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尾張徳川家は徳川将軍家の分家である御三家の一つで、御三家の筆頭であるとともに、諸大名の中で随一の格式を有しているという。
そんな尾張徳川家上屋敷の目と鼻の先で人が斬られた――、幕府にとっては面目を潰された形になるだろう。
古屋佐久右衛門が襲われた市ヶ谷橋は、夜でも人の往来がある場所である。これまでの人斬りは人気の少ない場所に現れていたが、今回は人目がつく場所で凶行に及んだ。
「ずいぶんと大胆不敵な人斬りですね」
勇の部屋から戻ってきた歳三の元に、総司がやってきて言った。
「クズ野郎に感心するんじゃねぇ」
「感心はしていませんよ。幕府に文句があるなら正正堂堂、訴えればいいんです」
「無理だな。やつにそんな気はねぇだろうよ。悪行を悔いて名乗り出りゃあまだいいが、やつは何度も人を斬っては逃げてやがる。そして今度は幕府を挑発してきやがった。捕まえてみろって、な」
この世に何人、食うに困るほど困窮する浪人や下士(下級武士)がいることか。だがそれでも必死に生きている者はいる。世のせい、幕府のせいになどせずに。
生きていれば楽しいことだけでなく、辛いこともある。人によっては、辛いことが多いこともあるかもしれない。だからといってその憂さで、人を斬っていいことにはならない。
「捕まりますかねぇ」
総司がいう。
「さぁな。近藤さんは怒っていたが、役人でもねぇ俺たちにはそのクズ野郎を捕まえることはできねぇよ。それより総司」
歳三は組んでいた腕をほどくと、部屋に戻った時に拾った竹串を総司の前に突き出した。
「おや?」
「おやじゃねぇ。なんで俺の部屋に団子の串が落ちていやがる? 俺の部屋をみたらし餡だらけにしたら承知しねぇからな! 自分の部屋で食えっ」
「豊玉発句集を覗いているとつい夢中に――」
総司が言い終わらないうちに、歳三は木刀を振り上げた。
「総司っ!!」
だが総司は、そんな歳三の攻撃をひらりとかわした。
「いつからそんなものを用意していたんです? 危ないじゃないですかぁ」
「鼠退治のためだ。こうも早く役に立つとは思っていなかったぜ」
「わたしは鼠じゃありませんっば!」
歳三の攻撃を巧みにかわしながら、総司が逃げ回る。
はたして、さまよえる人斬りはどこで何を想うのか。
それがまもなく厳しい暑さがこの江戸に訪れる、七月の出来事であった。
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