第1話 迷い猫と試衛館の懐事情

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第1話 迷い猫と試衛館の懐事情

 万延元年、二月初旬。その日は朝から冷え込み、(ひる)には雪となった。  江戸・市谷甲良屋敷――、山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に、小さな剣術道場がある。流派は天然理心流、道場の名は試衛館という。  門弟の多くは、多摩の人間が多い。  聞けば試衛館現道場主・近藤周助が多摩郡小山村の出身であったのと、当時は自ら多摩地方に頻繁に出稽古に赴いて、門人を集ったからだという。  今や門弟の一人となり、試衛館に隣接した近藤家に身を置く土方歳三も、そんな多摩の農村育ちであった。豪農の末っ子として生まれたが、武士になるという夢を抱き、ようやく正式入門を許されて現在に至る。  床から起き出して障子を開ければ白く染まった庭先で、三毛猫とたわむれている青年がいた。よくもまぁこの寒空の下、雪の中でしゃがんでいられるもんだと感心していると、青年と目が合った。 「おはようございます。土方さん」 「その猫……、どうした?」 「どうやら野良のようですよ」  三毛猫は白地に茶色や黒が縞になっている縞三毛で、短くて丸い尻尾がついていた。 「飼うつもりじゃねぇだろうな? 総司」 「若先生は、いいとおっしゃってくださいましたよ。でも不思議ですよねぇ。猫は寒がりと聞いていましたが、火鉢の前を陣取っているのは人間のほうなんですから」 「お前の話は、たまにわけがわからねぇことがある。猫の餌まで賄えるほど試衛館(うち)の懐はよくねぇぞ」 「いいじゃありませんか。若先生のお許しはあることですし」  そう言って青年は「ねー」と、三毛猫に同意を求める。  青年の名は、沖田総司という。普段はにこにこと笑っているが、剣の腕は確かだろう。 何しろ総司は九歳で試衛館の門弟となり、周介が「あれは将来、俺を超えるぞ」と言っていたという。  歳三が試衛館に正式入門する以前、初めて総司と木刀を交えたことがある。だが、それまで子供のような笑顔を見せていた総司の顔が、木刀を握った瞬間に変わった。相手を年下と侮っていたわけではなかったが、歳三の木刀ははじかれ、総司の木刀の先が歳三の喉元近くでぴたりと止まっていた。  もしそれが木刀ではなく真剣であったなら――、歳三は今でも考えるとぞっとするのだった。しかし総司の手加減なしの稽古に、門弟の誰もがついてこられるわけではない。  先日、総司が稽古をつけていた門弟の一人が、道場のどこを見渡しても見当たらなかったのである。  総司は「この()の名前どうします?」と聞いてきたが、歳三には猫の名前などどうでもよかった。ただでさえ世間からは貧乏道場と呼ばれ、これから道場の修繕など金が入り用な時に、門弟が減れば入ってくる金も減る。 「やつが消えたぜ」  総司は顔を向けず、猫の喉を撫でながら「誰のことです?」と返してきた。 「お前が昨日稽古をつけていたやつさ。今朝から稽古に来ていねぇそうだ。ありゃあ、逃げたな」 「あれしきのことで、だらしがないですねぇ」 「ガタガタ震えているやつに、本気であたるからだ」 「怖いのなら、はじめから剣術をやろうとしなきゃいいんです」  そう言って顔をあげた総司の表情は冷たい。  総司曰く、稽古場では相手が商家の出だろうと、農民の出だろうと容赦はしないという。はたして彼が真剣を手にしたとき、どんな表情(かお)になるのだろう。  歳三は以前、剣は自身の身を守るのと同時に、大切なものを奪おうとするものから守るためにあると、聞いたことがあった。死の恐怖に怯える己の心に打ち勝ち、相手に向かっていく覚悟がなければただ無駄に死すのみと。  総司がいう若先生こと試衛館次期四代目・近藤勇は、いつから侍の世は廃れたのかと嘆いたことがあった。今の武士は、出世大事。剣の腕より学問と金。そのことをどうのこうのというつもりは歳三にはないが、侍の中には金を得るために、刀をその道具にする者もいる事だ。  歳三は今も、初めて刀を手にした時の重みは忘れていない。いつの日か、自分も大切なものを守るために刀を抜くときが来るかも知れない。そしていざとなれば、人を斬らねばならないことが起きるかも知れない。  ゆえに、今でも腰に差した刀がその重みで歳三に問いかけてくる。  ――お前に、命をかけるその覚悟はあるのか、と。  そんな歳三の眼の前で、庭の枝折(しおり)()が大きく傾いた。雪の重みのせいもあるだろうがその以前から外れ出し、簡単な修繕でそのままにしておいたのだから壊れるのも無理はない。とりあえず今はこのボロ道場をなんとかしないとと、歳三は庭に背を向けた。  吹きさらしの廊下は雪が降ったせいで更に冷たく、素足にはかなりこたえる。もちろん、歳三の生まれ育った実家は農家で、足袋など履く習慣はなく一年中素足だったが、厠まで行くのに長い廊下はない。さすがに冷たい廊下はすぐに慣れたが。
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