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屋根から屋根、通路から通路へと飛び移り、大小様々な建物の屋上を風を切って翔ける樹。
九龍の街は信じられないほど入り組んでいて、内部はさながら気の向くままに線を引いた迷路のようになっている。
十数階という高さの建造物が所狭しと立ち並んで、四方を壁に囲まれ陽の光が届かない家や道もある。
階段を上っていたかと思えばいつの間にやら下っていたり、真っ直ぐ進んだはずなのに同じ広場に出てしまったり。
慣れてしまえばそんな迷宮もどうってことないが、目的地によっては下道を行くより階上を突っ走って進んだ方が早い事が多々ある。
【東風】から【宵城】へもそうだ。スラムの側から花街の端まで普通に向かえば30分はかかるところ、建物の上を通って行けば10分足らずで到着できる。
立ち並ぶ違法建築の屋上を駆け抜けるのはもはや樹にとってはお決まりのコースだった。
花街が近付き、だんだんとネオンが見えはじめる。あちらこちらから縦横無尽に伸びる、漢字やロゴを各々思い思いに配したキラキラ光る看板。
その中でもひときわ目立つ大きなサインを掲げる店が【宵城】だ。
他の建物から完全に独立しており、半ば城のような外見をしている。輝くその姿はまさに‘不夜城’。
樹は裏側のマンションから【宵城】の外壁へと飛び移り、手摺や小さな取っ掛かり、配管や室外機等を足がかりにしてテッペン近くまでトントンと素早く天守を登った。
そして辿り着いた朱塗りの露台。
軽く足を振って靴についた水を払いながら、目の前の小窓をノックする。
「樹…お前またここからかよ」
声と共に窓が開き、着物を着崩したくわえタバコの男──猫が顔を出した。金髪と丸メガネに少し雨の雫が落ちる。
「正面玄関、入りづらいんだもん」
樹は肩をすくめて答えた。
【宵城】の1階にある入口はこれでもかというくらいネオンで装飾されていて、女の子達のセクシーなパネルが立ち並び、ロビーは常に客で満杯だ。
猫はだいたい最上階の自室に居るので、直接そこに来たほうが楽だし早い。───正規ルートでは全く無いうえに、身軽な樹ならではの方法だが。
「まーいいけど。菓子食う?」
「うん。あ、ちなみに東の分ってある?」
中に入れよと顎で示しつつ言う猫に樹が問うと、猫は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「は?ある訳ねぇだろ」
ある訳なかった。
樹は靴を脱いで部屋に上がりフカフカの絨毯に腰をおろす。ラメ入りで虎の形…金運がアップしそうな感じがする。
虎の毛並みを撫でて楽しみながら出されたお菓子をモグモグ頬張っていると、猫が写真を3枚テーブルの上に置いた。
2枚は幅のある首輪をつけた太った猫の写真。東が言っていた迷子の猫だろう。残る1枚は女性。
「誰?」
お菓子でいっぱいの口のままの樹が疑問を投げかければ、猫は眉間にシワを寄せタバコの煙を吐き出しながら答えた。
「猫と、飼い主。東から聞いた?」
「猫の事は聞いた」
「行方不明なんだよ、飼い主も」
猫の話によれば、おとといこの飼い主、つまり猫の店の従業員の女性から、猫が居なくなったと相談を受けた。
その女性は相当焦った様子だったという。なので、一緒に探してやる事にした。
「だけど、昨日から連絡つかねぇんだわ。今日出勤日なのに店にも来ねぇし」
指で写真をトントンと叩く猫の声から、怒りは感じ取れなかった。無断欠勤したとて叱責はまず理由を聞いてから…なにかやむを得ない事情によるのかも知れない。
表情には出さないが‘心配’が先に来ているのだろう。猫が従業員に慕われる訳合いはここにある。
樹も写真を見返す。特に黒い問題を抱えたりはしていなさそうな、至って普通の女性。
だがここは九龍、全てが狂っているような街。表面だけ目にした所で本質的には何もわからないのだ。
菓子を食べる手を止めて、樹は写真を手に取り口を開く。
「家とかは?」
「他のヤツに見に行かせたけど、誰も居なかったんだってよ」
「家の場所どこなの」
「新興楼あたり。これ、住所」
そう言って猫は樹に走り書きのメモを寄越した。
新興楼なら遠くはない。路地を通るとややこしいが、屋上を走れば5分といったところか。
「別に行かなくたっていいぜ樹。こうなったらもう猫探しじゃねぇし」
「んー…」
樹は少し思案した。
でも、いつもお菓子の恩がある。
「でも、いつもお菓子の恩があるから」
思ったらそのまま口に出た。猫がケラケラと笑って頷く。
「あっそ。じゃあ頼むわ」
「うん」
外を見ると雨が上がっていた。東の傘はここに置いていこう、どうせまだ【東風】に山程あるし。
猫に手を振り樹は貰った菓子をかじりながらメモに記された住所へと向かう。
更けていく夜の九龍をやんわりと照らす月明かりが、屋上の水溜りに反射していた。
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