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序章
武州・多摩――。
多摩の地は多くの村が幕府直轄領で、地には甲斐・武蔵国を流れて江戸湾へ注ぐ多摩川と、多摩川から枝分かれした支流が流れている。
そんな多摩川沿いに、道が一本通っている。江戸日本橋を起点として、内藤新宿から甲府へ至る甲州街道である。
既に陽は西へ傾き、八王子からやってくる者はいない。聞いた話によれば、最近このあたりを悪党がウロウロしているらしい。ここから江戸に向かうには多摩川を船で渡るのだが、妙な噂が流れた為か、旅人の多くは昼間のうちに川を越えるか、前の宿場で一泊するらしく、船の船頭が稼ぎが減ったと嘆いていた。
(ここも、物騒になったなぁ)
土手に腰を下ろして頬杖をつくと、彼は川を見た。渡し場では、船頭が煙管を手に休息中である。以前は日暮れ前でも船で川を越える者は何人かいたが、おそらくこの日もろくな稼ぎにはならなかっただろう。
季節は秋、どこかひんやりとした風が、まもなく来るであろう冬を報せている。
あの船頭は、あとどれくらい休息しているだろうか。
彼はすぐ帰るには惜しい気がして、懐から柿を出して一口齧った。
この日、沖田総司は江戸の道場からこの多摩まで出稽古にやってきており、その帰りであった。
客が減れば船も減る。出稽古に来るのはいいが、帰りの足が絶たれると総司もきつい。何しろ出かける前、寄り道せずにまっすぐ帰ってこいと、師から言いつけられた。
師というのは総司が入門した剣術道場の三代目道場主のことで、名を近藤周助という。
流派は天然理心流、江戸は市谷甲良屋敷に試衛館という道場を開いたのがその三代目である。もう還暦近い歳だろうか。
――お前ぇは剣の腕は良いが、妙な癖がある。
総司が外に行くとなると、彼が必ずいう言葉だ。どうも総司という男、興味が湧くと面白がって寄り道してしまうらしい。
総司の父は陸奥国・白河藩藩士にして、江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭で、総司は九歳で試衛館に入門した。
総司は寄り道の癖があるという自覚はなかったが、街道をウロウロしているという悪党を見てみたくなってしまった。ここで悪党を捕まえれば、礼金が出るかもしれない。
(なんせ、うちは貧乏だからなぁ)
道場と言っても門弟は下級武士や農家や商家の出ばかり、床板はそろそろ穴が空きそうな箇所があれば、天井は雨漏り、修繕のことを考えれば悪党退治でもしようかという気になるものだ。
ひと月前も畑を荒らす悪党がいるという噂が道場であり、総司は顔を見てみたくなったことがある。
「やめておけ」
夕暮れ時――、試衛館の裏にある近藤家の庭先で、木刀を振っていた総司は振り返った。
「何故です?」
そこには、こちらに背を向けて肘枕で横になっている男がいた。髪は総司と同じく剃りなしの総髪、ややくすんだ色合いの組み紐で髪を縛っている。立場からいえば総司のほうが兄弟子となるが、年はその男のほうが上である。
「お前は俺たちと違って、大先生の信頼は高い。そのお前まで大先生の寿命を縮めるこったぁねぇだろう」
「大袈裟ですねぇ」
「大先生の怒鳴り声が、俺の部屋のほうまでたまたま聞こえたのさ。あれだけ怒鳴れば当分長生きしそうだが、近藤さんも凝りねぇときている。随分と長い説教をそのあと食らったそうだ」
大先生とは、もちろん近藤周助のことである。
そんな近藤周助の息子にして次期四代目は、名を近藤勇という。聞けば勇は出稽古に行ったのはいいが、かなり酔って帰ってきたという。当然、翌日は稽古どころではない。二日酔いで唸っているところに、大先生の雷が落ちたようだ。
だからやめておけと、男は言う。
師匠である三代目の名を出されると、総司は引き下がるしかなかった。
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