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[1]
僕の眼は、多分おかしい。少なくとも、一般的なそれとは違う。
そう気付いたのは、小学一年生の頃。それまでは、自分が見ている世界は誰もが見る世界と同じなのだと、当たり前の景色なのだと思っていた。
これは誰にも——友達はもちろん、親にも言っていない。
もし言ったら、病院にでも連れて行かれて、検査を受けさせられるに決まっている。
そうして眼の異常が明らかになれば、然るべき治療をし、やがてはみんなと同じ景色を見ることができるのかもしれないけれど、それは嫌だった。
僕が見るこの景色は、決して悪いものなんかではない。むしろ、綺麗だとさえ思っている。
「あ」
まただ。
それは、春の青々とした木の葉たちの間に。あるいは、夏のしとしとと降る雨の中。たわわに実る秋の赤い果実の上。そして冬の凍りつきそうな澄んだ風にも。そういった、自然が作り出す何気ない景色に、時折現れる。
きらきらと輝くその浮遊物たちは、まるで獣が落とした木の実のように、何かの歪な軌跡を描いている。
桜が舞い散る木の下。僕は立ち止まって、音もなく現れた光の粒子——その一つに手を伸ばした。
けれどもそれは手に触れることなく、直前でふっと消えてしまう。
不思議なことに、見えるだけで干渉することはできないのだ。あの発光体が何なのかが、だから調べることができない。
これまで幾度か顔を近づけてみたことがあるけれど、それは発光するフィラメントを見るのと同じで、光源となる物体の本来の姿を確認することはできなかった。
「またやってるの?」
女の子の声がして、僕ははっと我に返る。学ランの袖を正す仕草で挙動を誤魔化して、さりげなく声の方を見ると、知った顔があった。
「何だ、奏か」
僕は必要のなくなった演技をやめて、たった今合流したばかりの幼馴染みに背を向けて登校を再開した。
「何だ——って、何、他人だった方が良かったわけ?」
奏はポニーテールを揺らして僕に詰め寄る。
「こうして、蒼汰に冷たい視線を送れば良かったってわけ?」
アーモンド型の目をわざわざ細くしてみせて、奏は嫌味を言った。
「そんなことまで言ってない」
僕は逃げるように足を早めたけれど、すぐに追いつかれてしまった。
「で、またやってたの?」
これ——と言いながら、奏は物を掴むジェスチャーをした。
僕は何も応えなかった。
「まあ別に気にしないけどね、あたしは。蒼汰のその癖知ってるし。でも他の人から見ると、やっぱり変だと思うよ?」
眼のことは、幼馴染みである奏にも教えていない。
僕の近くにいることが多い彼女には、光に対する挙動を何度か目撃されている。それでも彼女はどうやら、それを少し変わった癖程度にしか認識していないらしい。
「もう中学二年生なんだから。あまり浮いた行動取らないようにね? 小学校から上がってきたばかりの去年とは違うんだから」
奏は大人ぶった口調で言った。
奏は昔から、同い年のくせに僕のことを弟か何かのように扱う嫌いがある。どうも最近ではその態度がさらに悪化しているようで、僕は心底辟易している。
「分かってるよ」
奏に忠告されるまでもなく、これでもちゃんと、人前では光が見えていないように振る舞っているつもりだ。それは誰に言われたでもなく、何となくその方が良さそうだと、子供心に察したのだ。
国語の教師がまた髪を切ったというどうでも良い会話をしていると、朝練をするソフトテニス部の、ボールを打つ小気味良い音が聞こえてきた。
「そう言えば今日じゃなかった?」
学校の正門を越えるなり、奏は唐突に尋ねた。何かあっただろうかと、僕は首を傾げる。
「……何が?」
「転校生だよ。転校生。蒼汰のクラスに来るって、あたしのクラスの先生が言ってたけど?」
「……ああ」
そう言われてみれば、僕のクラスでも担任が言っていた。それがいつのことで、どんな人が来るのかさえ僕は全く覚えていないけれど、転入生が来ることは確かだ。
「ああって……」
奏は呆れたように首を倒した。
「普通気にならない? 男子かな女子かなとか、どんな人かなとか。……カ、カッコイイ人とかだったら……どうするの?」
「別に、どうもしないけど」
意図が解らない問いかけに僕が即答すると、奏はなぜか再びがっくりとする。
「あたしんとこの男子はみんな盛り上がってたよ」
女子もねッと、奏は露骨に強調して付け加えた。
奏の心中の方はさっぱり判らないけれど、彼女の言う通り、普通はそういう反応なのだろう。思えば僕のクラスでも、転入生の知らせがあった時はみんな盛り上がっていた。
「じゃ、また放課後ね。正門で待ってるから」
「ん」
何だか不貞腐れ気味な奏と下駄箱で別れて、僕は上靴に履き替える。
ようやく通い慣れてきた新しい教室——二年三組の扉を開けると、いつもと違った種類の陽気な雰囲気が満ちていた。クラスメイトたちが浮立っている原因は、やはり今日から仲間に加わるという転入生だろう。
僕はそんな彼らを尻目に、自分の席に向かった。
「やあソータ、おはよう」
「ん? ああ」
僕の到着を察知してわざわざ声を掛けてきた彼は、大谷智樹。息苦しさも厭わず学ランのホックまで閉めている通り、形骸化している身形の校則を全て遵守する真面目な生徒だ。智樹とは中学一年の時に知り合い、以来色々と僕のことを気にかけてくれるのだけれど、時折それが奏とは違った鬱陶しさを感じさせる。
僕は適当に言葉を返して、椅子に腰を下ろした。
智樹も一つ前の席に後ろ向きに座る。そこが彼の席なのだ。
「見てたぞ、また藤牧と一緒だったろう」
藤牧とは奏のことだ。
「途中で偶然会っただけだよ」
それを嘘だと見抜いているのか、智樹はクスリと笑った。
「ホント仲良いよな、君たちは。羨ましいよ」
智樹は眉をハの字にして言う。
これは最近分かってきたことだけれど、彼の言う仲が良いとは、その場のノリで交際したり上部だけの友人関係だったりなどではなく、互いを理解し合った仲——少し気持ちの悪い言い方をすれば、濃密な時間を共に過ごした関係を指しているようだ。
智樹からは、僕と奏はそうした仲に見えているらしい。
「転入生、どんな人だろうね」
どう反応したものかと困った僕は、とりあえず話題を変えることにした。
「あれ? 気になるんだ」
意外だと言うように智樹は目を丸くする。
「まあ、少しは」
本当はそうでもない。
「女子らしいよ。豊江中からだそうだ。顔はオレも知らない」
「豊江? 豊江って、豊江市の?」
「そう」
それはまた随分と遠くから来たものだ。豊江と言えば、同じ県内ではあるけれど、こことは真反対の東部に位置する、大きな都市だ。場所がかなり離れていながらも、街の発展具合や雰囲気はこことそう変わらないのに、一体何のために越してきたのだろう。
そんな疑問も交えつつ、大して興味もない転入生の話をしていると、チャイムが鳴り響いた。
チャイムが静まった直後、廊下を歩く二つの影が見えた。手前を歩いているのは、この二年三組の担任の増川文先生だ。もう一人はどうやら女子生徒のようだけれど、既に後ろ姿となっていて顔は確認できない。
二人の姿に気付いたクラスメイトたちから、期待に満ちた騒めきが上がる。やはりあの生徒が噂の転入生と見て間違いないだろう。
二人は黒板側の入り口で一度立ち止まり、何やら言葉を交わしてから、揃って教室に入ってきた。
「はーい、おはようございまーす」
先生のいつも通りの少し砕けた挨拶に、生徒たちはいつもより元気な挨拶で応える。
「はい。まずは、先日お知らせした通り、今日からこのクラスに新しい仲間が増えます」
どうぞ——と、増川先生は隣に立つ女子生徒に自己紹介を促した。
——黒だ……。
星のない夜空のような、深い黒。それが、転入生に抱いた僕の第一印象だった。
その理由は、腰まで下ろした彼女の長い黒髪と、おそらく豊江中の頃のものであろう真っ黒なセーラー服のせい——だけではない。一見物静かな彼女から感じるミステリアスな雰囲気が、周囲に影のようなものを作り出しているのだ。
「マガタヒトミ」
彼女は大人びたハスキーな声で無愛想に名乗ってから、雑な会釈をした。
その瞬間、僕は戦慄した。彼女の前髪から覗く異様な光を孕んだ双眸が、僕に定められていたような気がしたのだ。
そんなことは露知らず、増川先生はカツカツと〈真県仁魅〉の文字を、教師らしい綺麗な字で黒板に書いてみせた。
増川先生は真県さんの性格を既に把握しているようで、名前以外に語らない彼女の代わりに、簡単な紹介をした。
その内容は、ご両親の仕事の関係で——というごく有り触れたものだった。
「それじゃあ仁魅さん。席は廊下側の——」
増川先生は唐突に言葉を止めた。真県さんが、先生の指が示すのとは別の方向に進み出たのだ。
嫌な予感がした。
「あ、仁魅さん、そっちじゃ……」
困惑する先生を無視して、真県さんは一直線に一人の生徒に向かった。奇妙な行動に呆然とするクラスメイトに見守られながら、彼女はその生徒——僕の横でぴたりと足を止める。
「お前」
「……な、何?」
初対面の相手に眼光鋭く睨みつけられ、僕は萎縮した。正直に言うと、怖かったのだ。
「その眼……。視えてるよな?」
「えっ? え……? 目?」
戸惑いながら、真県仁魅の言葉を頭の中で復唱した。そして数瞬後にようやく、僕の眼のこと——つまり奇妙な光が見えていることを言っているのだと理解した。
なぜこの人が眼のことを知っているのか。大きな疑問符が頭の上に浮かんだけれど、それを素直に尋けるはずもない。
何のことかなと、だから知らないふりをした。すると真県さんは、僕を見下ろしたまま鼻で一笑した。
「後で……そうだな、放課後、帰らずここで待ってろ。少し話がしたい」
そう言い残し、真県仁魅は増川先生が言いかけていた空席に自ら腰掛けた。
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