医者さん」 「お母さん、女医(じょい)なの? すごいね。もしかして、お父さんもお医者さん?」  希早は首を振った。 「わかんない。いないから」 「いない? 亡くなったの? それとも離婚(りこん)?」  一斗はデリケートなところまでズケズケと質問した。迷惑(めいわく)に思うのなら、それはそれでまともな感覚があるのだと新しい発見ができるし、すんなり答えるようならそういった神経(しんけい)はやはり備(そな)わっていないのだと確認できる。だが、希早は「わかんない」と再び同じ言葉を繰り返しただけだった。  わかったことは、母親は医者で忙しく、朝食さえ用意してはくれない人だということ。 「じゃあ、お腹減らない?」 「平気。いつもお昼と夕飯だけ」 「お母さん忙しいんでしょ? 夕飯はあるの?」 「ある。いつも、置いてある」 「手料理?」  希早は――やはり首を振った。  予想通りだ。  希早がこんなふうに口数が少ないことの理由を予測して、その一端(いったん)に確信を持った。  単純に、幼児の言葉が未発達(みはったつ)な理由は、親が子どもにあまり話し掛けないことが原因であると考えられている。そして、親が子どもの成長を願っていないことも。いつまでも小さな子どもであってほしいと思う親も少なくない。  だが、希早の場合は前者においての無関心ゆえと考えるのが妥当(だとう)だろう。  一斗はさらに一歩踏(ふ)み込み、さらりと提案した。 「じゃあさ、今度俺が夕飯作ってあげようか? 実は料理得意だったりするんだよね」  相手を知るには生活圏(せいかつけん)に入り込むのが手っ取り早い。警戒(けいかい)されては元も子もないが、どこまで他人を許容(きょよう)するのかも知っておきたかった。  強引に、けれどそれを感じさせないように無邪気(むじゃき)な笑みをくわえて。 「パスタ系が簡単だけど、お肉系が好きとか中華(ちゅうか)がいいとかあるならリクエスト聞くよ?」 「いい、いらな――」 「へえ、七波くんって料理得意なんだ。いい旦那(だんな)さんになりそう」  いつの間に登校してきたのか、二人の傍には一人のクラスメイトがいた。 名は仙石素(せんごくもと)花(か)。スカート丈(たけ)の短い、茶色く髪を染色したいわゆるコギャル系の少女だった。この少女も、外見とは相反して成績は良い方だった。授業には必ず出席しているし、根はそう不真面目(ふまじめ)でもない――が、見た目と性格が不一致(ふいっち)かと言われれば、そうではなかった。  素花はすぐ傍の机に腰を掛けると、これ見よがしに自身のある太(ふと)腿(もも)をさらけ出して笑みを浮かべた。 「わたし、家庭的な人って好きなんだよね。その上子ども好きなら言うことなしって感じ? 七波くんは子ども好き?」  素花はあからさまなアピールをして流し目で一斗を見る。  彼女がいつにない早目の登校をする理由を、一斗ははっきりと自覚していた。  一斗は素知らぬ顔で同じように微笑むと、鈍感(どんかん)を装(よそお)ってそれに答えた。 「好きだよ。赤ちゃんも幼児も。だって可愛いじゃない、巴さんみたいで」 「――っ」  引き合いに出した少女の名に、素花が一瞬希早を鋭(するど)く睨(にら)みつける。  牽制(けんせい)が思った通りの方向へ流れるのを見て取ると、半身を残して希早を振り返った。  希早は意外にもその敵意(てきい)を肌で感じているようだった。 「どうしたの、巴さん?」 「希早、トイレ行く」 「そう。一人で行ける?」  一斗の子ども扱いに、希早はムッとした顔をした。 「希早、幼児(こども)じゃない」  ガタン、と音を立てて席を立つ。  ――発見だ。  希早が一斗の含みに気付いて怒るなんて。  希早の背中を追う一斗の視線の先に、不愉快(ふゆかい)さを露骨(ろこつ)に浮かべた顔が割って入る。 「七波くん、あんなお子様放っておきなよ。どうせ何言っても大した反応しないんだから」  素花が一斗の袖(そで)を引いて必死に気を引こうとする。 「でも、なんか巴さんって放って置けなくない?」  一斗がそれでも希早を気に掛ける素振りをすると、素花ははっきりとした怒気(どき)を込めて本音を晒(さら)した。 「じゃあ、七波くんはわたしよりもあの子の方が気になるロリコンなわけ!?」  あからさまな嫉妬(しっと)に、一斗は思わず笑いそうになった。  単純(たんじゅん)な人間はちょっとの刺激(しげき)で容易に本性を表してくるからつまらない。  ふと視線をずらすと、希早が扉の傍に隠れるように立っているのが見えた。戻って来るには早過ぎる。  トイレというのはこの場から離れるための口実だったか……。  面白い、と一斗は感じた。  会う度、言葉を交わす度、希早への興味は増すばかりだった。  賢(かしこ)く、そして純粋(じゅんすい)無垢(むく)。何にも染まらない彼女が様々な感情を知った時、どんな反応を示すのか。想像するだけで堪(たま)らない快感に襲(おそ)われた。  一斗はゆっくりと席から立ち上がると、素花との距離を詰めて微笑(びしょう)を浮かべた。  素花を閉じ込めるように机に手をつき、膝(ひざ)の間に身を寄せる。 「そんなに怒らないでよ。別に巴さんに恋愛的に興味があるわけじゃないんだから」 「七波くん――」 「俺は君みたいな子の方が好きだよ。お子様じゃ、何をする気も起きないしね」  その言葉に、あっという間に蕩(とろ)けた顔で素花が機嫌(きげん)を直す。そして一斗の首を撫(な)でるように腕を回し絡(から)めた。 「じゃあ、キスくらいしてくれる?」 「いくらでも。俺、キスは嫌いじゃないから」 「思ったより、七波くんって悪い男ね」 「仙石さんが魅力的(みりょくてき)なのが悪いんだよ」  乾(かわ)いた唇に一斗が熱を与える。求められるがままに深く――。  一斗が目を向けると、呆然(ぼうぜん)とした希早の顔が見えた。雪のように白くなっていく様がありありとわかる。  一斗はくすりと笑むと、さらに素花の要求に応えた。  希早は何を思って自分たちを見ているのだろう。  気付けば希早は姿を消していた。そして朝のショートホームルームが始まるギリギリまで教室に戻っては来なかった。                 *  行動に移したのは、あれから三日も経ってからだった。  希早は明らかにいつもとは違う拒絶(きょぜつ)を示していた。  一斗は放課後を待ち、希早が校外に出るのを待った。  不満とも無関心とも違う態度。その意味を知ることができれば、希早をより知ることができると一斗は確信していた。  希早は駅には向かっていなかった。自転車に乗ることもない。つまりは、徒歩圏内(けんない)に家があるということ。 「ねえ、なんで避(さ)けるの?」  五歩後ろをぴたりと添(そ)うように歩きつつ、不思議そうな声音で尋ねる。  先日のことを不快(ふかい)に思っているような態度だったが、果たしてこの少女に本当にそんな感情を持つほどの感性があるのか。  振り返ることのないその背を注視(ちゅうし)して見ると、わずかだが一斗の声に反応して肩を震(ふる)わせていた。 「――――」  心持ち競歩のようだった歩みが、さらに加速して一斗を引き離そうとする。 「巴さん、待ってよ」  一斗は面倒(めんどう)になって距離(きょり)を詰めると、ほっそりとした手首を強引に掴(つか)んで引き止めた。 「なんで口も利(き)いてくれないの? この間から変だよ」 素知(そし)らぬ顔で一斗がのうのうと言ってのける。  希早の反応が知りたいと言うだけで、わざと濃厚(のうこう)なキスを見せつけた。一斗にとってあんなキスは大したことのないものだったが、一斗を避(さ)けるところを見れば、希早にとっては少なからずショックな出来事だったらしい。普通の反応と言えば普通の反応。けれど、はっきりとした言葉や態度が得られなければ、希早が何を思っているのか知りようがなかった。キスは言わば希早という人間を知るための実験の一つだった。何かとまとわりつくようになった素花は鬱陶(うっとう)しいが、それ以上に希早の新たな一面を知りたいという欲求の方が強く一斗を動かした。 「巴さん?」  一斗が顔を覗(のぞ)き込むと、希早は目を逸(そ)らして沈黙(ちんもく)した。手を振り払ってまで逃げるつもりはないらしい。  一斗は道脇(みちわき)にある公園を横目に見ると、地蔵(じぞう)のように動かなくなった希早を有無(うむ)も言わさず園内に引っ張り込んだ。首を巡(めぐ)らせると、人目を避(さ)けるように置かれたベンチが目に入る。恋人たちが好むようなひっそりとした休息場。一斗は迷わずそこを選んで希早を座らせた。  大人しく――見ようによってはしぶしぶと付いてきた希早の手を、一斗は逃げないようやんわりとベンチの上に抑(おさ)え付けた。 「理由くらい教えてくれないかな? どうして俺を避けるの?」  幼児(ようじ)に問うように優しい声音で尋ねる。  希早は神妙(しんみょう)な顔で俯(うつむ)き――ややあって、か細い声で告げた。 「……お母さん、みたい」 「は?」  思ってもない答えに思わず眉根(まゆね)を寄せる。 「何? お母さんみたいって」  しつこく問い詰めることを比喩(ひゆ)して言っているのか、もしくは一斗が偽(いつわ)りの仮面を被(かぶ)っている演技者だということを指摘(してき)しているのか……。  前者であれば心外ではあるが、まあ仕方がない。だが、後者であれば――。  希早の母親が同種の人間である可能性を考慮(こうりょ)に入れるとすると、下手な小細工(こざいく)は通用しない問題が浮かんでくる。  人の持つ能力の大半は経験(けいけん)から来るものだ。どんなに優秀な頭脳(ずのう)を持っていたとしても、その可能性を視野(しや)に入れられるかどうかはその人物の価値観(かちかん)に基づく。例えば河童(かっぱ)はいないと信じている者が河童を見ても夢か幻(まぼろし)だと思い込むように、河童がいると信じている者はその存在をすんなりと理解し納得(なっとく)してしまう。つまり、希早の母親が一斗同様に他者を手玉に取るために善人を演じているのだとしたら、一斗の性格もまた見透(みす)かされている可能性が高いということ……。  希早は無知(むち)ではあるが、低能ではない。感情の機微(きび)に疎(うと)くとも、思考能力がないわけではないのだ。でなければ、授業でだけ勉強しているはずの希早に応用問題が解(と)けるわけがないのだから。  返答次第によっては態度を変えざるを得ないのだろうが……どこまで深読みすべきか――。  無表情ながらも葛藤(かっとう)を見せていた希早は、やがて弱々しい声でぼそりと告げた。 「……お母さん、時々男の人、家に連れて来る。この前見たのと同じこと、してる」  三つ目の選択肢に、一斗は己の予測がまるで外れていたことを知った。  勘繰(かんぐ)り過ぎていた自分にも呆(あき)れたが、それ以上に希早の告げた事実に唖然(あぜん)とした。  希早は始めからそのままの意味で言っていたのだ。お母さんみたい、と。 常識に囚(とら)われ、河童などいないと思っていたのは一斗の方だったようだ。  希早の心はやはり幼子のように真っ直ぐで無垢(むく)だった。  確認のために一斗が問う。 「それ、お父さんじゃないの?」 「違う。いつも、違う人」 「――そう」  女医で食事を作る暇もない人間が、家に男を連れ込むことはしている。 いつも、と言うからには相当遊んでいるのだろう。  希早の母親、というイメージからはかけ離れた人物像――いや、だからこそ、希早のこの性格なのかもしれない。  自分の欲望を優先(ゆうせん)する母親が子煩悩(こぼんのう)とはとても考えられない。そのスタンスはきっと幼少の頃から変わらないのだろう。 「お母さん、男の人来る時、家から出て行けって言う」 「…………」  それはそうだろう。子どもに見せたくないこともこの世にはある。ギリギリのラインで親としての自覚はあるようだ。 「それで? 巴さんはそれを嫌だと思っているの?」 「――うん」 「だから、俺がしてることも嫌だって思った?」 「……う、ん」 「どんなふうに嫌? 腹が立つ? それとも気持ち悪い?」 「――違う。怖い」 「怖い? 何が?」 「希早、居ちゃいけない。いらない。だから、怖い」  希早は一斗を見ながらも、一斗を見てはいなかった。  一斗は希早の言葉の意味を噛(か)み解(ほぐ)して、その震える瞳を見つめた。 「もしかして、巴さんはいつかお母さんに捨てられるって思ってる? だから、キス自体に強迫(きょうはく)観念(かんねん)を感じてる?」  希早はそうだとも違うとも言わなかった。自分でもその感情の理由がわかっていないらしかった。  希早は出会ってから初めてと言っていいほど感情を表していた。  一斗は肌が粟立(あわだ)つのを感じた。  これまでに感じたことのない興奮(こうふん)。  きっと、こんな顔の希早は他の誰も知らない。  一斗の胸の奥底から暗い影が静かに這(は)い出てくる。それは普段姿を見せることのない秘(ひ)された自分。その姿は道化師(ジョーカー)に似て――仮面の裏で恍惚(こうこつ)と笑うのを感じた。  一斗は掴んでいた希早の右手をそっと持ち上げると、徐(おもむろ)に自身の口もとへと近付けた。触れた温もりに希早がびくりと身を震わせる。  怯(おび)えているのが手に取るようにわかる。 「――いや。七波、くん」 「七波でいいよ。一斗でもいいけど」  唇で触れたまま、希早の手のひらの中で一斗が言葉を紡(つむ)ぐ。  視線を送ると、希早は今度こそはっきりと一斗を見ていた。  ぞくりと走る快感と共に、指先に力を加える。  ――痛みと、恐怖(きょうふ)。 「離、して」 「やだ」 「おね、がい。いやだ」 「じゃあ、俺の名前を呼んで。そうしたら離してあげる」  熱い息が、温(ぬく)もりが、希早の顔を蒼白(そうはく)に染め上げる。  自力では抜き取ることのできない右手に舌先が触れる。  希早はぎゅっと目を瞑(つぶ)り、悲鳴(ひめい)のように声を上げた。 「やめて、言うから――七波っ!」  指の股(また)を舐(な)める舌が、苦笑(くしょう)と共に口内に引っ込む。 「残念、一斗の方じゃないんだ」  希早は解放(かいほう)された手をしっかりと抱(かか)え込むと、一斗から距離を取るようにベンチの端に身を寄せた。  一斗は見たことのない希早の反応を楽しむように手のひら分身を寄せる。 「巴さん――希早はさ、お母さんが嫌いなの? それとも、男の人といるお母さんが嫌い?」 「……お母さんは、好き」 「そう。じゃあ後者なんだ。でも、親だって恋愛(れんあい)は自由だと思うよ。ただでさえお父さんはいないんでしょう? 縋(すが)る人がいないとお母さんも可哀想(かわいそう)だよ」 「――希早、いる」 「そうだね。でも、頼(たよ)りにはならない。金銭的(きんせんてき)な意味でも、性欲的な意味でも」 「――せ、よ……?」 「わからない? 頭は良いのに、学校で習わない知識(ちしき)に関しては疎(うと)いんだね。性欲って言うのはね、男女の間には自然と発生するものなんだよ。例えば、昨日俺が仙石さんにしたみたいなこと」  一斗の言葉に希早が大きく反応する。  希早の明確な感情の揺らぎ。  それを目にした瞬間(しゅんかん)、一斗は確かに心が躍(おど)るのを感じた。  これまで生きてきた十六年間、思えば心の底から充足感を得たことなど一度もなかったように思う。いや、実母が死んでから、かもしれない。  物心がついた頃には母親は病気によって他界(たかい)し、父親は仕事に追われて一斗を顧(かえり)みることはなかった。生活費のためとは頭ではわかっていたが、やはりどこかで傍に居て欲しいと望む気持ちがあったのだろう。良い子でいようと思う反面、その歪(ひず)みで心が捻(ね)じ曲がっていくのを確かに感じていた。たった一度、一斗が立ち直る機会はあった。小学五年になって父親が再婚した時、ずっと憧(あこが)れていた兄というものを持つことになって、寂しい日々がこれで終わるのだと歓喜(かんき)した。だが、理想と現実はまるで違い、六つ離れた優秀な兄は幼い義弟(おとうと)を気に掛けることはなく――優しかったイギリス人との混血(ハーフ)の義母(はは)も二年後には交通事故で逝(い)ってしまった。  残された男三人、互いに干渉(かんしょう)することもない日々の中で、一斗はいつしか楽しみを見い出すために外に目を向けるようになった。  人間の行動を観察することに退屈(たいくつ)は感じなかった。  人は単純なようで複雑であり、利他的(りたてき)に見せ掛けて利己的(りこてき)であった。「良い人」とは多く「自分にとって都合の良い人」であり、自分の意に染まない行動をすれば、手のひらを返して敬遠する。それが常であり人の在り方で、そこに善も悪も存在しなかった。  これまで観察してきた人間の心は面白いほど手に取るようにわかった。人はその感情を言葉以外のなんらかで必ず表したからだ。  時には表情で、時にはその仕草(しぐさ)で。  力の入り方や目の動きが、一斗にその本音を知らしめた。  ただ一人の例外は――出会って間もない少女。  希早は、一斗が唯一理解不能な人物だった。  感情の多くを失ったかのようにただそこに居て、人を好(す)くでも嫌うでもなく共にそこに在る。  彼女は生まれたての天使のようだった。  純白(じゅんぱく)で穢(けが)れのない希早。彼女が傷付き、絶望(ぜつぼう)したらどんな顔をするのだろう。その涙を見ることができれば、これまで感じたことのない充足感を得ることができるだろうか。  歪(ゆが)んだ欲望が胸の中に吹き荒(あ)れ、一斗の背を押す。 「知ってる? キスってね、すると快楽ホルモンが出るんだ。ドーパミンとかセロトニン、オキシトシンとかアドレナリンっていうものを分泌(ぶんぴつ)する。血管が広がって体温が上昇して、とても気持ち良くなるんだ」  一斗はさらに距離を縮(ちぢ)めると、これまで多くの少女たちを翻弄(ほんろう)した艶(つや)のある声音で優しく耳元に囁(ささや)いた。 「希早もしてみる? キスなんて誰だってしてる。お母さんだって気持ち良くてしてることだ。希早も少しくらいその気持ちをわかってあげたら、お母さんを理解することができるんじゃない?」  言葉に惑(まど)わされているのか、ただ困惑(こんわく)しているのか。希早は彫像(ちょうぞう)のように動かなくなった。  一斗はそこに付け込むように瞼(まぶた)を閉じた。  熱に触れた瞬間、心が歓喜(かんき)に沸(わ)く。  目を開き、希早が動揺しているのを見て取ると、もう一度唇を重ねた。  最初から無理に踏(ふ)み込むことはしない。お遊びのキス。  それでも希早の変化は十分に見て取れた。  希早の手が一斗の肩を強く押す。そして弾(はじ)かれたようにベンチから立ち上がると、鞄を楯(たて)のように胸の前に抱き締めた。  険(けわ)しい眉間(みけん)の皺(しわ)は、今までにない強い感情の表れ。 「希早、帰る」  言葉の通り踵(きびす)を返すと、希早は振り返ることなく公園から出て行った。  一斗は追い掛けることもなく、かすかに残った温もりを親指で辿(たど)る。  希早とのキスはこれまで交わしてきた少女たちとのどのキスとも違っていた。  不思議なほど満たされた心に一斗自身でさえ驚きを覚える。ついで、湧き上がってきた笑いに、一斗はゆっくりと立ち上がった。 「――本当に、楽しませてくれるね」 希早が消えた公園の向こうを見つめて一斗は冷ややかに目を細めた。                 *  翌日から、希早は朝早く登校することをやめた。  挨拶(あいさつ)をすれば必ず戻って来た返事もなくなり、一斗の気配を感じると教室から出て行くようにもなった。  希早のその頑(かたく)なな態度は一斗を挫(くじ)けさせるどころかむしろ闘争(とうそう)心(しん)を煽(あお)り、今まで以上に希早への執着(しゅうちゃく)心(しん)を強くさせた。  今日この日も、終業の鐘が鳴ると同時に一斗が席を立つ。 「一緒に帰ろう?」  帰り支度(じたく)に賑(にぎ)わう教室の中、素早く脇(わき)を通り過ぎようとした希早の腕を掴んで、一斗がさり気なく囁(ささや)く。 「逃げないで。皆に変に思われるよ」 「――っ」  一斗は口元を綻(ほころ)ばせると希早を伴(ともな)って教室から出た。  素花の視線が背に突き刺(さ)さったが、一斗はそれをなんとも思いはしなかった。  希早の顔には今、はっきりとした拒絶(きょぜつ)が浮かんでいた。  一斗は構うことなく帰路(きろ)とは別の道へ希早を連れた。 「――どこ、行くの?」 「この前とは違う公園。静かで良い所、見つけたんだ」 「希早、行きたくない。帰る」 「少しくらい付き合ってよ。どうせ帰っても誰もいないんでしょう?」  希早は何も言い返さなかった。それが事実であることはわかっていた。  十分ほど歩いて、一斗が指先で示す。  そこは緑の多い、広々とした公園だった。  元より人気の薄い公園なのか遊具で遊ぶ子どもたちの姿はまばらで、西の空を見れば赤みを帯びた雲が細く長く伸びていた。 「どこ、行くの?」 「だから、良い場所」  一斗は始めから決めていた一点に目を向けると、他に気配がないことを確認して真っ直ぐにそこを目指した。  公園の、いくつもある繁(しげ)みのうちの、最も暗い場所を選んで一斗が突き進む。頬に当たる長い枝は冬でも濃い緑色の葉を茂(しげ)らせて二人の姿を包み込む。  影の多いそこは周囲よりもぐっと気温は下がり、ひと足早く夜気が漂(ただよ)っていた。 「寒い」 「大丈夫。もうすぐ温かくなるから」  一斗は数分をかけてさらに奥へ進むと、やがて見えてきたものに笑みを浮かべて希早に教えた。 「ほら、あれ」  そこにあったのは古びた、忘れ去られた遊具だった。  もう随分(ずいぶん)使われていないのだろう。コンクリートで作られた、何の変哲(へんてつ)もない大きな土管(どかん)。出入り口は一方しかなく、片側は同様のコンクリートで固められていた。恐らく以前は子どもたちの秘密(ひみつ)基地(きち)として使われていたに違いない。時間の経過(けいか)と共に老朽化(ろうきゅうか)し、不要になってここに打ち捨てられた過去の遺物(いぶつ)。  それを指し示して一斗は言った。 「あの中ならきっと温かいよ」  希早は一瞬踏(ふ)み止(とど)まったが、まとわりつく冷気に身を震わせると諦(あきら)めたように小さく頷いた。  土管の中は思った以上に外気を遮断(しゃだん)していた。夕暮れになって風が出てきたこともあり、余計に温かく感じる。  中に入るとビニールシートがひかれ、小さな毛布も二枚置かれていた。  目を丸くする希早に、一斗はその一枚を手に取って渡した。 「用意しておいたんだよ。寒いと思って」 「なんで?」 「希早とゆっくりと話しがしたかった。寒かったら長くはいられないだろう? 天井、気をつけて。立膝(たてひざ)くらいなら平気だけど、忘れると痛いことになるよ?」  一斗は希早を奥へと追いやると、出口寄りに陣(じん)取って毛布を膝にかけた。  希早は毛布を持ったまま逡巡(しゅんじゅん)していたが、差し出されたカイロに目を落とすと、観念(かんねん)して腰を落とした。 「はい」  再び差し出された手に握(にぎ)られていたのはコーンスープの入った缶だった。いつの間に購入(こうにゅう)したのか。  見開かれた希早の瞳に一斗が破顔(はがん)する。 「魔法(まほう)じゃないよ。さっき学校で買っておいたんだ。でももう冷めちゃったかも。公園(ここ)で買えばよかったね」  一斗は蓋(ふた)を開けてやると、希早の手に缶を握らせた。  自分の分のコーヒーを開けて喉(のど)に流し込む一斗を、希早はじっと見つめた。 「なに?」 「どうして? 七波、優しいのか、優しくないのか、わかんない」 「そりゃ、人は優しい面も優しくない面も持ってるよ」 「そうなの?」 「そうだよ。この世にいる人間は別に善と悪に分かれているわけじゃない。それぞれ善の心を持ちながら、欲望という悪に惹(ひ)かれて揺れ動いているだけなんだから」 「……難しい」 「別に理解する必要なんてないよ。興味の湧いた人間にだけ理解を示せばいい。簡単だ」 「希早は、わからない」 「そうだね。君は子どもだから」 「子どもじゃない!」  珍(めずら)しく感情を高ぶらせて希早が反論(はんろん)する。  なぜだろうか。希早の言葉一つ一つが一斗に特別な感情を抱かせる。それはこれまで誰に対しても感じてこなかった強い関心。  一斗は一息に飲んだコーヒーの缶を端(はじ)に寄せ、ゆっくりとその手を伸ばした。  希早の頬が驚きに震える。  一斗は豆の香りが残るその唇で希早の口を塞(ふさ)いだ。  希早の手にあったコーンスープがわずかに零(こぼ)れる。動きを封じる缶を放り投げることもできずにただその身を震わせる。  一斗は親指に力を加えると、その唇を押し開いて欲望の塊(かたまり)を熱い口内に差し入れた。 「――っ」  廻(めぐ)る熱がコーヒーよりもさらに一斗を熱くする。  拒(こば)む唇が愉快(ゆかい)で、もっと強い刺激(しげき)を求めて口付けを深める。とたん、思いもしなかった反撃(はんげき)に出られ、一斗は反射的にその身を離した。  口の中に鉄の味が広がる。 「――痛いなあ」 「七波が、悪い」 「そんなに嫌でもなかったでしょ? お母さんの気持ち、少しはわかったんじゃない?」 「わかんない。帰る!」 「だめだよ。まだ帰さない。ここまで付いてきたんだから、その気がないわけでもないんでしょ?」 「七、波……?」  不安に歪(ゆが)んだ顔が、次の瞬間背後へと引き倒される。  コーンスープの入った缶が宙を舞い、中身を振りまきながら奥の壁に当たって床に転がる。辺りはコーン独特の甘い匂(にお)いが立ち込めた。 「大人だっていうなら、俺たちも大人と同じことしよう?」 「同じ、こと?」 「お母さんと、同じこと」 「キス、もうやだ」 「キスもそうだけど、もっと別の事。この世には大人の好きな気持ちいいことがあるんだよ。希早は知らないだろうけど」 「わからない、けど、やだ」  本能が危険を察知したのだろう。希早が身を捩(よじ)って逃れようとする。だが、形勢は完全に一斗にあった。  一斗は組み敷いた身体に手を伸ばすと、コートのボタンを解いて、さらにその下の制服に指を掛ける。 「――さむ、い。やだっ」 「大丈夫。温めてあげるから」  一斗は身を屈(かが)め込むと、シャツの下へと手のひらを滑(すべ)り込ませ、ゆっくりと顔を近付けた。  子どもっぽく、普通の女子高生とは大きくかけ離れた精神を持つ少女。だが、今この時ばかりは不思議と年相応の顔に見えた。  こんなに気分が高揚(こうよう)するのは初めてのことだった。今まで相手をしてきた者たちは皆、一斗に気があるとはっきりわかっている少女や、遊びなれた女たちばかりだった。  自分の身に何が起こっているのかなど希早にはわかっていない。これからどうなるかさえも。その事実が、一斗をこの上なく興奮させる。  怯(おび)える身体が、喘(あえ)ぎが、一斗の神経を研(と)ぎ澄(す)まさせる。  どんな感情が一斗を突き動かしているのかわからない。ただ、どこに感じて、どう声を上げるのか。今は希早のすべてを支配したかった。  逃(のが)れようとする手に指を絡(から)めて優しくその動きを縫(ぬ)い止める。  夢中になって貪(むさぼ)るうち――気付けば、希早は嗚咽(おえつ)をかみ殺して泣いていた。  薄闇から聞こえてくる弱々しいその声に全身がぞくりと震える。  それは想像していたよりも遥(はる)かにそそるものだった。  希早が泣けば泣くほど一斗の欲望は重みを増して貪欲(どんよく)になっていく。  一斗は闇と一つに溶け合うように圧(の)し掛かると、心の望むままに希早を求めた。                  *  希早が登校したのは、あれから三日も経ってからだった。 久方振りに教室に現れた希早は、以前にも増して一斗を避(さ)けるようになっていた。  これまでの少女たちとはまるで正反対の反応。わかってはいたが、これまで「女」という人種から好意以外の感情を向けられたことがない一斗にとって、毒虫(どくむし)を嫌うような希早の態度は面白くなかった。  希早にとって容姿は武器にはならない。身体も、そして上辺ばかりの優しさも。  視線に気付いたのか、本能的に察知(さっち)したのか。昼休憩になって一斗が席を立つと同時に、希早が教室を出て行く。後を追おうと動いたとたん、善治(よしはる)が一斗の肩を叩いてケラケラと笑った。 「景気よく嫌われてるな、七波」  一斗は反射的に渋面(じゅうめん)を浮かべそうになり――一瞬にして本音を押し隠して、困ったように笑って見せた。 「なんでだろう? 俺、嫌われるようなことしたかなあ」 「しつこくつきまとい過ぎたんじゃないか? 八方美人なお前の愛想の良さも、変人には通用しなかったな」  何も知らない善治が、善良な顔で一斗をからかう。 「変人って、巴さんに失礼だよ」 「誰とでも仲良くしようって心意気(こころいき)はいいと思うけど、相手考えろよ。あいつは野良(のら)猫みたいなもんだ。束縛(そくばく)されんのは好きじゃねえんだよ。それより、あっち構ってやれば? ずっとこっち見てるぜ?」  善治の示す方向に目を遣(や)ると、意味ありげな熱い眼差(まなざ)しとかち合う。  素花は一度のキスが忘れられないのか、のらりくらりと二人きりになることを避ける一斗を執拗(しつよう)に追っていた。隙(すき)あらばもう一度と思っていることは明白だった。もちろん、希早の反応を確かめる実験道具だっただけの素花にもう用はない。ゆえに、その誘いに乗る気は毛頭(もうとう)なかった。もう半月ほど躱(かわ)しているのだ。いい加減諦めて欲しい。今では濃密(のうみつ)な口付けをしたことを深く後悔していた。 「……内緒(ないしょ)だけど、実は苦手(にがて)なんだよね、あの子」  人の口に戸は立てられない。ゆえに、遠回しな方法で素花に自身の気持ちが伝わることを期待して牽制(けんせい)を掛ける。だが、正真(しょうしん)正銘(しょうめい)人の良い善治は、一斗の思惑(おもわく)などてんで気付かない顔で驚いた声を上げた。 「へえ、お前でも苦手とかあるんだ。巴と逆で苦手なやつなんていないと思ってた。……いや、逆でもないか?」 「なにそれ」 「お前って、皆友だちみたいな顔してある意味誰とも親しくしようとしてねえから、案外巴と変わらなく見えるって話」 「――心外だな。ただ平等主義ってだけなのに。この顔のせいで結構苦労してきたんだよ?」  意味深に告げると、善治は頬をぽりぽりと掻(か)いて「なるほどねー。人に人生あり、か。イケメンにとっては生き辛い世の中なんだな」と納得(なっとく)した顔を見せた。  一斗は首肯(しゅこう)しながらも内心、善治の的確(てきかく)な指摘(してき)に舌を巻きそうになった。  ……これだから、本能で生きている奴の前では気が抜けない。 「どこ行くんだよ、追い掛ける気か?」 「嫌われたままじゃ嫌だからね」 「放っておいてやれよ。あいつはあんま人間(・・)に慣れてないんだよ。一歩引いて接してやらねえと延々と逃げられるだけだぞ?」  わかったふうな口を利くな。そう言いたい気持ちを飲み込んで、一斗が物わかりの良い顔で殊勝(しゅしょう)に頷(うなづ)く。 「わかってる。心配してくれてありがとう」  友人なりの忠告を心で突き放して踵(きびす)を返す。 「……なんだかなあ」  善治は後頭部を掻(か)きながら、一斗の姿を追う熱い視線を横目に見てうーんと渋く唸(うな)った。                  *  購買(こうばい)に寄り、心当たりを回って三か所目で希早の元に辿り着いた。  開いたドアに向いたあどけない顔が瞬(またた)く間に色を失う。  逃げ場のない屋上。  手元には昼食もなく、希早はただただ時間を潰(つぶ)すためだけに訪れたようだった。  背丈の倍はあるフェンスに囲われた屋上は殺風景(さっぷうけい)なほど何もなく、冬の寒さも相俟(あいま)って他の生徒の姿は一つもなかった。  希早の視線が一斗の肩を通り越してその背後を見る。  たった一つの出口は一斗によって塞(ふさ)がれていた。  時間差もあり、追ってくることはないと油断(ゆだん)していたのだろう。希早は足が竦(すく)んだようにその場から動かなかった。 「――話があるんだ。いいかな?」  動かない表情。それでも一斗を拒絶していることははっきりと感じられた。 「怖がらないでよ。嫌ならもう触らないし、キスもしないから」 「――あっち、行って」 「本当に何もしない。約束する、信じてよ。今日は謝(あやま)りに来たんだ。仲直りさせてよ。悪いのは俺だってわかってるけど、そう邪険(じゃけん)にされたら俺だって傷付く」  希早がわずかに反応するのを見て取ると、一斗はさらに希早の良心に訴(うった)えかけるように弱々しく言った。 「……ごめん。希早がお母さんの気持ちをもっと知りたいだろうと思ってあんなことを……。皆していることだし、希早があんなに嫌がるとは思わなかったんだ」  常識も非常識も知らない希早の幼稚(ようち)さを良いことに、一斗が極当然のことのように言ってのける。  普通ならば騙(だま)されようもない言い訳。だが、希早は普通の少女などではなく――ゆえに、その言葉に純粋な困惑(こんわく)を浮かべた。  三日振りに繋がった視線。  手応えを感じて一斗はさらに口を開いた。 「そっち、行ってもいい?」 狼狽(うろた)えてはいたが、先程までの警戒心は目に見えて薄れていた。  一斗が一定の距離をもって希早の傍に腰を下ろす。  隣をポンポンと叩いて示すと、希早は迷った末に二人分開けたそこへぎこちなく座った。  懐かなかったネコが少しだけ歩み寄ってくれたような喜び。  一斗は空を見上げ、口許(くちもと)に浮かんだ笑みをさり気なく隠す。 「――ずっと休んでたけど、大丈夫? 風邪(かぜ)引いた?」  風を避けるためにあの場所を選び、毛布と運動を伴って温もりを分け与えたつもりではあったが、あの夜の冷え込みは確かに二人の身体を凍(こご)えさせた。 「本当は様子を見に行きたかったけど、家知らなかったから」  担任に住所を聞くこともできたが、何某(なにがし)かを勘繰(かんぐ)られては面倒だったので、希早が登校してくるのを一斗はただじっと待ち続けていた。 「これ、お詫(わ)びの品と言ってはなんだけど、食べて」  購買で買い漁(あさ)ったおにぎりやらパンやらを手提(てさ)げビニールに入れたままごそりと差し出す。 「…………」 「大丈夫だよ、毒(どく)なんて入ってないから。本当に、悪かったと思ってる」 「希早、こんなに食べられない」 「…………手伝う」  希早の好みがわからなかったので手当たり次第買ってみたのだが――まあそうだろう。十数個もあれば、希早のお腹に入り切る前に賞味期限が切れてしまう。  一斗は今さらになって、自分が柄(がら)にもなく緊張(きんちょう)していたことに気付いた。  希早の心など簡単に操(あやつ)れる。そう思ってここまで来たというのに、三日振りにまともに希早と目が合ったとたん、強気な心はみるみると萎(しぼ)んでしまった。 希早を前にすると、なぜだか性急さを求める自分が居た。 ――調子が狂(くる)う。  一斗は希早に触れないよう慎重(しんちょう)に手を伸ばすと、ビニールに手を突っ込んで適当なパンを取り出した。  希早の視線が一斗の一挙(いっきょ)一動(いちどう)を静かに見守る。  一斗はできるだけ希早を視界から外して、ソーセージの突き出たパンにかぶりついた。  笑えることだが、味がまったくしなかった。 「――美味しい?」  卵サンドを選んで小さく食(は)みはじめた希早に、一斗が遠慮(えんりょ)がちに声を掛ける。  希早は視線をコンクリートの足元に据(す)えたままこくりと頷いた。  小動物のようないつものその様子に、自然と安堵(あんど)が零れる。 「よかった」  最悪、パン諸々(もろもろ)は突き返されることも覚悟していたが、餌付(えづ)け作戦は効(こう)を奏(そう)したらしい。  一斗はあっという間に手持ちのパンを胃の中に押し込めると、希早が落ち着くのを待って口を開いた。 「――お母さん、なんか言ってた? ほら、希早が学校行かなかったから、変に思ったんじゃない?」  希早はふと咀嚼(そしゃく)を止めると、眉根を小さく寄せてごくりとパンを嚥下(えんか)した。 「お母さん、気付いてない。希早、ずっと寝てたのに」  一斗が驚いて目を開く。 「この三日、お母さんと顔を合わせていないの? 自分からも声、掛けなかったの?」 「掛けない。だって、知らない男の人――」  言い掛けて、希早は口を押さえた。  瞳に薄っすらと涙の膜(まく)が張る。 「希早、気持ち悪いなら吐いて良いから」  一斗は上着を慌(あわ)てて脱ぐと、希早の口元に差し出した。  希早がぶんぶんと首を振ってそれを拒絶する。  希早は一斗を見上げると、喘(あえ)ぐように言った。 「――わ、わかんない。お母さんの気持ち。同じことしても、わかんない。怖い」 「希早――」  一斗は思わず手を伸ばし――ハッとしてその指を握り込んで押し止(とど)めた。  怯えた希早の姿がはっきりと目に映る。  触らないと約束したばかりだというのに、危(あや)うく抱き締めるところだった。  もし今希早を抱き締めたら、二度と信用は得られないだろう。あの日のことは確実に希早の中で心的(トラ)外傷(ウマ)となっている。  一斗は深く息を吸うと、ゆっくりと三つ数えて目を上げた。  希早は、逃げ出してはいなかった。そして声を湿(しめ)らせて問い掛ける。 「希早、いらない? お母さん、希早のこと、嫌い?」 一斗が悶々(もんもん)と過ごしていた三日の間、希早もまた別のことで悩み続けていたのだろう。目の下のクマがそれを一斗に知らせる。 忌々(いまいま)しい約束などしなければよかった。そうすれば、頬を伝うその美しい涙をこの手で拭(ぬぐ)ってやることができたのに。  娘を顧(かえり)みることもない母親の気持ち。それは一斗の父親とは似ているようでまったくの別物だった。けれど、必要とされたいと望む希早の心はきっと一斗のものと酷似(こくじ)している。  希早は母親の中に居場所を求めていた。 「――いらなくないよ。俺は、希早が欲しい」  一斗は希早の母親にはなれない。それでも、傍にいることだけはできた。  希早のことが知りたい。その想いだけが強く一斗の胸を占める。  流した涙があの日とは別の意味で一斗の胸を震わせる。  自分の悲しみではないのに、希早の心と共鳴して心が痛む。 それは今までに感じたことのない不思議な気持ちだった。 腹立たしいような、悔しいような、もやもやとする漠然(ばくぜん)とした気持ち。  一斗は希早が泣きやむまでの間、唇を噛(か)んでただただ傍らに座っていた。                 * 「やっぱすげえな、お前の八方美人力(りょく)って」 「なに、その能力……」  教室に入って来るなり新種の言語を作り出す善治に、呆れた声で一斗が返す。  何を言わんとしているか薄々気付いてはいたが、口にするのも億劫(おっくう)なので素知らぬ顔をしてそっぽを向いた。  野球部の朝練から戻ったばかりの善治は、似合いもしないフローラルな香りをふわりとまき散らせて爽(さわ)やかに破(は)顔(がん)する。 「だって、仲直りしたんだろ? また朝っぱらから一緒にいたらしいじゃん。あんなに避けられてたのに一体どんな手使ったんだよ。餌付けか?」 「希早は動物じゃないよ」  間違ってはいなかったが、間違っていないだけにむかついて思わず言い返す。自分自身の手柄(てがら)ではないことを強調されたようで腹が立った。そしてうっかり少女を名前呼びしてしまったことに遅れて気付く。 「おおっ! いつの間にそんな仲に!?」  ……鬱陶(うっとう)しい。  大げさに指摘する善治を反射的に殴ろうと拳を作り――目の端に入って来た時計を見て我に返る。  いけない、自制しなくては。 「ホームルーム始まるよ。席に着いた方がいいんじゃない?」  一斗はにこりと右斜(なな)め後ろの席を指して心の中で「ハウス」と唱(とな)える。希早が野良猫なら善治はゴールデンレトリバーだった。図体がでかくてやたらめったら元気なところがそっくりだ。  暢気(のんき)な鐘の音とともに前の扉が開く。  日直の号令が響くと同時に席を立つと、礼の間にちらりと窓側の席の希早を盗み見た。  昨日よりも少し浮上した横顔。  わかりにくい表情の中にも感情は存在し、それは一斗の目にも少しずつ見えて来ていた。  今日の昼休みも共に過ごせるだろうか。  基本的に誰かと昼食を取ることのない希早だったが、昨日の様子からすると、決して嫌(いや)なわけではなさそうだった。  ふと、後方でガタリと机を鳴らす音が響いた。  大げさなその音に、教室中の視線が集まる。中心にいたのは茶髪の少女、素花だった。 「どうした仙石?」 「――すみません、先生。ちょっと朝から体調悪くて……保健室に行ってきても、いいですか?」  腹を押さえながら血の気の引いた顔で素花が足元をふらつかせる。 「いいが――一人じゃ行けそうにないな。保健委員!」  担任の呼び掛けに数人の視線が一斗に集まる。 「…………はい」  もう一人の保健委員の欠席を心の中で舌打ちして一斗は立ち上がった。  善良なクラスメイトたちは騙(だま)されるだろうが、一斗にはその猿芝居(さるしばい)が透(す)けて見えていた。  素花が周囲に気付かれないように流し目を寄越(よこ)し、待ちわびたかのように一斗の腕にきつくしがみ付く。 とても具合の悪い人間とは思えない力に、一斗は密(ひそ)やかに嘆息(たんそく)した。  こんな茶番(ちゃばん)に付き合わされるのは甚(はなは)だ億劫(おっくう)だったが――仕方がない。いつか決着を付けなければならないと思っていた案件(あんけん)だ。 「……すみません、行ってきます」 「頼むな。じゃあ出欠を取るぞ」  ドアの向こうに点呼の声が遠ざかるのを聞きながら、下手くそな演技の素花を連れ立って一階へと向かう。 保健室は雑多(ざった)な音の少ない南側にあった。体調の悪くなった生徒への配慮(はいりょ)として人気の少ない場所に定めたのだろうが、この時ばかりはその優しい配慮(はいりょ)にケチをつけないではいられなかった。 ――まったく余計な気遣いだ。  ノックをしてドアを開けると、中はガランとして電気まで消えていた。保健の教諭(きょうゆ)はどこかに出ているようだった。  一斗が壁のスイッチに手を伸ばすと、別の手がそれを遮(さえぎ)る。 「電気はいいから、奥のベッドまで連れてって」  せっかくの日当りの良さを台無しにした分厚いカーテンが、一斗に二度目のケチを付けさせる。具合の悪い人間は、保健室などで休まずにとっとと家へ帰ればいいものを。 朝一であるにもかかわらず薄暗い保健室は絶好(ぜっこう)の雰囲気(ふんいき)を醸(かも)し出していた。  希早となら喜んで来たというのに。 「ねえ、ここ座って」  どこか甘い声を出して素花が腕を引っ張る。  はずみでよろけた一斗は、図らずもベッドの上に倒れ込んだ。  素花は上履(うわば)きを脱ぎ捨てると、始めからそうすると決めていたかのように一斗の上に圧(の)し掛かった。 「……気分が悪かったんじゃないの?」 「悪いわよ。だって一斗(・・)くん(・・)、ずっとわたしのこと避けるんだもん。いい加減腹が立って」 「――避けてなんかないよ」 「嘘。ずっと放課後の誘い蹴(け)ってたじゃない。しかも毎日巴さんなんか構って。一斗くんが優しいのはわかるけど、いい加減あんな無表情のわけのわかんない子放っておきなよ。皆そうしてるでしょ?」  馬乗りになりながら不満を吐露(とろ)する素花に、一斗は小さく吐息(といき)して手をついた。身を起こしたとたん、素花の唇が一斗のものに押し付けられる。柔らかな膨(ふく)らみは、歓喜(かんき)と共にさらなる快感を求めて薄く開く。  一斗は諦(あきら)めてしばらく素花に付き合うと、ややあって、満たされた瞳に疲れたように言った。 「慣れてないね。いつも人任せだったの?」 「仕方ないじゃない。求めて来るのはいつも相手の方だったんだから。一斗くんだって、前にした時は自分から求めてくれたでしょう?」 「気が向いたからね。仙石さん、遊んでそうだったからもっと上手いと思ってたんだよ」  一斗の言い種(ぐさ)に違和感を覚えたのか、素花が怪訝(けげん)な顔で笑顔の主を見る。  表情と台詞がまるでちぐはぐな少年に、脳が混乱しているようだった。  ――ダブルバインド。  優しい優等生の一斗を信じるのか、プレイボーイの一斗を信じるのか。  素花が求める一斗は、どうあっても都合の良い虚像(きょぞう)でしかない。  気の強い少女は自分をごまかすことを選んだようだった。 「やだな、一斗くん誤解(ごかい)してる。わたしキスはまだ三人目だし、ここから先はまだしたことないのよ?」 「それにしては随分(ずいぶん)積極的だね」 「それは、一斗くんがそうさせてるのよ。年頃だし、興味がないわけないでしょう? わたし、やり方だけは知ってるの。もちろん、一斗くんだって興味はあるでしょう?」 「…………」  その問いに否定はできなかった。  最も一斗の場合、素花の言う「年頃」はとっくに過ぎ去って、もう一つ先の興味に移行してはいたが。  素花の手がぎこちなく一斗の下半身に触れる。 「男の子って、ここを触(さわ)られると気持ちいいんでしょ?」 「…………人によるよ」 「ヘタってこと?」  素花は断りもなくベルトを緩(ゆる)めると、じっとしている一斗のモノを浅い知識のままに扱(しご)く。 「気持ちいい?」 「あまり」  反応しない一斗の身体に素花がやや自信を無くす。だが、気持ちまで萎(な)えたわけではなかったらしく、執拗(しつよう)に挑戦し一斗の顔色を窺(うかが)っていた。 「……あのさ、そろそろ諦めてくれない? 俺、仙石さんとそういうことする気ないから」 「――なんで? 高校生くらいの男の子って、とりあえず誰かとしたくなるんじゃないの?」 「そういう人種もいるかもね。でも俺は違う。それに仙石さんにはそれほど魅力(みりょく)を感じてないから」  はっきりとした侮辱(ぶじょく)に素花の頬がカッと赤くなる。  素花は怒りのままに再び一斗の唇を奪(うば)うと、上着のボタンを乱暴(らんぼう)に外してその素肌(すはだ)に手のひらを這(は)わせた。  独りよがりな素花の行為に、一斗がうんざりした顔でそれを押し止める。 「気持ち悪いからやめてくれる? 俺、そろそろ教室に戻るから」 「いやっ! 待ってよ! このこと、クラスの皆に言ってもいいの?」 「いいよ」  あっさりと頷いて、一斗が身なりを整える。 それが素花にとって最終手段だったのだろう。脅迫(きょうはく)に失敗し唖然(あぜん)とする素花に、一斗はくすりと冷ややかな笑みを零した。 素花は決定的な思い違いをしていた。  一斗にとって作り上げてきた「人格」が崩されることは、それほど重要視することではなかった。  生きていくうえで楽な方法を取るのに「七波一斗」という善良な人柄を演じてはいたが、「人は所詮(しょせん)死ぬまで一人なのだ」という持論(じろん)が常に一斗の土台(どだい)にはあり――それゆえに本性がバレ、周囲の者たちが一斗を敬遠しても構う必要がまるでなかった。  最も、希早と別の意味で少々クラスから浮いた存在の素花の言(げん)を信じる輩(やから)が果たしてどれだけいるのか。  人の信頼は年月の長さでは決してないことを、一斗は知っていた。  素花がショックを受けているのはありありと見て取れた。こんなはずじゃなかった、とその顔が告げている。豹変(ひょうへん)した一斗は、素花にとってさぞ受け入れがたい存在だったに違いない。  素花のおかげで朝から不快な気分を味わったが、その間抜けな顔が見られただけでもよしとしよう。  最後に、一斗は素花の求めた極上の笑みをその顔に浮かべて素気無(すげな)く告げた。 「気分(・・)が(・)悪いんでしょう? ならもうしばらくここで休むといいよ。じゃあね」  いつの間にか掛けられていた内鍵を外して、一斗がさっさと保健室から退室する。  数歩行くと、背後で何かを叩きつける音が聞こえた。                 *  素花の行動で、一つだけ気付けたことがあった。  それは、自分の心身がただ一人に向かっているということ。  幾日も考え、分析(ぶんせき)して、一般的な統計に照らし合わせて鑑(かんが)みたところ、たった一つの答えが導き出された。  その答えは一斗にとって信じられないもので、受け入れる受け入れない以前の問題にも思えた。  なぜ自分はここまで希早に執着(しゅうちゃく)しているのか。  これまで、これほど長期間にわたって興味を覚えた人間はいなかった。  例え一時興味が湧いたとしても、その対象の思考は理解するに容易で、思い通りの反応を示したとたんに興味を失ってしまっていた。特に、相手が女であると百パーセントに近い確率で惚(ほ)れさせることができた。  人の好意は手に取るように感じることができた。だが、自分のそれは……?  自身でも、相当捻(ひね)くれた性格をしていると認めている。  これまで興味を示したのは、すべて周囲から「純真(じゅんしん)無垢(むく)」と信じられていた存在ばかり。そして、突き詰めれば必ずボロが出て、汚い本性が明るみに出た。  生きていく上で汚(きたな)さを覚えることは「正常なこと」だった。  友人、恋人に関わらず、人は嫉妬(しっと)し、嫌悪し、恨(うら)むことを覚える。一斗はこれまでそれを確かめることで安堵(あんど)していた。己の汚さを正当化するために、そして大小の違いはあれど、誰もが本当の自分とは別に偽(いつわ)りの人格を形成しているということを証明するために。  例外などないと確信していた。だが、一斗を否定するたった一人の人物が今になって現れてしまった。  希早という、類(たぐい)稀(まれ)なる存在。  成長するにつれ、人々が育(はぐく)んでくるはずの様々な感情を、その少女は持たなかった。 希早の中に在るのは「悲哀(ひあい)」、そして「恐れ」――その二つだけ。  人が当然持つべき感情としての喜びも怒りも、彼女の中には見い出せなかった。浮(うき)世(よ)離れした完全無垢(むく)の少女は、良くも悪くも「人間」ではなかった。  人は人の間で生き、個ではなく個々であるからこそ社会の中で生きていくことができる。  このまま生きて行けば希早は社会から外れ、他者から疎外(そがい)されていくだろう。誰かが希早が「人間」であることを教えるまで。  それが自分以外の誰かであることを考えた時、一斗は自分でも驚くほどの強い反発(はんぱつ)を覚えた。  かつての一斗ならば、ターゲットに手を出すことなど考えもしなかった。興味を覚える対象はあくまで自身の持論を証明するためだけの被験者(ひけんしゃ)であり、性欲を満たすための存在とはまったく別の者のはずだった。――なのに。  希早は一斗の行動を狂(くる)わせ、生じるはずのない欲望を掻(か)き立てた。  自分には「てっとり早く希早の本性を暴(あば)くため」と言い聞かせて、幼稚で無知な希早を騙(だま)して襲(おそ)い、その涙に――目的を見失(みうしな)った。  始めから、何もかも間違えていた。  希早は今までの少女たちとは違う。それを認めなければ、一斗は一歩も進めなかった。  自分の気持ちを否定(ひてい)することは無駄(むだ)な努力に他ならず、矜持(きょうじ)を守るために遠回りをすることが何よりもくだらないことだと理解してしまっている。  一斗は自身の負けを認めることよりも、勝つことへ拘(こだわ)る無用な自尊(じそん)心(しん)の方が愚(おろ)かだとわかっていた。  すべては今日から始まる――いや、始めて見せる。  一斗は一生分の勇気を携(たずさ)えてその日の放課後、希早を屋上へと連れ出した。  自分が特定の誰かを特別な感情を持って呼び出すことなど考えてもみなかった。  昔馬鹿(ばか)にしていたシチュエーションに今自分が立っていることを思うと、思わず苦いものが込み上げる。  一斗はなんの気負いもなく素直についてきた少女を振り返ると、深呼吸の後、あえて偽らず緊張そのままに切り出した。 「希早は、俺のことをどう思ってる?」 「……え?」  前置きもない突飛(とっぴ)な質問。  男らしくないとは思ったが、ストレートに想いを口にできるほど一斗は潔(いさぎよ)い性格ではなかった。善治あたりならばけろりと言ってしまいそうだが、あれほどの図太い神経は残念ながら持ち合わせてはいない。  希早はまったく置かれた状況を理解していない顔で――ともすれば質問を聞き逃したかのような様子で一斗を見返す。その瞳の中にかつての怯(おび)えはなく、逆に「信頼」と呼んでもいいほどのくつろぎを感じた。  希早に謝罪したその日から、一斗は誠実(せいじつ)に約束を順守(じゅんしゅ)し、一定の距離を持って辛抱強(しんぼうづよ)く希早の心を開く努力を重ねた。毎日の挨拶はもちろんのこと、共に昼食を取り、他のクラスメイトたちとの輪にも居座らせて「普通」を共有し、移動教室の時でさえも離れることなく並んで移動した。  常に傍らにあれば、それは慣れと共に習慣付けさせることができる。一斗が希早を害する相手ではないということを一から覚え直してもらうには、倍以上の努力を必要としていた。  希早の反応があろうとなかろうとマメに話し掛け、少しでも興味関心のある話題を探り、それを掘り起こす。そんな作業を日々繰り返し――そして今の関係が築き上げられた。  希早の中に一斗の席が置かれたことははっきりとしている。だが、席の確保は単なる目標の第一段階であって、最終的な目標にはほど遠いことを自覚していた。もう一つ言えば、告白することもまだ時期尚早(しょうそう)であることを一斗は認めていた。希早相手に勝算(しょうさん)を得るにはきっと年単位の努力が必要になる。けれど、初めて抱いた熱い想いは、悠長(ゆうちょう)な歩み寄りをよしとしなかった。  ――他の強引な誰かに盗(と)られてからでは遅いのだ。  卑怯(ひきょう)だろうとなんだろうと、希早を得るのは自分でなければならない。  冷静かつ迅速(じんそく)に目的を為すためには、人生経験の浅い希早の優秀な思考力に訴(うった)える必要があった。  逡巡(しゅんじゅん)する希早の中にまだ答えがないことを悟って、一斗が話題を変える。 「希早はさ、俺が転校してくる前はずっと一人でいたんだよね。どうして?」 「……どうして?」 「だって、クラスにはたくさんの人がいるでしょう? 一人より二人、二人より三人。たくさんの人と一緒にいる方が楽しくない?」 「……楽しい。最近、皆と話する」  一斗を通じてクラスメイトたちと繋(つな)がりを持ち始めた希早の口数は、以前よりも目に見えて増えた。特に、善治とは本能で動いている者同士だからか通じるものがあったらしく、挨拶(あいさつ)以外にも会話らしいものを度々するようになっていた。他から見れば一斗よりも善治との仲の方が良く見えるほどに……。 一斗が急(せ)く要因はそこにもあった。 「善治は、友だち?」 「うん」  一斗が深く目を閉じ、次いで緊張とともに口を開く。 「じゃあ俺は? 希早にとって良い友人? それとも単なる話し相手?」  自身でさえ笑ってしまうような自虐的(じぎゃくてき)な二択。  特別な存在かどうかを問えないのは、過日(かじつ)の罪を恐れるゆえの自信の無さだった。  かろうじて嫌われていないにしても、少なくとも今の時点では特別な――ましてや異性として意識されている可能性は万に一つもないとわかってしまっている。  意識することと警戒することは異なるようでいて非常に酷似(こくじ)している。好きと嫌いは表裏一体で、背中合わせのそれらは、振り返ることで容易にその境界線を越えてしまえる。だが、希早にとっての今の一斗は円グラフでいう境界とは真逆の位置に立たされており、手を伸ばしてもまるで届かないところで足踏みしていた。言うなれば、以前の一斗の方が希早にとっての「特別」な位置に立っていただろう。  嫌われることを恐れたゆえの「普通」に、一斗は悶絶(もんぜつ)しそうなほどの葛藤(かっとう)を感じていた。 「――希早は、特別に親しい人なんて求めていないかもしれない。でも、俺は希早ともっと仲良くなりたいんだ。善治や、他のクラスメイトよりももっと親しい存在になりたい。『皆と一緒』じゃ嫌なんだよ」  一斗の切なる訴(うった)えに、希早は小さく口を開いたまま時を止めたように動かなかった。  果てしない沈黙(ちんもく)。  やがて希早は上目遣(うわめづか)いに一斗を見ると、珍(めずら)しく困った様子で告げた。 「友だち、だめ?」 「ダメ」 「仲、良いよ?」 「種類が違う。俺は希早に一番に好きになってもらいたいんだ。『皆一番』は一番じゃない」 「……わかんない」 「なら、もっと考えて。希早は頭良いんだから。勉強で一番になるには問題をよく理解することが求められるでしょ? これも同じ。希早はもっと俺のことを知って、理解してよ。この世界は『自分』だけでは完結していない。人がたくさんいて、その数だけ考えも想いもあるんだ。一人一人は『同じ』じゃない。俺と善治は違うでしょ?」 「――うん」 「どう違うか、わかる?」 「……楽しい、と……イジワル」 「……………………」  悲しいことだが、この場合、どっちがどっちと聞くまでもない。  希早の中の自分の立ち位置を再確認して眩暈(めまい)を覚える。  一斗は天を仰(あお)いで十秒を数えると、「妥協(だきょう)」という言葉を飲み込んで視線を下ろした。  無理は禁物、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし――急がば回れ、だ。 「――わかった。いいよ、友だちで。その代わり、これからはちゃんと俺のこと考えてくれる?」 「……うん」 「ありがとう」  今は前向きなこの返事だけで満足するしかない。  一斗は踵(きびす)を返して階下へ降りるためのドアに足を向ける。 「じゃあ、帰ろうか」 「一緒に?」  ともすれば聞き逃しそうなほど小さな呟きに、一斗がぎょっとして振り返る。  希早は小首を傾げて続けた。 「友だち、一緒に居る。違う?」  打っても響くことのほとんどなかった希早のその反応に、一斗の声が動揺を隠せずに唇を震わせる。 「ちが――違わ、ない」 「友だち、何する?」  これから――。  ふと、四時を報せるチャイムが校内外に鳴り響く。  部活外の生徒の帰宅を促(うなが)すその鐘は、呆気に取られていた一斗の背を悠然(ゆうぜん)と押し出した。                  *  学校から向かって駅の反対側にあるその場所は、モダンな商店が密集(みっしゅう)した賑(にぎ)やかな通りだった。  クリスマスも正月も過ぎた繁華街(はんかがい)は、セールと書かれたポップとともに名残(なごり)のようなネオンをウインドウに煌(きら)めかせている。  最新のファッションや小物が集まるそこには、近隣(きんりん)から集まった高校生や大学生たちで溢(あふ)れていた。  一斗を見て立ち止まる他校の女子高生の姿が目の端に入るが、一斗はまるで気に留めることなく目的地へと進む。  ちらちらとこちらに向けられる好奇(こうき)な視線が集まるのは今に始まったことではない。物心ついた頃から向けられていたそれらの視線は、最早一斗を取り巻く一部のようなものだった。――だが、この時ばかりは無視していられない苛立ちを一斗は内心感じていた。  放課後になって学ランを着崩(きくず)した少年たちが、一斗の数歩後ろの少女を意味ありげな視線で見つめる。  鞄を腕に抱き締めながら黙って歩く姿は、不審(ふしん)というよりも街に慣れない深窓(しんそう)の令嬢(れいじょう)のようで、多くの若者たちの中に紛(まぎ)れてもどこか浮いて目を引く様相をしていた。  色白で細い手足、無造作(むぞうさ)に流した艶(つや)やかな髪。黒目がちな丸い瞳とふっくらとした唇は匂(にお)い立つようで、教室に居る分にはなんとも思っていなかったが、希早の性格を知らない者たちが見れば、希早は充分に魅力的(みりょくてき)な美少女として彼らの目に映っていた。一斗にとっては不愉快(ふゆかい)極(きわ)まりない。  できることならば今すぐにでも手を取って引き寄せたいところであったが、いかんせん、先日の約束が希早に触れることを頑(かたく)なに押し止めていた。  一斗が足を止めると、倣(なら)うように希早も立ち止まる。  縮(ちぢ)まらない距離に一斗は表情を曇(くも)らせた。 「――希早、隣においでよ。人も多いし、はぐれちゃうよ」 「……でも」 「そんなに歩いて離れたら友だち(・・・)に見えないでしょ?」 「…………」  希早の顎(あご)が下がり、鞄の縁に当たる。 態度がおかしいのは、実はあの(・・)公園を横切った頃からだった。  それまで時折話し掛けていた一斗にぽつぽつと応じていた希早は、記憶に触れる道を通ったとたん、顔色を失くして後退(あとずさ)った。  時刻もあの日と似通った夕暮れ。  ――これからはちゃんと俺のこと考えてくれる?  そう言ったことが裏目に出たのがありありとわかった。  過去の過(あやま)ちをなかったことにはできない。  一斗にとっては苦々しくも甘い思い出であるのに対して、希早にとってはひたすら恐怖の思い出でしかなかったことをはっきりと思い知らされてしまった。  一斗は徐(おもむろ)に両手をズボンのポケットに入れると、懇願(こんがん)の眼差しで希早を見つめた。 「隣、来てよ。希早には指一本触れないから。約束、守るから」  これで拒絶(きょぜつ)されてしまったら、一斗に打つ手はなかった。  希早の足が半歩近付く。  合わさった視線に一斗がくしゃりと顔を歪(ゆが)ませると、希早は決心したように横に並んだ。腕一本分の警戒心。 「……どこ、行くの?」 「お腹減らない?」 「少し」 「この先にファーストフード店があるんだ。ハンバーガー食べて帰ろうかなって思って。好き?」 「あまり食べたことない」 「嫌?」 「ううん。でも、夜ご飯、食べられなくなる」 「そんなにがっつり食べなければいいよ。ちょっとした間食ってことで」 「寄り道、友だちとする?」 「するよ。楽しいよ」  心にもないことを言って希早を促(うなが)す。  一斗自身、友人と放課後に寄り道をして遊ぶことは思い起こしても片手の数に足らず、その手の付き合いをこれまでそれとなく避けてきた。  善人(ぜんにん)としての一斗を演じることは日常化していても、疲労(ひろう)を覚えないわけではない。  校内では行動を共にしても、放課後まで馴(な)れ合う気はさらさらなく――ゆえに、普段共にいる友人として選ぶ条件に部活動――特に毎日が練習、活動に当てられている部員に限り友人関係を築く傾向にあった。 一斗にしても遊ぶにしても健全な高校生の遊びではなく……その相手とて行きずりの者がほとんどで、その内容はまともな大人ならとても看過(かんか)できるものではなかった。  唯一諌(いさ)められるはずの父も義兄(あに)も、毎日帰宅はするものの一斗の行動に深く干渉(かんしょう)することはなく、顔を合わせても一言二言言葉を交わすだけで、まともな会話をすることは希少(きしょう)だった。それは冷めた家庭というよりも多忙(たぼう)ゆえのすれ違いと表現する方が当てはまり、義兄に関しては理知的ゆえに何を考えているかわからないところがあった。無表情の度合いで言えば、希早とためを張れるかもしれない。  ――そういったこともあり、一斗自身、放課後の友人との遊びの「楽しさ」というものを説明してやれるほど経験豊かではなかった。とはいえ、学外での付き合いがより親密度を深めることには違いなく、今後あるかしれない機会を逃す気は露(つゆ)程もなかった。  ほどなくして辿(たど)り着くと、一斗は黄色く大きなアルファベットの目立つ看板(かんばん)の下を先に立って潜(くぐ)った。 学生で溢(あふ)れる店内を見回すと、カウンターの席がタイミングよく空くのが見える。一斗はその場所を素早く確保して希早に座らせると、自身は十人ほど並ぶレジの列へと身を寄せた。 十分少々を費(つい)やして戻ってきた一斗は二人の間に一枚のトレイを置くと、Mサイズのポテトとオレンジジュースを取って希早へと渡した。 「…………」 「どうしたの?」 「七波それ、食べるの?」  トレイの上の諸々(もろもろ)を指して希早が目を丸める。 「うん、食べるよ」  一斗は平然とした顔でハンバーグが二枚挟まれたビッグサイズのバーガーにかぶりつく。  トレイの上にはまだ二種類のバーガーとLサイズのポテト、それに二箱のナゲットと飲み物が乗っていた。 「これじゃ夜ご飯、食べられない」 「食べられるよ。言ったでしょ、間食だって」 「…………」 「どれか他に食べたいのある?」  希早はぶんぶんと首を横に振って自身のポテトを指に摘(つ)まむ。 「ケチャップもあるけど」 「……いい」 「そう?」  一斗はナゲットの蓋(ふた)を千切(ちぎ)って皿にすると、そこにケチャップを絞(しぼ)り出しポテトに軽くつけて次々と頬張(ほおば)った。  一斗の見事な食べっぷりに唖然(あぜん)としながら、希早がそれを見守る。  細身の一斗がこれほどの量を平らげられるとはとても思えなかったのだろう。  黙して動かない唇に反して、その瞳は何よりもその驚きを伝えていた。  粗方(あらかた)胃袋に押し込み落ち着きを取り戻すと、未だ半分しか減っていない希早のポテトから視線を上げて一斗が尋ねた。 「こういう寄り道、したことなかった?」 「――うん」 「じゃあ俺が初めてだ。美味(おい)しい?」 「うん」 「普段は家で食べるだけ?」 「うん」 「好きな食べ物何? 嫌いな物とかある?」 「……ない。希早、なんでも食べる」 「へえ、えらいね。俺なんか貝類全般苦手なのに。昔は母さんが頑張(がんば)って食べさせようとしてたらしいけど、結局食べられるようにはならなかったな。貝ってさ、見た目グロいの多くない?」 「七波のお母さん、料理する?」 「まあ人並みにはね。六歳の時に死んだからあまり覚えてないけど」 「――そっか」 「希早のお母さんは毎日ちゃんと家に帰って来るの? 医者だったら忙しいでしょ?」 「忙しい。朝帰ってきたり、帰って来なかったり……」  では、希早は多くの時間を一人で過ごしているということだ。となれば、一斗が度々遊びに誘うこともそう難しくはない。  希早を取り巻く環境は一斗を大いに応援(おうえん)していた。 「次は何しようか」 「他に、何ある?」  逆に問い返され、一斗が頬杖をついて考え込んだ。 「そうだな、普通ならショッピングとか映画とかかな。ゲームセンターやカラオケに行くのもいいかもね」  希早が何を歌うかは非常に興味深い。それ以前に歌うというもの自体歌えるのかは甚(はなは)だ疑問だったが。上手いか否(いな)かを知るのもまた一興(いっきょう)だろう。 「それ、友だちとする?」 「するよ。変?」 「……わかんない」 「じゃあ、とりあえず一つずつやっていこうよ。きっと楽しいよ」 「希早、あんまりお小遣(こづか)いない」 「月いくら?」 「三千円」 「親が医者なのに? でも、普通の家庭ならそんなものかな。少ない気もするけど。じゃあさ、足りない分は俺が驕(おご)る。俺、週二だけどバイトしてるし、これからは放課後たくさん遊ぼうよ」  転校してからすぐに決めたアルバイト先は、料理が得意なこともあって人気のパスタ店を選んだ。  初めはキッチンを強く希望していたのだが、すぐにその愛想の良さと整った顔立ちを買われ、ホールに回されてしまった。老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)に受けの良さを発揮(はっき)したため、売り上げが上がったと店長から感謝されたのはつい先日のことだ。聞けば、前年比百二十パーセントだったらしい。  数パーセント上げるだけでも厳しいと言われている売上を二十パーセントも上げたのだから、シビアな所、感謝よりも自給を上げてほしいと思ったが、「人当たりの良い一斗」がそんなことを言うわけにはいかず――ゆえに時給は入った当初と一円も変わらず据(す)え置きのままだった。  給料の使い道は特に考えてはいなかったが、希早との付き合いのためならば喜んで交際費に回す気でいた。けれど、希早はすぐさま難色(なんしょく)を示して首を振った。 「だめ。友だちは対等。驕るなんて変」 「いいじゃない。そういう関係もあるかもしれないし。人は人、俺たちは俺たち」 「だめ。そういうの、ちゃんとしないといけない」 「俺がいいって言ってるのに」 「だめ」 「……強情だなあ。じゃあ、あまりお金を使わない遊びにする?」  金を使わないということは、もちろん映画もボーリングもカラオケも却下(きゃっか)。空の下での遊びなら金を用いることはないだろうが……そんなものは小学生以来したことがない。まさか子どもたちに混じって公園のブランコや滑(すべ)り台で遊ぶわけにも行かない。というか遊びたくない……。 縄跳(なわと)びやキャッチボールなどただ疲れるだけだし、そもそも小学生の時にやっていたような類の遊びは高校生になってまでするのは遠慮(えんりょ)したかった。  ロクなことが浮かばないな、と自分でも呆(あき)れ始めた時、希早が思わぬ発案をした。 「希早の家、空いてる」 「家って――」 「お金使わなくても遊べる場所。トランプも、DVDもある」 「そ――いや、でもそれはちょっと――」  一斗が口元を手で覆(おお)ってスッと視線を泳がす。つい思春期(ししゅんき)の反射で良からぬことを考えてしまう自身に、理性を掻(か)き集めて待ったを掛ける。  心を改める前ならば進んで家に邪魔(じゃま)しただろうが、自覚した今では自省の意味も込めて行くわけにはいかなかった。  希早にとって二人きりになることと身の危険はイコールで結びついてはいないらしい。 「七波? 顔、赤い?」 「なんでもない。気にしないで。わかった、じゃあ放課後学校で遊ぼう。トランプ持ち込んでもいいし、ボールもあるから健全にバスケとかできるし――何より人目(・・)が(・)ある(・・)」  ここもしかり。理性を保つには第三者の気配の有無が重要だった。 「よし、決まりね。じゃあ、今日は帰ろうか」  最後のポテトを希早が食べ終えるのを見届けて、一斗が席を立つ。  トレイの上のゴミをさっさと片付ける一斗の背中をじっと見つめると、希早はふとぽつりと尋ねた。 「七波、希早といて、楽しい?」 「楽しいよ。希早とならどこにいても楽しい」 「……そっか」  希早はどこか信じていない顔で小さく頷いた。                 *  それからの日々は思った以上に穏(おだ)やかに過ぎて行った。  始めはただただ温かい視線で見守られていた二人は、今は異なった意味の視線で見つめられていた。  一斗にとっては悲しいことだが、二人がようやく友人(・・)関係(・・)であると皆が認めたらしい。 「毎日話題が尽(つ)きなくてすげえな、お二人さん」 「ぜんじ」  希早は一斗が一度ふざけて言った渾名(あだな)を覚えて善(よし)治(はる)をそう呼んだ。  野球部のショートミーティングを終えて教室に戻ってきた善治は、毎度の掛け合いとでも言うように、律儀(りちぎ)にそれを訂正(ていせい)してみせる。 「よ・し・は・る。希(・)早(・)は今日もごきげんだな。なんかいいことあった?」 「別に、普通。ぜんじは、ごきげん?」 「おう、めっちゃ機嫌(きげん)いいぜ。つか、燃えてる! 今日は部内試合だからな。勝ったチームから多くレギュラーが選ばれるんだよ。もうすぐセンバツだからな」 「センバツ?」 「春の高校野球大会。知らねえ?」 「うん」 「なんだよ、友だちがいねえなあ」  希早の無知に呆れながらも善治が快活に破顔(はがん)する。  一斗を通じて言葉を交わすようになった二人は、以前の無関心な関係を疑うくらい気が合っていた。元よりお節介(せっかい)で面倒見の良い善治にとっては、希早は妹のように思えるのだろう。三歳児のようにあれこれと質問する希早に、善治は嫌な顔一つせずに答えてやっていた。  希早は二度瞬くと、わずかな疑問を持って真面目(まじめ)に尋ねた。 「ぜんじ、希早、友だち?」 「ああ、友だちだ」 「希早、好き?」 「ああ、好きだぜ? クラスの奴らも、希早が頑張って話し掛けたら希早のこと好きになってくれる」 「本当?」 「ホント、ホント。来年もクラス持ち上がりだし、これからは皆ともっと仲良くすればいいじゃん」 「うん」 ……余計なことを。  つい思い余って善治の脛(すね)を蹴飛(けと)ばしそうになる。  希早が素直に喜んでいるのがわかるだけに口は挟(はさ)めないが、名が示す通り善治もまた善人寄りの人間だった。希早に近い人種なだけに質(たち)が悪い。  希早にはある程度の人との関わりは必要だが、クラスメイト以上の関わりなど必要ない。 「今日はトランプしないのか?」 「トランプは放課後。今日も勝つ」 「……も(・)、は余計だよ」  頭だけはやたらといい希早は、駆(か)け引きを抜いた勝負に置いてはそのほとんどに勝利を収めていた。 「ぜんじもする?」 「しねえ」 「今日は(・)?」 「残念ながら、今後も。放課後は野球(せいしゅん)に命懸(か)けてんの。昼ならちったあ付き合えるけど――はいはい」  冷ややかな視線に晒(さら)され、善治は苦笑して一斗の頭をポンポンと叩いた。  不要な子ども扱いには腹が立つが、鈍(にぶ)くはないらしい。  善治は近頃、時折垣間(かいま)見える一斗の裏の部分を見て楽しんでいる節(ふし)があった。 「七波?」 「――なんでもない」  恐らく、一斗にそう(・・)いった(・・・)感情があることを正確に理解しているのは、クラスの中でも善治だけだろう。  本人にさえまるで伝わっていないことは悲劇(ひげき)でしかないが、焦(あせ)りは禁物だということは十分に承知していた。 「巴さん!」  ふと、教室の後方のドアから希早を呼ぶ声が上がった。  それは昼休みも直(じき)に終わろうとしている時。  希早を手招きする京香の向こうに背の高い影が見えた。見覚えのあるその顔に、彼が久住涼だということに思い至る。  期末テストで学年二位(・・)に戻った少年。  委員会にしても部活にしても、希早との接点などないはずだが……。  終えたばかりのテストで何か思うところでもあったのだろうか。  希早は席を立つと、何も考えていない顔で呼び出しに応じる。涼は何事かを真剣な眼差しで一言、二言告げていた。  静かな表情。そこに照れや喜色は浮かんでいない。――まず、告白の類(たぐい)ではない…………はず。 「男の嫉妬(しっと)は見苦しいぞ?」  善治の忠告(ちゅうこく)に、一斗がさり気なく且(か)つ容赦(ようしゃ)なく脳天(のうてん)に拳を食らわせる。 「聞こえない、黙れ」  悶絶(もんぜつ)する善治は、頭をさすりながら涙の滲(にじ)んだ眼差しで一斗を恨(うら)みがましく見つめた。 「お前って、俺の前だけではキャラ変えるよな。別に、心配するようなことじゃないと思うぜ? 子どもに入れ込むような物好きはお前だけだって」 「その口、今すぐ閉じないとガムテープをもって実力行使に出るからな」  凄(すご)むような満面の笑みに、善治が瞬時に唇を閉ざす。  目を戻すと涼の姿は消え、希早だけがこちらに戻ってきていた。 「何の用だったの?」  無関心を装(よそお)い、極気軽に一斗が探りを入れる。  希早は一瞬きょとんとした顔をし、ややあって断りを入れた。 「放課後のトランプ、少し待っていて」 「なんで?」  知らず、声に力が入る。  希早は悪気のない様子で簡単に説明した。 「先生、呼んでる。送辞(そうじ)、希早やる」 「――え?」  思いもしないことに、一斗はきょとんと目を瞬(しばたた)かせた。  そういえば、今月の半ばには卒業式がある。全員が出席するわけではないので気にも留(と)めていなかったが――それはもう十日後の話だ。 「こんなぎりぎりに決まったの? おかしくない?」 「テストの結果、出てから決まる。希早、一番だったから」  確かに、この学校では二年で一番成績の良かった者が送辞を読むという噂は耳にしてはいたが……。 「それを伝えに久住くんが来たの?」 「そう。でも希早、断るつもり」 「なんで?」 「あまり目立つの、得意じゃない。さっき言わなかったけど、久住くんに頼むつもり」  一斗と会話をするようになって言葉数が増えたといっても、やはり希早は希早だ。在校生代表で送辞を読むには、はっきり言って無理があった。こんなたどたどしい言葉となんの感慨(かんがい)も見られない無表情の少女から祝辞(しゅくじ)を贈られても、嬉しいと感じる卒業生はほとんどいないだろう。それならば、学年二位でもクールなイケメン男子高生に送辞を読まれた方がよほどマシというものだ。 「いいんじゃない。そうしなよ」 「娘の成長を見守るのも親心だぞ?」 「…………」  余計な口を叩く善治を希早に気付かれないように冷ややかな視線で見据えると、一斗はわざと音を立てて席を立ち上がった。 「七波、どこ行くの?」 「ガムテープ取ってくる」  一人わからない顔の希早を残して、一斗が小間物専用の用具入れを目指す。 「――ぜんじ?」 「おれも、ちょっと席外すわ。……用足しに、な」  本気の危険を察知した善治が、後方のドアからゴキブリのようにそそくさと出て行く。 「…………」  希早はガランとした席を眺めると思い立ったように立ち上がった。そしてガムテープを探す一斗の傍らまで行くと、指先でつんと肩を突(つつ)く。 「ん?」 「希早もトイレ行ってくる」  ――も(・)?  その言葉が意味するところに一斗は思わず舌打ちした。  ――逃げたな。  善治を追うように後方の出入り口に顔を向け――ふと、視界の端に映りこんだ茶髪の後ろ姿に一斗は眉根を寄せた。  保健室の一件以来近付いてくることのなくなった少女。その背中が静かに廊下へと消えていく。  一瞬視線を感じたように思えたが……気のせいだっただろうか。  こっぴどく振った腹いせに何か仕掛けてくるかと思っていたが、あっさりと引いたことに一斗は少しだけ違和感を覚えていた。これまでの異様なしつこさを警戒して気を配ってはいたが――。  彼氏にすれば自慢(じまん)になると思っていた王子がとんだ性悪詐欺師(さぎし)だとわかって、百年の恋も一時(いちじ)に冷めたということか。 「七波?」  名を呼ばれ、一斗は引き戻されるように振り返った。 「どうしたの?」 「いや――なんでもない。いってらっしゃい」 「うん」  頷く希早を見送ると、一斗は開けたままだった抽斗(ひきだし)を軽く押して閉じた。 そして思い直したように手にしていたガムテープの端を引くと、十センチほどの長さを取ってビッと千切(ちぎ)った。                 *  手洗い場は廊下に出て右に行き、二つ隣の教室の前にあった。  休み時間も残り十分となった廊下にはジャージに着替えた生徒の姿もあり、一(ひと)塊(かたまり)となった女子の集団が希早の脇を楽しげに通り過ぎていく。  ほてほてと歩いていると、先にトイレに立ったはずの善治がジャージ姿の男子生徒と言葉を交わしているのが見えた。  邪魔(じゃま)をしないように無言で行こうとすると、善治の方が希早に気付いて呼び止めた。  話していた男子生徒は野球部だったのか、「試合負けねえからな」と告げて階段の方へと去って行く。  善治はすぐに手洗い場へ行くでもなく希早に向き直ると、自身の教室を気にするように目を向けながら、声を潜めて希早に耳打ちした。 「あのさ、ちょっと聞きてえんだけど――あいつ、手になんか持ってた?」  希早は一瞬考えてからこくりと頷いた。 「ガムテープ」 「………………………だよなあ」 「なに?」 「んや、呼び止めて悪かった。おれ、ギリに教室戻るわ」  善治は希早の頭をポンポンと撫でると、緩慢(かんまん)な足取りで男子トイレへと入って行った。  希早も三歩遅れて隣のドアをそっと押す。 休憩時間も終わりに近づいてか中にはほとんど気配はなく――ただ、少女が一人いるだけだった。  個室に向かうでもなく、手を洗うでもなく、まるで待ち構えていたかのようにそこに立っていたのは、クラスメイトの仙石素花だった。  目もとの濃い印象的な化粧を施(ほどこ)したその顔に、希早が少しだけ怖気(おじけ)づいたように立ち止まる。  素花の鮮やかな唇は母親の――女の香りを漂(ただよ)わせる。 「こんにちは、巴さん」 「……う、ん」 「どうしたの? 顔色悪いわよ」 「――別、に」  希早が個室につま先を逸らせる。  それとなしに感じる冷ややかな空気に身が震えた。  手早く用を済ませて個室から出ると、素花はまだそこにいた。  視線がチリチリと希早の肌を刺す。 蛇口(じゃぐち)を捻(ひね)ると、素花は徐(おもむろ)に口を開いた。 「ねえ、一斗くんって怖くない?」 「……怖、い?」 「だって、一斗くん、本当はちっとも優しい人じゃないじゃない。巴さんは知らないの? 一斗くんが見せてる普段の顔が演技だって」 「……演技?」 「そうよ。皆の前では『良い人』ぶってるけど、本当はすごく怖い人間なの。人の心を弄(もてあそ)んだり傷付けたり、平気でするんだから」 「――――」  素花の言葉がふと、土管の公園での出来事をフラッシュバックさせる。恐ろしい体験だっただけに考えないようにしていたことが、否応なしに襲ってくる。  乱暴(らんぼう)なわけではないのに逃れられないほどの強い力と広がるコーンスープの匂い。  ――この世にいる人間は別に善と悪に分かれているわけじゃない。それぞれ善の心を持ちながら、欲望という悪に惹(ひ)かれて揺れ動いているだけ――。  そう言った一斗はひどく妖艶(ようえん)な笑みを浮かべていた。  あの時と今の一斗はまるで違う人間に思えた。  素花は今の一斗を演技だと言う。  けれど、希早にはその言葉を素直に受け入れることはできなかった。 「これは善意で言うわ。さっさと一斗くんから手を引いた方がいい。あんたは単純だからなんの疑いもないんでしょうけど、一斗くんはあんたが思ってるような人間じゃない」 「――ちが、う」 「違わない。一斗くんはね、あんたに優しくすることで周りからの評価を上げてるの。自分がどう見られるか全部計算してあんたといるのよ。このまま傍にいればきっと良いように利用されるわ」  素花の力ある声が耳の表面をざらりと撫でる。 「…………」  意地悪で怖い一斗は確かに存在している。それは否定できない事実だ。 それでも、あの時の一斗の言葉を嘘だとは思わなかった。  人は善と悪に分かれているわけじゃない。優しい一斗も怖い一斗も、どちらも同じ一斗なのだ。 「――七波が優しいだけじゃないの、知ってる。でも、七波が言ったの。希早ともっと仲良くなりたいって。その言葉は、きっと本当」  一つの答えを導き出して顔を上げる。  とたん、合わさった瞳が剣呑(けんのん)に揺らいだ。 「あんた、バカ?」 「え?」 「わざわざ人が忠告してあげてるのに、理解できないわけ? その優秀な頭はなんのためにあるのよ」 「仙石さ――」 「知ってるって、あんたが一斗くんの何を知ってるって言うのよ! 言っとくけど、一斗くんがあんたを選んだのは、あんたが幼稚(ようち)で騙(だま)しやすいからよ! 自惚(うぬぼ)れないで!」 「ちが、う。七波は、友だち。好き。だから一緒、いる」 「好き? 笑わせないでよ! 友だちさえいたことないくせに、恋も友情も知らないあんたが何をわかるっていうの!」 「――っ」  叩きつけられる言葉に希早が身を竦(すく)める。  耳に小さな舌打ちが届く。 「いい? 今後一斗くんが近付いて来ても無視しなさい。それがあんたのためなんだから」  縮こまる希早の脇を大股で横切ると、怒気を含んだ音を立てて素花は出て行った。                  *  希早が教室から出て行くのを見計らって、一斗はその後ろをつけた。  とぼとぼと聞こえるかのような歩調。  昼休みの終わりから、希早の様子はおかしかった。  いつもと変わらない無表情。だが、その中にもわずかな影が差しているように見えた。  トイレに行くと教室を出て行った希早。余裕で戻れる十分な時間はあったはずだったが、実際に戻って来たのは始業の鐘が鳴ってからのことだった。  善治に続いてギリギリで戻ってきた素花の憤然(ふんぜん)とした面持ちに嫌な予感はあった。希早は時間に正確で、決して遅刻することはない。万が一遅刻するとすれば、それはイレギュラーなことが起きた時だけだろう。  素花が希早に何かをした確証はない。それでも、それをちゃんと確認しておきたかった。  放課後になってすぐに希早に声を掛けたが、希早は一斗の心配など他所(よそ)に送辞の交代を頼みに行くからと教室で待つように告げた。  その声はいつもと変わらない声ではあったが、合わない視線に不安は増した。  大人しく待つべきだとは思ったが、用事の相手が男であることもあってじっとはしていられなかった。  希早に気取られないように、一斗は静かにその背を追う。  階段を最下まで降り、保健室とは逆の廊下を左に曲がってしばらく真っ直ぐに行く。するとすぐに目指していた部屋が見えてきた。頭上の表札には「職員室」と大きな黒文字で綴(つづ)られている。  希早はぎこちない様子で二度ノックすると、吸い込まれるように引き戸の向こうに消えた。  一斗はふと我に返り、自身のストーカーのような行動に小さく溜め息を吐いた。  自分は一体何をしているのか。  心配、の一言でここまでする必要などないことを一斗は自覚していた。  素花がすでに帰ったことは確認している。  それに行先も目的も、これ以上なくはっきりとしていた。 相手は子どもではなく、まして希早は一斗の彼女(もの)でもなんでもない。  希早のテンポで仲を深めようと先日決めたばかりだというのに、焦(あせ)りだけが一斗の胸を支配している。  以前の一斗であればこれほどまでに他人に干渉(かんしょう)しようなど考えもしなかったというのに……。  抱いたことのない想いに振り回されている自分が滑稽(こっけい)だった。 善治が「見苦しい」という理由もわからないではない。近頃では、希早が自分以外の男と言葉を交わしているだけで落ち着かない気持ちになり、例えそれが教師であっても同じような焦燥感(しょうそうかん)を覚えた。馬鹿らしいと頭で思っても、心が疑ってしまう。  己の心さえ持て余している自分自身を留める方法を、一斗は知らなかった。  ほどなくして、涼が廊下の向こう側から現れ、同じようにドアを叩いて戸の奥へと姿を消す。 悶々(もんもん)としつつ階段の踊り場に隠れていると、五分もせずに二人が揃(そろ)って職員室から出て来た。  涼は音もなくドアを閉じると、教室へ戻ろうとする希早の腕を取って引き止めた。 「ちょっといいか?」 「なに?」 「話がある」 「希早、トランプする」 「少しだけだ。送辞、代わってやったんだからつき合えよ」 「――うん」  希早の表情はここから窺(うかが)い知ることはできなかったが、届いた声は戸惑(とまど)うような響きを帯びていた。  涼は半(なか)ば引きずるように希早を伴うと、別棟(べっとう)へと向かって行った。  一斗は迷いつつも看過(かんか)できずに二人の後を追った。  涼が連れ立った先は、普段ほとんど使われない西の棟だった。 棟の一階は図書館で、二階三階は視聴覚室兼不要になった机や椅子を収納(しゅうのう)する空き教室となっていた。 涼はそれらを素通りして階上へと上がっていく。先にあるのは屋上であり、外へと繋がる扉は開閉禁止となって固く施錠(せじょう)がされていた。  涼は最上階の踊り場に辿り着くと、間(かん)髪(ぱつ)を入れず口を開いた。 「巴って、なんでそんななんだ? 頭良いのに、もしかしてわざと子どもぶってるのか?」 「子ども、ぶってる……?」  突然のことに希早は困惑していた。  なぜ涼が怒っているのかまるで見当がつかないようだった。  強い口調に、苛立(いらだ)ちが滲(にじ)む。 「それ、そういうとこだよ。毎回首席を取るような人間がそんな幼稚(ようち)なしゃべり方して……ずっと無視を決め込んでたけどいい加減ウザく思えてきた。それが演技ならいい加減にしろって言ってるんだ」 「言ってる意味、わかんない。希早、これ普通」 「嘘を付け」 「嘘、違う――」  バン! という激しい音と共に、涼の腕が希早の背後にある壁に叩きつけられる。涼は本気で怒りをぶつけていた。  希早は両腕を頭に添(そ)えて震えていた。 「お前のせいで、俺は両親兄たちからバカにされてるんだよ! お前だけ落ち零れだって。兄たちは皆首席でそれぞれの学校を出て医学部に進んでいる。両親は揃って医者でそれなりの地位についている。俺だけ、親の期待に応えられていない――その気持ちが、お前にわかるか?」  涼は縮(ちぢ)こまる希早の手首を掴(つか)むと、壁に押しつけて軟弱(なんじゃく)な盾(たて)を奪い取った。 「どうせお前なんて始めから親に見捨てられているんだろう? 父親はいない、母親はろくに家に帰ってこない。以前学年主任に言われたよ。上位の者同士、仲良くしてやってくれって。かわいそうな身の上だから、学校だけでも楽しく居させてやれるようにって。お前はどんなに声を掛けてやっても俺には無関心だったけどな」  一斗は今すぐにでも飛び出して行きたい気持ちをぐっと堪(こら)えて耳を欹(そばだ)てた。  希早のことならばどんな些細(ささい)なことでも知りたかった。自分の知り得ない過去のことならばなおさらに。  自分のことをほとんど語ることのない希早の情報はひどく希少(きしょう)だった。以前調べて得たものと言えば、入学当初、本来なら特別進学クラスに入る予定だった希早が、急遽(きゅうきょ)普通科のクラスに振り分けられた、という情報だけ。  教師らは希早の性格と家庭環境を考え、窮屈(きゅうくつ)な期待を背負わされた進学クラスよりも、解放された普通科のクラスの方が友人ができると踏(ふ)んだのだ。  学年三位の一斗が普通科に割り当てられたのは転校生という特殊(とくしゅ)な立場であったからに他ならないが、希早と友好関係を築いたことは教師たちにとって物怪(もっけ)の幸(さいわ)いだったことだろう。  当の本人が友人の有無を気にしていないことなど教師たちの気にするところではなかったらしい。  だが、その件に関しては涼に頼むべきではなかったと言わざるを得なかった。  涼は恐怖に目を瞑(つぶ)る希早に震える声で言いつのった。 「お前も俺を馬鹿(ばか)にしているんだろう? いつもいつもお前の次でしかない俺を蔑(さげす)んで、憐(あわ)れんでいたんだ」 「希早、そんなこと思ってな――」 「思ってない? 嘘を吐け! じゃあなぜ数学で手を抜いた? 前回の中間試験の最終日、勝負だと言った俺の言葉を聞いて気を変えたんだろう? 俺が数学を得意としていることがわかっていて、最後の問題を答えなかったんだろうが!」  希早は一際大きな怒号(どごう)に、崩れるように膝をついた。同時に、一斗の視界からも二人が消える。  一斗は階段の手(て)擦(す)りを強く掴んで、駆け上がろうとする衝動(しょうどう)を抑えた。  真実が、知りたかった。  もしそうなら、最悪な選択だ。違うと一言、言ってほしかった。けれど――。  希早は弱々しい声で絞(しぼ)り出すように告げた。 「――いけないことだって、わからなかった。だって、久住くん……一位、欲しいって言った――」  一斗が額を覆(おお)う。  ――そいつと張り合ったって虚(むな)しいだけだぜ?  いつか涼が言っていた言葉が冷ややかに響いたと思ったのは気のせいではなかった。  涼は競争(ライ)相手(バル)が同情して手を抜いたことを、はっきりと自覚していたのだ。  希早が言っていた「一位じゃないと、お母さん、見てくれない」、「一位じゃなきゃ意味ない」はすべて単なる事実で、二位だった自分への不満なんかではなかった。  涼の怒りはもっともだった。  次に響いてきた声は幽鬼(ゆうき)のように空(うつ)ろなものだった。 「――お前、本当にムカつくな。送辞のことにしても。二位でしかない俺に読ませるって、どういうことかわかってるか?」 「――わか、らな――」  再び強い音が階上に響く。二人がどうなっているのかわからなかったが、その拳が生身を殴った音でないことだけは確かだった。希早は無事だ――その、身体だけは。 「教えてやるよ」  低く暗い声が鋭利(えいり)に突き刺さる。 「送辞を二位(おれ)が読むってことは、全校生徒の前で俺に恥(はじ)を掻(か)かせるってことだ!」  希早に言葉はなかった。  ただ、立ち上がる涼の姿が見える。  涼は階段を降り一斗に目を止めると、一度きつく睨(にら)み据(す)え――そのまま何も言わず階下へと消えていった。  一斗がややあって階上に視線を送る。  一段一段意識しながら登ると、そこに呆然と座り込んだ希早の姿があった。  目からは涙がとめどなく溢れていた。泣き叫んでいないのが不思議なくらいだった。  一斗が目の前に現れたことになんの感慨(かんがい)も浮かばない。  何も写さないその瞳には、きっと怒りを宿した涼の面影だけが映っているのだろう。  掛ける言葉もなく一斗が希早に手を伸ばす。  この時ばかりは約束を守ることなどできはしなかった。 「……希早」  一斗が頼りない痩身(そうしん)をそっと腕の中に包み込む。  痛みが、慟哭(どうこく)が、肌を伝って染み入る。  縋(すが)ってくれれば救いようはあるのに、希早はただただ声もなく泣く。  無残(むざん)に折られた白い翼が、その背に見えたような気がした。                 *  放課後の約束は一日遅れて叶えられた。けれど希早の表情はいつになく物憂(ものう)げで、トランプを見つめる瞳にも覇気(はき)は感じられなかった。同じ数字のカードを抜く手が弱々しく見える。  一斗の視線にも希早は一日中応えることなく下を向いていた。出会った頃の希早に戻ってしまったようだった。  今希早の心を誰が支配しているのか、聞くまでもなく一斗は理解していた。 「――希早」  一斗の声に希早が手を止める。無意識か、その指はビクリと震えた。  二人でする不毛(ふもう)なババ抜きが始まる前に言っておきたかった。 「悩みがあるなら言ってごらん。ちゃんと聞くから」  希早は一斗が二人の会話を聞いていたことになどまるで気付いていなかった。ただ、考えなしな己の行動が一人の少年を傷付けた、そのことだけに心が囚(とら)われている。  希早は数回口を開閉すると、懺悔(ざんげ)をする信者のような瞳で一斗を見つめた。 「希早は、悪い人間」 「違うよ。希早は悪い人間じゃない。ただ、人の心に鈍感(どんかん)なだけだ」 「――鈍感、悪い。皆、傷付ける」 「……そうだね。時にはそういうこともある。けど、過ぎてしまった時は悔(く)いることしかできない」  「良い人」でいる間に身につけた優しい言葉は、わずかに厳しさを伴って希早の耳に届く。  希早は泣かなかった。  朝、瞼(まぶた)を腫(は)らしてやってきた少女は、昨夜の間に瞳の奥の泉を枯(か)らしてしまったに違いない。 「傷付けたら、どうやって謝(あやま)る? 希早は――わからない」  希早の手からカードが一枚、また一枚と滑(すべ)り落ちていく。  まるで砕(くだ)け散った心の破片(はへん)のように。  傷悴(しょうすい)した希早はひどく人間らしい顔をしていた。出会った時よりもずっときれいだと感じられた。  これまでこんな感情に触れることなどなかったのだろう。良い傾向だと思う。けれど、希早の感情を揺さ振ったのが自分ではなかったことに、少しだけ筋違いな嫉妬(しっと)を覚えた。  一斗は手元のカードを置き、中央に捨てられたカードごとまとめてひとつに重ね置く。床に散らばった五枚のカードも、一枚一枚丁寧(ていねい)に拾う。 「希早、今日はもう帰ろう。トランプはまた明日やればいい」 「七波、教えて。希早は、どうすればいい?」  鞄(かばん)を掴んだ一斗の手を、希早が必死に引き止める。  一斗はその瞳をじっと見つめると、はっきりとその答えを口にした。 「どうもしなくていい」 「でも――」 「希早が何かを言えば久住くんは余計に傷付くだけだ。送辞も、このまま久住くんに読んでもらうしかない。もし希早がやっぱり送辞を読むと言ったら、関係は今よりも悪化(あっか)する。このまま関わらないで置くのが一番良いんだ」  私心もわずかに交えて一斗が静かに希早を諭(さと)す。  希早のためだと言って策(さく)を巡らせ、涼との仲を取り持つなど考えられるはずがなかった。一斗の意見を言わせてもらえれば、これ以上自分以外の誰かと深く関わって欲しくない。例え希早を世間から隔離(かくり)することになっても、一斗のことだけを見ていてくれればそれでよかった。 「希早、行こう」 「お願い、七波。希早、久住くんと、仲直りしたい。このままじゃ、やだ」  なおも他の男の名を口にする希早に、一斗の心が暗く揺れ動く。  希早をこれ以上傷付けたくはない。それなのに、自分勝手な欲望が残酷(ざんこく)な想いとなって心を支配する。  もう一人の自分が悲鳴を上げて一斗を止める。けれど主人格となったもう一方の自分が、希早を傷付けてでも自分でいっぱいにしろと誘惑(ゆうわく)した。  人の心は欲望のために容易(たやす)く悪魔(あくま)の声に耳を傾ける。  理性が止めても、一斗の口は止まらなかった。  廊下を通る生徒の姿がちらほらと見えるばかりの静かな教室で、一斗が声を潜(ひそ)めて言う。艶(つや)やかな甘い声音で。 「――ねえ、希早って赤ちゃんの作り方、知ってる?」  唐突(とうとつ)な問い掛けに、希早が眉を顰(ひそ)める。  意味ありげな視線に希早は怯(おび)えたように身を引いた。 「七波、希早の質問、答えて――」 「その前に、俺の質問。ねえ、知ってる? 子どもの作り方だよ」  鞄を置き直した一斗の両手が、ゆっくりと机に置かれる。  希早は逃げ場のない居心地の悪さを覚えて、固く結んだ唇から苦しげに息を吐き出す。 「……知って、る。だって……中学の時、保健の授業でやった。精子と、卵子が合わさって……受精(じゅせい)すると、赤ちゃんの種ができる」 「違うよ。俺が言ってるのはその前段階のことだよ」 「前……?」  ピンと来ないのか、訝(いぶか)る視線がわずかに上がる。 「精子の作る場所ってどこだかわかる?」  一斗の出すヒントに、希早がたじろぐ。それがなんなのかは、理解しているようだった。 「……男の人の、精巣」 「卵子は?」 「女の人の、卵巣……」  教科書通りの明確な答え。 「そう。じゃあその二つがどうなると受精に繋がると思う?」 「どうって――」  希早は困惑して言葉を失くす。  授業内容としては理解しているようだったが、実際を考えたことはないようだった。一斗は意地悪く笑みを深めた。 「二つが合わさるってことはその二つをくっつけなくちゃいけない。じゃあ、どうやってその二つをくっつけると思う?」 「――――」  一斗は希早の耳にそっと唇を寄せると、柔らかな吐息とともに正解を囁(ささや)いた。 「土管のある公園で、俺が希早にしたこと、覚えてる?」  とたん、ビクリと希早の身体が震える。  強張った身体が全身で一斗を警戒(けいかい)するのがわかった。  一斗は身を離すと無人の廊下にちらりと目を遣(や)り――再び希早に視線を落とす。 「……もし、希早のお腹に赤ちゃんがいたら、どうする?」 「赤、ちゃん?」 「可能性だよ。もしかしたらいるかもしれない。希早の中に」  希早の目が怖々と下を向く。  もしお腹に赤子がいたら――。  希早の顔が見る間に蒼白(そうはく)になる。 そう、希早はきちんと理解している。もしその仮定が現実になれば、どんな困ったことになるのか。 子どものようでいて、希早は立派な大人だった。 「希早の中、赤ちゃんいるって……どうしたら、わかる?」  妊娠(にんしん)を検査するための道具は市販(しはん)でも売っている。それを使って結果を知ることはもちろん可能だが、それよりも簡単にわかる方法があった。 「このひと月、生理(せいり)来た?」 「……来て、ない」  ぎこちない返事に、笑みが思わず浮かぶのを一斗は感じていた。 希早は非常にわかりやすかった。毎月生理の時期になるとそれを表情や口に必ず出し、一斗に悟(さと)らせる。このひと月、間違いなくそれが来ていないことを一斗は確信していた。 「赤ちゃんができていたら、生理は止まる。希早の予定日はいつ?」 「……一週間前」 「そう。じゃあもう一週間くらい待ってみよう。もしかしたらズレているだけかもしれないし」 「でももし、赤ちゃん、希早のお腹にいたら――」 「選択肢は二つしかないね。産むか、堕(お)ろすか」 「――堕ろす、って……赤ちゃん、殺すって、こと……?」 「……そうだね」  蒼白だった顔が、さらに紙のように白くなるのがわかった。  希早の身体が小刻みに震える。  一斗と違って希早は優しい。ならば、なんと答えるかなど考えなくともわかっていた。 「――できない。殺すなんて……できない」  希早の顔を見れば、先刻までの問題などもう彼方(かなた)へと飛んでしまっていることは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。  一斗は希早の意見を肯定(こうてい)するかのようにその髪を撫(な)でた。希早に触れない約束は、もうすでに破っていた。躊躇(ためら)いなど覚える必要はない。  一斗の目に、トランプの一番上に乗った、裂(さ)けた口で笑う悪魔のカードが映った。そのカードは希早にとっての一斗に他ならなかった。  上辺だけの言葉が恐ろしいほどするりと唇から零れ落ち、希早に降り注ぐ。 「でも、産んだら希早が困るよ? まだ学生だし、お母さんにはなんて思われるかわからない。それでも?」 「――っ」 「ねえ希早、お願いがある」  揺らぐ眼差しに映る自分を満足げに覗き込んで一斗が告げる。自分がジョーカーならば、希早が引くように仕向けるだけだった。ババ抜きは、希早との勝負の中でも不敗を誇(ほこ)る、一斗が最も得意とするゲームだった。 「もしお腹に子どもがいたら、俺にちゃんと責任を取らせて欲しい。俺はその子の父親になりたいんだ」 「で、も……七波も、困る。まだ高校生なのに、父親なんて――」 「俺は希早と生きていければそれでいい。希早は俺と共に歩むのはいや?」  出会ってからこれまでの間、積み上げてきた信頼を確信して一斗が問う。 すべては計算で、その答えはいつも一斗の思いのままに返されてきた。  希早は迷いの末に、誘惑(ゆうわく)の手招きに誘われて一斗(ババ)を引いた。  一斗は思う存分に希早を両腕に抱き締めた。  ようやく求めていた温もりが手中に転がり込む。  希早に合わせて随分(ずいぶん)遠回りをしてしまったが、これからは望んだ道を進むことができる。 一斗は声に出して笑いたい気持ちをぐっと堪えてその腕に力を込めた。                 * 『お願い、ある。希早のしゃべり方、直して』  そう言ってきたのは、翌日のことだった。  希早は、いつになく真剣な面持ちで懇願(こんがん)してきた。 『希早、は……ちゃんとした大人に、なりたい。変わりたい、だから――』  それは母親になる自覚とも取れる言葉だった。周囲の耳を気にしてはっきりとは言わなかったが、それは初めて見せた希早の意志。  一斗は一も二もなくそれに頷いた。  自分たちの未来に必要なことなら、何を差し出しても叶えてやるつもりだった。  希早は性急に進歩を求め、期限を一週間と告げた。  そんなに急がなくてもいいのではないかと言ったが、希早の意志は固かった。  二人はこれまで戯(たわむ)れだけに費(つい)やしていた時間のすべてを、言葉遣いの特訓に当てた。  元々聞いたことは一度で覚えると言った希早の飲み込みは早かった。  基本的な会話はもちろん、敬語は二重敬語の落とし穴に躓(つまづ)くことなくしゃべれるようになり、クセとうっかりを抜かせば一斗よりも完璧な言葉遣いを操(あやつ)り、意識すればアナウンサー顔負けの話し方までマスターしてしまった。  そうして過ごした六日目。  春も近付く温かな西日に微睡(まどろ)んでいた放課後。 トン、と机が叩かれる音に一斗は目を覚ました。 ベージュのカーディガンの袖(そで)に視線を上げる。 「……希(き)早(さ)?」 「七波に話があるの」  言葉遣いの特訓の合間に練習していたぎこちない微笑(びしょう)――と呼べないこともないもの――を浮かべて希早が空いた前の席に座る。  どこか明るく見える表情。向けられた視線になぜか胸がスッと冷えていくのを一斗は感じた。 「なに?」  輪郭(りんかく)のない不安が胸を襲(おそ)う。  転寝(うたたね)の前、希早はどこへ行くと言って教室を出て行った?  表情を強張らせる一斗とは対照的に、希早は久し振りに一点の曇りもない顔で告げた。 「やっぱり、送辞は希早が――わたしが、読ませてもらうことにした。久住くんにちゃんと謝って、了承(りょうしょう)をもらったの。怒られても、叩かれてもいいから、もう一度読む権利を返してもらおうと思って。それがわたしなりの、誠意(せいい)だと思ったから。久住くん怒っていたけど、わたしが送辞をきちんと読めるくらいの練習を積んできたって認めてくれて――握手(あくしゅ)もしてくれた。仲直り、ちゃんとできたの。これも全部七波のおかげだよ。ありがとう」  行き先は――そう、どこかの教室と言っていたけれど、それは涼のいる特別進学クラスだった。なぜ、そんな大事なことを聞き洩(も)らしていたのか。  連日明け方になるまで希早のために教本を作っていて、思考力が低下していたのかもしれない。  握手を交わしたといったその右手を、希早が嬉しそうに胸に抱き締める。  あまりの衝撃(ショック)に、一斗は声が出せなかった。  言葉遣いを直したいといった本当の理由は、明後日行われる卒業式の送辞を読むため? では、この六日間のすべては涼の尊厳(そんげん)を守るためだけに必死になっていたというのか。  ちゃんとした大人になりたい。  そう告げた希早の言葉は嘘?  ――違う。初めから送辞を読む意味を含めて希早はそう言ったのだ。  希早は嘘を吐(つ)いたりなどしない。ただ、一斗自身がその言葉の意味を取り違えたのだ。  心が他のことに囚われ高揚(こうよう)していたから――。 「あとね」  希早はどこか恥ずかしげに頬を染めて言った。 「生理、来たの」  聞こえているのに、何を言われているのか一瞬理解できなかった。  今、希早は何と言った? 「――いつ……?」 「三日前。一生懸命言葉遣いの勉強をしていたから、言うの忘れてて」  本当の意味で声が耳に届いた瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。  一斗は身を折り曲げると、両手でクシャリと前髪を握(にぎ)り込む。 「七波(ななみ)、どうしたの? ホッとした?」 「……違うよ。その逆」 「逆って?」  喋(しゃべ)り方が変わってもその心根は変わらない希早が、心配そうに一斗を覗き込む。一斗は混乱した感情の中にあっても唯一はっきりとしたたった一つの感情を、希早の手首と共に掴んで顔を上げた。  合わさった瞳が怪訝(けげん)な色に染まる。  無邪気(むじゃき)なその表情(かお)に、一斗は心がどす黒く塗(ぬ)り潰(つぶ)されていくような錯覚(さっかく)を覚えた。  一斗の右手が、細いその首に絡(から)みつく。  怒りで視界が眩(くら)む。  もう関わらなくていいと言ったのに。  久住が傷付こうが怒ろうがどうでもいい。  希早が――希早さえ自分のものになればそれで良かったのに――。 思い通りにならない現実を否定するように、指に力を加える。 「――苦、しい」  掠(かす)れた声にピクリと耳が動く。  ――苦しい?  そう、自分も苦しい。苦しいのだ。  心臓を直(じか)に握られたようなジクジクとした痛み。  希早を想って想って……なのに、希早は自分一人だけを見てくれない。  胸が苦しくて、希早が許せなくて――憎(にく)らしい。  どこかに閉じ込めてしまえば心は安らぐのか。希早を孤独(こどく)に引き戻せば自分だけのものになるのか……。  久住も善治も、クラスメイトたちもすべて希早から切り離して希早の世界を創(つく)り変えれば、こんな気持ちにならなくて済むのだろうか。それとも、希早さえいなければ――?  「なな、み――」  絞(しぼ)り出された希早の声に、一斗がギクリと顔を強張らせる。  腹の底から湧き上がってきた嫌悪感が、瞬きと共に掻(か)き消える。  自分は、いったい何を考えて――。  希早の細い首にくっきりとした指の跡(あと)を見て、顔色を蒼白(そうはく)に変える。  後退(あとずさ)ったとたん椅子が踵(かかと)に当たり、派手(はで)な音を立てて倒れる。 希早が噎(む)せ返るのと同時に、一斗は弾(はじ)かれるように教室を飛び出した。  振り返る誰もを置き去りにして廊下を抜け、校舎を飛び出る。  闇雲に駆けて、駆けて――。  気付けば、校舎から二キロも離れた大通りに出ていた。  車の喧騒(けんそう)と振動が一斗の世界を現実に立ち返らせる。  一斗は切れた息を詰まらせると、咳(せ)き込んで身を折った。  熱が身体の芯(しん)だけを燃やし、汗を吹き出させる。  一斗は上着のボタンを解き放つと、手のひらで額を拭い髪を掻(か)き上げた。  冷たい空気が頬を撫で、先程までの焦燥感(しょうそうかん)が解(ほど)けていくように和(やわ)らぐ。  こんなに全力で走ったのはいつ振りだっただろうか。  通行人が一斗を横目に見ては通り過ぎていく。  制服のまま汗だくになっている学生が不審(ふしん)に映っているのだろう。  一斗は歩道の端に身を寄せると、壁に寄りかかって息を吐いた。  陽が傾き、夕闇が迫(せま)っていた。  手にはコートも鞄もなく、電車に乗る定期さえ持ち合わせてはいなかった。 学校には……戻れない。  すぐにでも弁明(べんめい)しに行きたいが、そうできるほどの余裕は今の一斗にはなかった。  選択できる道は家へと帰ることだけ。  家は隣駅で、歩けば一時間と少しほどの距離がある。  道は――なんとかわかるだろう。  帰っても鍵はないが、今日はそれほど遅くならないと父親が言っていた。きっと八時か九時には帰って来るだろう。それまで近くのコンビニで時間を潰(つぶ)すか、五百メートル先の図書館で時間を費やすかすれば暖(だん)は取れる。  一斗はそこまで考えて――黒い塊(かたまり)のような息を落とした。  明日のことを思うと気が重かった。  これから希早にどう接すればいいのか。  家に閉じ籠(こも)れればいっそ楽なのだろうが、この歳で世捨て人を気取るつもりはない。  これまでは恋だの愛だのを横目に鼻で笑っていた自分が、今になって笑われる立場にあることを自覚してしまった。――いや、笑えるだけならばまだマシだろう。我儘(わがまま)な想いが暴走して愛しい者を自ら傷付けようとするなんて、悪辣(あくらつ)にもほどがあった。  さすがの希早でも、首を絞(し)めるなどという暴挙(ぼうきょ)を許すはずがない。不信も不審も感じたはずだ。  一斗は傍(かたわ)らに見える未来に唇を噛(か)み締め、深く瞼(まぶた)を閉じた。  思い通りにならない恋がこんなにも苦しいなんて知りもしなかった。  過去、一斗に告白してきた少女たちは断られてどんな思いをしてきたのだろう。  上手にかわしてきたと自分では思っていたが、成就(じょうじゅ)しない恋に傷付かない者はいない。  育(はぐく)んできた大切な恋心(おもい)は簡単に忘れられるようなものではないのだ。  彼女たちはどうやってこの痛みを乗り越えていったのか。  時が癒(いや)すのか、新たな恋が思い出へと変えていくのか。  ――自分は彼女たちのように強く在れない。  そも、穢(けが)れた一斗が純粋(じゅんすい)無垢(むく)である天使に焦(こ)がれ、手に入れようとしていたこと自体が間違っていたのだ。  希早と出会って、偽りの自分を演じることの本当の理由に思い至ってしまった。  これまでずっと考えないようにしていたこと。  多感な時期に母親を亡くし、残された家族とバラバラな生活を強いられてきた日々。 父の助けとなるために料理も覚え、洗濯(せんたく)もして、買い出しも買って出た。  一斗とて普通の子どもらしく欲しい物もあったし、遊びに行きたい場所もあった。けれど日曜日を迎える度疲れ果てて寝ている父親に我儘(わがまま)など言えなかった。  仕方ない、生きていくためだから――そう何度も自分を納得させてきた。  義兄(あに)が欲しいと言って再婚を後押したのは自分。  一斗に対して関心を持つことのない、クールでとても優しいとは言えない義兄。昔は勉強を教えてくれることもあったが、中学に上がった頃にはほとんど顔を合わすことはなくなった。  嫌いではない。だが……いつの間にか歩み寄ることを諦めてしまった。  一斗が家で笑わなくなったのはいつからだったか――。  平気な振りをしながら、良い人間を演じながら、静かに歪み続ける自分を育んできた。  誰かに必要とされたいと願いながらも、距離を置いたのは一斗自身。  ――自信がなかった。  本当の自分はきっと誰にも愛されない。  ずるい自分など誰も受け入れてくれない。  「良い人」を演じなければ、嫌われてしまう。誰かに――。  個を見もしない自分がただ周囲の人間に気に入られることだけを考え、一人にならないことを求めた結果が今の一斗だった。  人を観察し、満足する言葉を探り、輪の中に居場所を作って――それでも心の中では壁を築いて、深くまで踏み込ませないようにしていた。  それが「良い人」を演じるための条件だとでも言うように……。  ――だが、希早と出会った。  繕(つくろ)うことなく、ありのままに在る少女。残忍な自分を見せても、ずるい自分を見せても、離れずに傍にいてくれた初めての少女。  希早の傍にいれば安心できた。嘘を疑う必要も、言葉の裏に隠された醜(みにく)い下心を探る必要もありはしなかった。それでも「良い人」をできるだけ表に出してきたのは嫌われたくなかったからに他ならない。  まさか、自分が嫉妬(しっと)に足を掬(すく)われるとは思ってもみなかった。  ――過ぎてしまった時は悔(く)いることしかできない。  自分の言った言葉が跳ね返って来るとは……もう笑うしかないではないか。  泣きたい気持ちで一斗が天を仰(あお)ぐ――と、頭上で細く長い鳴き声がした。  視線を向けると、塀(へい)の上で猫が欠伸(あくび)をするのが見えた。 目が合うと猫は逃げるでもなく、茶と白の混じった毛を撫(な)でさせてやらんこともない、とばかりに一斗に身体を向ける。  ふてぶてしい猫の態度に、一斗は力なく苦笑を浮かべた。  多過ぎる欲求への制御もできず頭を悩ませている自分がひどく愚(おろ)かしく思える。  猫からすれば幸福など、こんなふうにのんびり生きるだけ充分なのだろう。  放課後にただトランプをして楽しむ。それだけで幸せだと感じられればよかったのに……。  猫が再び甘える声で一斗を呼ぶ。  ――まったく、人の気も知らないで。  一斗は溜め息と共に肩の力を抜くと、仕方なく猫の要望に応えようとした――とたん。  横腹に飛び込んできた重い衝撃(しょうげき)に、一斗が突き飛ばされる。 「――なっ!?」  驚く声に猫が共鳴して壁の向こうへとジャンプする。  不意のことに一斗は踏み止まれず、勢いそのままに歩道へと倒れ込んだ。 「痛(い)つっ」  後頭部を打ち、眩暈(めまい)が一斗を襲(おそ)う。  何が起こったのか全くわからなかった。  角を曲がろうとした自転車にでも追突(ついとつ)されたのか。だが、金属の塊(かたまり)のような硬い衝撃(しょうげき)ではなかった。  身体の上に圧(の)し掛かる何かがむくりと身を起こし、一斗の上に影を落とす。  薄っすらと開けた視界に、ぼんやりとベージュのカーディガンが映った。  誰、と認識するよりも早く間近で叫声(きょうせい)が響いた。 「七波っ!」  高く響く愛しい声に一斗はぎょっとして身を固くした。  いつの間に追いついたのか。  同じように汗だくになった希早が半泣きで一斗に食ってかかる。 「なんで怒ったの? ちゃんと理由を言って!」 「希早、離れ――」 「ずるいよ、七波! 希早には悩み言わせたくせに、自分は言わないで逃げて。希早だって七波の悩み聞けるよ! 希早が七波に頼った分くらい、希早を頼ってよ!」  胸倉を掴む震える手に、一斗は場違いにもおかしな感動を覚えた。  希早に「怒る」などという感情が生まれていたなんて、ちっとも気付かなかった。出会った頃は何の感情も表に出ない人形のような少女だったのに。  今もまだ笑うことはないが、それでも感情に起伏(きふく)が出てきたことがひどく嬉しかった。「……希早、本当に、感情豊かになったね」  額に張りついた前髪を一斗の指先が払い――その温もりにぎょっとしてすぐさま指を引っ込める。 「ごめんっ、触(さわ)っちゃいけなかった」  今さらながらの約束に、希早がふるふると首を振る。 「そんな約束、希早だってもう破ってる」  希早の身体は、一斗の指先の比ではなく一斗に触れている。  シャツを掴んだ手は、死んでも離さないというようにがっちりと一斗を捕えていた。  一斗からは伸ばしても、希早から伸ばされることはないだろうと思っていたその手。  先刻まで感じていた暗い想いが不思議なくらいに吹き飛んで、真っ新(さら)な風が胸に吹き込んでくる。 「……希(・)早(・)?」  先日まで幾度も注意していた幼稚な自己表現を指摘すると、希早は反射のように慌(あわ)てて言い直した。 「――わ、わたし!」 「よく、できました……」  習慣になった褒(ほ)め言葉に、希早がくしゃりと顔を歪(ゆが)ませる。それはどこか泣き笑いに似て――。 凝(こご)っていた一斗の顔が温もりを得たように自然と笑みを零(こぼ)した。 「希早、そろそろどいて? これじゃ立ち上がれないよ。皆、見てるし」  道のあちらこちらから、二人を窺(うかが)う視線が飛んでくる。  ケンカなのか、痴話(ちわ)ゲンカなのか、判断しかねているのだろう。または、単なる好奇心(こうきしん)か。  どちらにせよ、このままここで押し問答(もんどう)するわけにはいかない。 「希早?」 「七波が怒っている理由教えてくれたら退(ど)く。だから、言って」  ……怒っている?  改めて言われ――得心がいった。  罪悪感が先に立って影を潜(ひそ)めてしまっていたが、自分は確かに腹を立てていた。希早に。けれどそれは八つ当たり以外の何者でもなく、自分だけのものにならない希早にただただ不満をぶつけたというだけ。  希早は一斗の嫉妬(しっと)という狂気(きょうき)に襲われた被害者だった。  あのまま手に力を込め続けていたら、今頃取り返しのつかないことになっていた。  首元を見れば、未だに赤く指の跡(あと)が残っている。  一斗は己の罪を認めるように瞼(まぶた)を伏(ふ)せた。 「……いいんだ。さっきのは俺が悪い。首、苦しかったよね? ごめん」 「違う! さっきのはわたしが悪かったんだよ! もう誰も傷付けたくないのに、わたしが鈍感なせいで七波を傷付けた。だから、七波は怒っていいんだよ!」 「希早――」 「本当のこと言って! 聞くから。わたしは七波と仲良くなれてよかったって思ってる。父親になるって言ってくれて、嬉しかったの。わたしは七波が好きだから。もう、後悔(こうかい)したくない!」  立て続けに捲(まく)し立てられ、急に不器用になったかのように一斗が口を開閉する。  何を言いたいのか、頭が真っ白で何も浮かばなかった。  信じられないことに、ずっと欲していたものが――答えが、一斗の望むままにそこにあった。 「――嘘だ。そんなわけ、ない」 「何が嘘なの? 希早は嘘なんて吐(つ)いてない!」  すぐに戻ってしまう名前呼びが、一斗の心を温かく擽(くすぐ)る。 「……俺のこと、怖くない?」 「怖くないよ」 「本当に?」  試(ため)すようにその指を顎(あご)にかける。  希早は揺らぐことなく一斗だけをその瞳に映し出す。 「俺が、希早に何したいかわかる?」 「ううん」 「キスしたい」 「――え?」 「逃げないならこのままキスする」  もう誰が見ていても構わなかった。希早は一斗に想いを返してくれた。好きだと言ってくれたのだ。それが例え一斗と同じ恋情ではなかったとしても、構う気はなかった。  一斗の宣言に希早の唇は何かを告げる気配はなく――だが、気付いた時にはその温もりは一斗の唇に音もなく触れていた。 「――っ!?」  希早からの、キス。  心臓が一際大きな音を立てて飛び上がる。  ――ふいを突くにも、程がある。  こちらからすると言ったのに。  もうこれ以上理性を抑え込んでなどいられなかった。  一斗は溢(あふ)れ出す欲望と共に希早の身体を抱き寄せると、その唇に野獣(やじゅう)のようにかぶりついた。  第三者であればきっと同情さえしていただろう。息を吐く間など与えず、吸う空気さえむしゃぶり尽くして口付ける。  正気を取り戻したのは、抱えていた希早の身体が崩れ落ちた時だった。 見下ろすと、希早は一斗の胸元で新鮮な空気を求めて必死に喘(あえ)いでいた。  夢ではない、温もり。 「……苦しい?」  乱れた息の中、なんとか希早が頷く。 「今度こそ俺のこと嫌いになった?」  希早の想いを信じたい。だが、「優しい一斗」は単なるまやかしでしかない。  本性を晒(さら)せば離れていくかもしれない。  「好き」も「嫌い」も不安定な感情だ。  人は見せた面によって容易く手のひらを返す。  純粋で真っ直ぐな希早ならば余計に、見せたままの一斗を受け止めるだろう。子どもと同じように、善悪を分けて個々と考える。きっと今の一斗は希早にとって「悪人」に映るだろう。  それでも、希早には本当の一斗を見て欲しかった。 「撤回(てっかい)するなら今だよ。俺は希早の思うような優しい人間じゃない。逃げるなら――」 「――がう!」 「え?」 「七波、やさ、しいっ! ――じゃ、な」 「なに? はっきり言ってよ」  希早が苦しんでいるのをわかっていて一斗が催促(さいそく)する。 自分が希早だったら、絶対に受け入れたりしない。けれど――。 「――き、らい、じゃ、ない」 「え?」 「――じ、わる、だけ、ど……嫌い、じゃ、ない、よ。いじ、わるな七波も、優し、七波も……同じ、七波、だもん。七波のこと、全然わかって、ないかも、しれないけど――ちゃんと、理解したい、の。誰に、何を言われて、も……これから、も、傍にいたい、から。こんな気持ち――七波に、だけ、だよっ」  息を継(つ)いで何とか希早が答える。  一斗はおかしなものでも見るように眉を寄せた。 「……希早って、本当はバカなの? こんなことされて嫌いにならないなんて、どうかしてるよ」 「七波の方が、ばか」 「なんで?」 「だって、ずるいん、だもん。希早にばっかり気持ち、言わせて。七波こそ希早から、逃げようとしてる」 「俺は別に逃げてなんか――」 「なら、言ってよ。希早はまだ、七波の気持ち、聞いてない」  希早のくせに一丁前に反論して一斗をドキリとさせる。  一斗は悔(くや)しげに唇を噛(か)むと、この期(ご)に及んで悪態(あくたい)を吐いた。 「どうせお子様の希早には好きも嫌いもわかってないんじゃないの? ここずっと久住のことしか考えてなかったくせに。本当は久住の方が好きなんじゃないの?」 「違う!」 「じゃあぜんじ(・・・)? 希早はあいつとすごく気が合うものね。バカだけど、俺より頼りになるし、誠実だし――」 「好きだけど、七波を好きな気持ちとぜんじを好きな気持ちは違う!」 「どういうふうに?」  すぐに答えられない希早を一斗は嘲笑(あざわら)った。 「ほら、わからない」 「意地悪言わないで!」 「これが俺の本性だよ。今までの俺は嘘の俺。俺はずっと希早を騙(だま)していたんだよ。本当の俺はずるくて汚くて嫉妬(しっと)深(ぶか)くて――本当の俺を希早が好きになるはずなんてない」 「――ずっと考えてたもん。仙石さんに言われて、ちゃんと考えた」 「仙石さんって――」 「前に言われたの。『恋も友情も知らないあんたが何をわかるっていうの!』って。だから、『好き』って意味、辞書で調べた。『気に入って、心がそれに強く引かれ向かうこと』だって。『恋』は『切なくなるほど好きになること』で、『切ない』は『胸が締め付けられて堪えがたいほど辛く思う気持ち』だって書いてあった。希早は、七波が傍にいないと、辛い。七波が辛いと、胸が、苦しい。七波と出会ってから、ずっと七波のこと、考えてる。七波と離れろって言われても、そんなのできない。楽しい時も、辛い時も、傍にいたい。それって、七波に恋してるってことじゃないの?」 「――――」  希早が一斗を選ぶのは雛(ひな)の刷り込み現象のようなもので、選択肢が一つしかないと思い込んでいるだけのことかもしれない。  冷静に考えても、好かれる理由など一つも思いつかない。順番など最初からめちゃくちゃだった。それでも、今希早の瞳に映っているのが自分だということに、胸がこれ以上ないくらいに高鳴っている。  これまで他人に対して築き上げていた分厚い壁が、音を立てて崩されていくのを感じた。  それは動揺と喜びを一遍(いっぺん)に引き寄せるかのようだった。  一斗は希早の頬に手を添(そ)えると、息苦しさと共に想いを吐露(とろ)した。嘘だらけの自分の中に在った、たった一つの真実。 「……希早、好きだよ」  言ったとたん、あとからあとから涙が零れ、一斗の頬を伝い落ちる。情けない顔など見せたくないのに――もうどうにもならなかった。 「希早が、好きなんだ。どうしようもないくらい……」 「希早も、だよ」  一斗の指先が希早の耳に掛かり、二人の距離が再びゼロになる。 『もう死んでもいい』  幸福な人間の口から時折漏(も)れ出る言葉。あんなものは虚言(きょげん)だと端(はな)から信じることはなかったが、今ならその気持ちがわかるような気がした。最も、これが最後になるなど考えたくもないことだったが。  幸せはこれから、なのだ。                * 「七波!」  良く晴れた空の下、卒業生と在校生の入り混じった波を掻(か)き分けて、白のユニフォームを着た善(よし)治(はる)がやってくる。  その姿に、先刻胴上(どうあ)げしていた暑苦しい集団を思い出して、一斗はげんなりとした表情を浮かべた。  卒業式に列席するのはクラスの中でも十人程度でよく、立候補で決まったほとんどの者が部活動の人間だと聞いていたが、善治も例外ではなかったらしい。何が嬉しいのか、満面の笑みで一斗の元までやってくる。  肩には先輩へ贈呈(ぞうてい)した花束の名残(なごり)か、カーネーションの花びらが一枚乗っかっており、それが駆けて来る間に後方へと飛んでいく。  カーネーションの花言葉は確か「尊敬(そんけい)」だったか――。 「なんでお前こんな所にいるんだよ。今日は休みだったんじゃないのか?」  今日の役目を終えたからか、キャップのつばを後ろにかぶり直す善治に対して、一斗は腕を組んだまま素(そ)っ気(け)無(な)く言った。 「休みだよ。俺は希早の迎え」 「迎ええ? お前、ちょっと過保護(かほご)過ぎやしねえか?」 「放(ほ)っとけ」 「良い態度だなあ。最近お前が豹変(ひょうへん)したって、そこら中の女子たちが嘆(なげ)いてたぜ?」  善治の指摘に、一斗は小さく肩を竦(すく)めた。  希早と正式に付き合うことになってから、一斗は自分を偽(いつわ)ることをやめた。  無駄に笑顔を振りまくことを止め、柔らかな物腰を率直なものへと変化させた。それだけ。  一斗にとっては大した変化ではないと思っていたが、周囲への影響は大きく、その反動は想像以上だった。  先日、隣のクラスの少女がわざわざ公衆の面前で告白をしてきたので、一斗は面倒そうに言ってやったのだ。 『あのさあ、皆の目がある所で告白すれば俺が困って断れなくなると計算してこんな所で言ったのかもしれないけど、普通にウザいから。悪知恵働かすことに一生懸命になんないで、ちょっとくらい自分の魅力(みりょく)を上げるために努力した方がいいんじゃない? そんな心根じゃ、誰からも相手にされないよ?』  一斗的には優しくアドバイスをしてあげたつもりだったが、相手はまるでそうは受け取らなかったらしい。  新たな一斗の一面は、瞬(またた)く間に学校中のネットワークによって広がり、その真偽(しんぎ)を確かめる者たちが翌日からわんさかとクラスに押し掛けるようになった。  一斗の今までにない対応に泣く者、呆然(ぼうぜん)自失(じしつ)となる者、見なかったことにする者。反応は十人十色であったが――善治だけは相変わらず無頓着(むとんちゃく)に笑い掛けて来るのだった。 「せっかくモテてたのに、もったいなくないか?」 「別に。俺は希早さえいてくれればそれでいい。他の誰が嘆こうと知ったことじゃない」 「うわー、清々(すがすが)しいほどに冷徹(れいてつ)。お前と付き合うなんて、希早って大物だよな」 「煩(うるさ)いよ。それより希早の送辞、どうだった? ちゃんと上手く読めてたか?」 「ああ、見違えるようだったぜ。お前の努力の賜物(たまもの)だな。でも、希早が壇上(だんじょう)に上がった時異様にざわついてたけど」 「ざわつく?」 「なんつーか……あの髪型、お前が仕込んだのか?」 「そうだけど? 一応式だからそれなりでないと格好つかないと思ってね。それが何?」  容姿にまるで関心の無い希早のこと、適当に櫛(くし)で梳(す)くだけで終わりそうな身支度(みじたく)を懸念(けねん)して、一斗が早朝から希早宅へ押し掛けたのだ。  持参(じさん)したヘアアイロンを当てて整え、長い髪を胸の前に来るよう一つに括(くく)れば、表情や感情に乏(とぼ)しい希早でも幾分落ち着いた女子高生らしく見える。卒業生を慮(おもんぱか)ってというよりは、希早に恥を掻(か)かせないための小細工のようなものだったのだが――善治は煮(に)え切らない顔で明後日(あさって)の方を向いた。 「いやー……」 「なんだよ、はっきり言え」 「いやいや、だからさ――ちょっと余計な仕込みだったんじゃねえかなって……」 「どういう意味だよ」  問い詰めようと一斗が迫(せま)ろうとした時、ふいに前方の一角から大きなどよめきが湧いた。  何が、と一斗がそちらを向くと、昇降(しょうこう)口(ぐち)から調度一人の少女が出てきたところだった。  少女はきょろきょろと首を巡らせ、誰かを探す素振(そぶ)りをする。希早だ。  長身とは言えない一斗を見つけられないでいるのだろう。距離はそれほど離れていないが、いかんせん多くの人間を掻(か)き分けて進むには難(なん)があった。  目立つことは好きではないが仕方がない。  一斗が手を上げ、希早を呼ぼうと口を開いた――その時。  予期せぬ光景に一斗は目を奪われた。  周囲の卒業生、在校生らが一斉(いっせい)に希早に向かって押し寄せたのだ。まるでアイドルの出待ちをしていたファンのごとく。 「な――っ!?」 「うーわ、マジか……」  言葉にならない一斗の隣で、どこか予想していたような口振りで善治が呟きを漏らす。  カメラを向けられ、どうしたらいいのかわからず困惑している希早の姿は、あっという間に人垣(ひとがき)に埋もれていく。 「希早!」 「たんま、たんま。写真くらいいいだろ。せっかくの式なんだから、良い思い出つくらせてやろうぜ」 「良い思い出って――」 「高校最後の青春ってやつだよ。いいじゃん、急に現れた美少女に一目惚(ぼ)れしたって。希早がお前のもんだってことは変わらない事実なんだからさ」 「……お前、まさかあの中に先輩がいるから言ってんじゃないだろうな?」 「いやいや、偶然だって」  やはりいるのか。  目を逸(そ)らしてごまかそうとする善治をギッと睨(にら)む。  今日は希早の晴れの舞台でもある。せっかく送辞が上手くいったのならば、そこに水を差すのは野暮(やぼ)である。わかってはいるが、これまで見向きもしなかった者たちがこぞって希早に集(たか)っている絵図は不愉快極まりない。 「――あのクソ蠅(はえ)ども」 「……お前、日に日に本性表して来るな」 「隠す必要が無くなったからな」  堂々と告げる一斗に、善治は苦笑を漏(も)らした。 「まあいいけどな。前のお前も今のお前も、どっちも面(おも)白(しれ)えし」  思わぬ言葉に意表を突かれて一斗が言葉に詰まる。  このまま本性を晒(さら)していけば、皆離れて行くと思っていたのに――。  そんな思いが顔に出ていたのか、善治はおかしくて仕方がないといった様子で破顔(はがん)した。 「お前さ、友人(・・)をあんま舐めない方がいいぜ? 一緒に居れば嘘か本当かくらいわかるようになる。たぶん、今のお前を気に入るのも俺だけじゃねえさ」 「……この、本能だけの熱血野球馬鹿(ばか)が」 「うーん、言い得て妙(みょう)だな。その新種の通り名」 「通り名じゃない、悪口だっつの」 「――七波」  ふいに背後を取られ、ぎょっとして一斗が振り向く。  そこに居たのは、万年二位男――。 「久住!」 「やっと終わったな。送辞、一度くらいトチるかと思ったが――さすがだった」  意外にも式に列席していたらしい少年は、以前とは打って変わって穏やかな目を一斗に見せた。 「お前も見ればよかったのにな。普段の幼稚(ようち)さが嘘みたいだった。あの話し方を教えたのはお前だろう?」 「…………」  そのことに関しては後悔がある。ゆえに、涼に対して恨み言がないわけではなかったが、晴れやかなその顔を見れば、八つ当たりをする気にはとてもなれなかった。 「送辞、読みたかったのか?」 「ああ、首席を取っていたらな。元々、俺に送辞を読む資格はない」  一斗は思わず舌打ちをした。 「なんだ?」 「むかつくけど、久住の気持ちを一番理解していたのは希早だったな。俺はもう久住に近付くなって助言したのに」  その言葉を聞いて、涼はクッと喉を鳴らした。 「何がおかしい?」 「いや、七波が豹変(ひょうへん)したって噂は本当だったな、と思って。巴を変えたのはお前だろうが、お前を変えたのもまた巴なんだろうな」 「これが元々の性格だよ。……やらないからな。希早はもう俺のものだ」 「その噂も聞いてる。天下の往来で喧嘩(けんか)しながら告白し合ってたって。見たかったな」 「うるせえよ」 「今の七波は年相応だな。以前はやたらすましていて薄気味悪かったが――今のお前は意外に好感が持てる」 「――っ!?」  口端でニッと笑うと、久住は後ろ手に手を振って立ち去った。  あとに残ったのは、無音で腹を抱えて爆笑(ばくしょう)する善治一人。  一斗はそれを不機嫌に横目で見据えると、どすを利かせてぼそりと告げた。 「それ以上笑ったら口利かないからな」 「はいはい。その前に、希早迎えに行ってこいよ。思い出作りもそろそろいいだろ。慣れない猛(もう)アタック食らってあいつ窒息(ちっそく)しそうだぜ?」 「希早っ!?」  いつの間にやら告白タイムに移行していた一団の動きに、一斗が慌てて身を翻(ひるがえ)す。 「まったく、えらい素直になったもんだ」  善治はぽりぽりと頬を掻き――ふと、一斗のポケットから何かが落ちたのを目端に捉えて地面から拾い上げる。  砂を被(かぶ)った面を払うと、奇抜な衣装を纏(まと)うピエロの絵が現れた。悪魔と対になったもう一つのカード。 「ババ、か」  遊んだ後、仕舞うのを忘れてポケットにでも入れてあったのだろうか。  群がる男どもを引っぺがし、中心にいた少女を一斗がその腕に抱き込むのを、善治が遠目に眺める。  ジョーカーはババ抜きでは外れクジだ。だが、他のゲームでは最高の切り札となる最強のカードである。  善治はその落し物を軽やかに胸ポケットへと仕舞う。  笑わない少女は道化師(ジョーカー)を引いて、目に見える成長を遂(と)げた。  道化師(ジョーカー)は実は金のガチョウだったのかもしれない。姫は笑わなかったが、物語と同じように幸福を得た。それはきっとめでたしめでたしで結んで終わる物語。  寒さにかすんでいた空は、いつの間にか春の陽射しに包まれていた。
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