第2話 嘘も方便

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第2話 嘘も方便

 西の空に沈んだ陽に代わり、近藤家の中庭を白い月が照らしている。季節は二月半ば、春寒の夜風は肩がすくむほど冷たく、梅の花もさぞ寒かろう。  歳三は、どのくらいそこに経っていたのか。出稽古から帰ってきてそんなに経っていないはずだが、梅の木を仰いでいただけで稽古でかいた汗も冷えた。 (そういやぁ、あのときも咲いてやがったな……)  歳三が初めて試衛館の門をくぐった日――、その日は今より暖かく、梅は七部咲きであ った。  歳三が試衛館に来るきっかけは、勇に誘われたからであった。勇の性格は豪放磊落でお人好しだが、単に来いと誘われただけなら、歳三は試衛館(ここ)には来てはいなかった。天然理心流の剣は、多摩の地にいても学ぶことはできるのだ。果たして勇は、自分が初めてここへ来た時に言った言葉を今でも覚えているだろうか。 「――へっ……くしゅっ!」  思わず出た歳三のくしゃみに、砂利を踏む音が重なった。歳三が後ろを振り向くと、両腕を組んだ勇が口角をにっとあげて立っていた。どうやら勇も出先から帰ってきたらしい。 「梅が咲いたってぇいうのに、今夜も冷えるなぁ。トシ」  夕餉前に酒でも飲むかと勇に誘われ、歳三は梅の木に背を向けた。   「先日、神田に行ったんだってな?」  ほどよく暖まった座敷で、勇がそういって箱火鉢から燗徳利をつまみ上げる。 「は?」 「神田の松寿庵っていう店の蕎麦は絶品らしい」  勇は食べ物の噂には敏感な男で、わざわざ出かけていくことがある。なにしろ勇が出稽古へいけば「若先生がわざわざお越しになった」と馳走が振る舞われるらしく、どこどこのものがうまいという話も聞いてくるようである。 「……俺が神田に行ったと誰から聞いたんだ?」  勇は歳三のその問いが聞こえなかったのか「そうそう、食うか?」と、菓子折りを出す。  それは鶯色の紙にくるまれており、うぐいす餅と書かれてある。  なんでも神田にある菓子処・名月庵の人気菓子らしい。 (あの野郎……)  歳三の頭の中に、一人の人物が浮かぶ。歳三は出かける時は、たいていどこに行くとは告げない。神田に行ったことを隠すわけではなかったが、もう一人、食べ物の噂に敏感な人間が歳三の身近にいた。   歳三の家系に、三月亭石巴(みがつきていせきは)という雅号をもつ人物がいる。本当の名を(ひじ)(かた)(よし)(のり)といい、歳三の祖父である。そんな祖父の影響からなのか、歳三も俳句を嗜むようになった。それは江戸に来てからも続いているのだが、歳三が俳句を嗜んでいることは勇も知らない。 いい句が浮かべば忘れぬうちにと、豊玉発句集(ほうぎよくほつくしゆう)と称した冊子に書き留めてあるが、それを公にするつもりは歳三にはさらさらなく、句の達成感を一人で味わうのが好きなのである。だがいまは、その趣味が明らかにされかけつつある危機に瀕している。  わかりやすい所に句集を置いていたのも悪かったが、部屋にやってきた総司に見られて以来、歳三の部屋には句集を覗こうとする鼠が入る。  数時前も枝に留まっていた鶯を見つけた歳三は、頭にいい句が浮かんだめ文机に向った。紙を敷き墨をすり、さてこれから書くぞと筆先を紙の上においたとき「うぐいす餅、食べにいきませんか?」という総司の声に、思わず筆に力が入った。 俳句の心をそそられたのがいけなかったのか、それとも俳句の趣味を公にされたくないことからの動揺か、紙の上で止めた筆は紙を真っ黒に染めて折れ、歳三は唖然とその様を見つめたのだった。句集に直接書かなかったため墨で真っ黒にならずにすんだが、幸か不幸かいい句と思ったそれは一瞬で脳裏から消え去り、今でもその句がどんなものであったのか歳三は思い出すことはできない。 「近藤さん、その蕎麦屋に行きてぇならもう暫くしてからのほうがいいぜ」 「何故だ?」 「その蕎麦屋、東南の方角だからさ」  今年の正月――、歳三は勇と総司の三人で試衛館近くの神社に行っている。おみくじを引こうという事になり、歳三は末吉、総司は吉、勇は凶を引いた。その勇の引いたおみくじには『東南に災いあり』とあった。  歳三はそういった(たぐい)は信じないほうだが、勇は逆だ。  東南と聞いて勇は残念がったが、彼には四代目襲名という大事が控えている。ここで何かあれば、それこそ試衛館は潰れかねない。 勇の部屋を出ると、三毛猫が「みー」と鳴いて歳三の足元に擦り寄ってきた。 「お前ぇは飼い主のように、おしゃべりにはなるんじゃねぇぞ?」 「みー」とか「にゃー」しかいわない相手(ねこ)にそんなことを言っても無駄だろうが、人の世は、口が災いを招くこともある。人はだれでも自分の身は自分で守れるわけではない。命取りになることさえある。 「あいつなら、そんな心配はいらねぇだろうがな」 「みやぁ?」  歳三の言葉に、抱き上げられた三毛猫が首を傾ける。  沖田総司――、試衛館随一の剣才。思えば、抱いた三毛猫と総司は似ているかも知れない。甘え上手で、いざとなれば牙をむく。  この時刻、彼がどこにいるのかは見当がつく。  向かう先は近藤家の炊事場で、歳三の予想通り総司は釜の前にいた。土間の上がり框に腰を下ろし、頬杖をついて眺めている。  釜の前では着物袴の男がたすき掛けをして、鍋の蓋を開けて味見をしていた。  いつもなら飯炊きの小者がいるが、風邪で来られないらしい。そういうときは、門弟の一人である井上源三郎が炊事場に立つことがある。歳は歳三や近藤勇よりも五歳上、試衛館では最年長だろう。彼も多摩出身で歳三とは実家が近い。  源三郎が炊事場に立つと言ったとき、歳三は「門弟のあんたがそんなことをしなくてもいいんじゃねぇか?」と言ったが「出来る者が、出来ることをすればいいんだよ」と源三郎は言った。人は一人では生きられない。助け合い、支え合って生きて行くのだと。  試衛館が今まで潰れずにあるのは、彼のような人物が周りにいるからだと歳三は思った。 「井上さん、今晩のおかずはなんです?」 「いいめざしが手に入ったし、あとは菜っ葉の味噌汁かな? それより総司、きみがかわいがっていたあの猫はどうしたんだい? 確か名前は……」 「みーくんですか?」  どうやら、三毛猫の名前は「みーくん」とついたらしい。  源三郎が振り向き、歳三が立っているのを見たその表情は笑顔と困惑が混ざったものだった。総司はそんな源三郎の表情が不思議に思ったのか、ようやく振り返った。 「土方さんも、お腹が空いたんですか?」 「源さんっ、こいつを預かっといてくれ!」 「え……、い、いいが……」  胸元に三毛猫を押し付けてきた歳三の勢いに、普段はおっとりとしていて、陽だまりのような源三郎の顔が困惑の笑みを浮かべる。 「総司、話がある。ちょっと来い」 「えー、これから夕餉ですよぉ」 「いいから来いっ!!」  実力行使とばかり、歳三は総司の片耳を引っ張った。 「痛ぁーっ! 土方さんっ、耳!! 行きますって! だからそんなに引っ張らないでくださいっ。ねぇ? 聞いてます?」  総司の抗議は、近藤家の裏庭に行くまで続いた。
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