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――人が斬られた。
この類の話は、今に始まったわけではない。開国から数年、異人襲撃は未だ収まらず、それだけならまだしも、商家の人間からはては武士まで、何者かに斬られるという事件が多発している。
話を聞いてみれば、下手人は武士らしい。場所は神田、襲われたのは増田屋という廻船問屋の主で背後から斬られたらしい。
「まったく物騒な世になったもんよ。その人斬り、まだお縄になっちゃあいねぇらしい。夜中怖くて、酒も呑みにいけねぇ。早く捕まえてほしいもんだ」
衝立越しに聞こえてくる会話に、歳三たちは無言だった。
総司は蕎麦を黙々と啜り、歳三は杯を口に運んでいた。
(とんでもねぇ、八幡参りだ……)
できれば物騒な話はこんな日に聞きたくなかったが、といって聞かなかったこともできない。
――いったい侍の世は、いつから廃れたのか。
歳三は、勇が以前に嘆いた言葉を思い出していた。
金を得るために、刀で人を斬る侍がいる。己の欲で刀を穢す者がいる。己の愚かさを人のせい、世のせいにして罪を犯す侍がいる。
(俺がなりてぇのは、そんな武士じゃあねぇ)
子供の時からなりたいと思った武士。それなのに江戸へ来てからは、誰が斬られた襲われたと、侍絡みの話が嫌でも耳に入ってくる。
――奴らは、忘れちまったのさ。
勇が嘆いた時、歳三はそう答えた。
侍の子は元服した時、最初に切腹の作法を学ぶという。刀をもつとはどういうことか、教えられるという。人は、犯した過ちは償わなければならない。それが町人であれ、侍であってもである。
なのに、だ。人を己の欲で斬ったという侍は、今も逃げている。己の悪行を悔い改めることもせずに。
彼らは忘れてしまったのだ。初めて刀を手にした時の、その重みを。歳三には、今もはっきりと刀の声が聞こえるのに。
刀を抜くとはどういうことか、抜くことに正しい理由はあるのか、そして責任は己で取れるのかと問いかけてくる声を。
蕎麦屋を出れば、総司はいつもの彼に戻っていた。
「総司」
「なんです?」
「いや……、なんでもねぇよ」
総司は首を傾げたが、歳三はなにもいわなかった。
「ねぇ、なにを言おうとしていたんです? 土方さんってばー」
「うるせぇ、お前は子供か!」
「逃げるなんてずるいですよぉ」
追いかける総司から逃げながら、歳三は腰の刀を触った。そして――。
(お前を抜く時は、俺も覚悟を決めねぇとな。真の武士になった時に)
歳三はそう刀に語りかけた。
それが八幡詣での帰りに聞いた、人斬りの話である。
ゆえに、そのあと神田にでかけた。痕跡など残っていなかったが。
何も起きなければそれに越したことはないが、否定するもう一人の自分がいる。
人斬りは、また現れると。
「人斬り、いませんね」
「相手は人斬りだ。そうすぐに出会えるもんじゃねぇよ。ま、血の匂いでも漂わして歩いていたら別だが」
そのとき妙に生暖かい風が吹き抜けて、一人の浪人が二人の横を通り過ぎていく。
「――!」
一瞬香った匂いに、歳三は振り返ったがその男はもういなかった。
(今の男……)
「どうしたんです? 土方さん」
「総司、どうやらお前の期待に応えてくれたみたいだぜ」
「まさか、今の――」
「一瞬だが嫌な匂いがした」
それが血の匂いかどうかはわからないが、歳三は子供の頃から鼻と勘は良かった。
せめて顔を見られたら良かったが、歳三の勘はあの男がその人斬りだと告げている。
体にそれだけ血の匂いを染みこませているのなら、彼はどんな理由でどれくらいの人を斬ったのか。
見上げた空からは、なんの答えも返っては来なかった。
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