ポーキーの唄

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ポーキーの唄

 熊汁サイコはいつでも正しい。そして人望があった。人気があるというのとは少し違う。彼女は物静かで(無口といってもよい)表情に乏しく、何を考えているのかわからないと言われるタイプだった。しかし、むしろその寡黙さによってか、彼女の言葉はいつもゆるぎない真実味を帯びていた。小学生の社会においても、それはかけがえのない資質だった。黙っていることが美徳となるタイプ。彼女はクラスメートたちから一目置かれていた。教師や父兄からも信頼を得ていた。彼女は小六の女子の中では比較的身長が高く、身長が高い女子の中では比較的華奢だった。運動は概ねよくできた。クラスの中心になることはなかったが、クラスの宝だった。  ポーキーと呼ばれる少年がいた。彼は熊汁サイコと同じクラスだった。彼はクラスで最も多弁で、最も軽薄だった。更には乱暴者だった。これらの要素は、小学生の社会において、忌避されるより前にパワーを意味した。ポーキーはクラスの中心的な人物のひとりだった。と言っても、男子九人、女子十人の小さなクラスだったので、「クラスの中心」とは男子のほとんどを指していたのだが。ついでに言えば、ポーキーの家は金持ちだった。彼の親に少しでも教育的な関心があれば、このような片田舎の小さな公立小学校でのびのびと遊んでいることもなかっただろう。ポーキーは頭も良かった。学校の勉強で苦労したことはなかった。しかし、クラスで最も頭が良いのは、誰に聞いても、熊汁サイコだった。  ある日ポーキーがスイッチを持ってきた。話題の新型ゲーム機「スイッチ」。彼の周りに人がたかった。「父さんもゲーム好きだからさ、こういうの手に入れるの、いっつも早いんだよね。発売日ゲットが当たり前って感じ。持ちたい?いいよ、いいけど一応隠して持てよ。女子がチクるかもしれないし、バレたら没収だろ?お前のせいでバレたらまじ許さないから。おい、お前画面触るなよ、わかるだろ普通」そう言ってポーキーは田辺くんの肩を殴った。  ある日ポーキーがレトロゲームをいくつも持ってきた。スイッチはとっくに普及していた。物珍しいレトロゲーム機はみんなの注目を集めた。「父さんのコレクションなんだよ、知ってるけど実物見たことないだろ?勝手に触ったらキレられるけど持ってきた」放課後みんなで田辺くんの家に寄ってレトロゲームで遊んだ。ポーキーがあらゆるゲームで勝った。田辺くんはあらゆるゲームで負けた。負けて退屈だったのでひとりスイッチで遊んでいると、レトロゲームに飽きたポーキーにスイッチを奪われた。「お前のこれめっちゃレベル低いじゃん」そう言ってポーキーは田辺くんのふくらはぎを蹴った。  ある日ポーキーたちは帰り道でじゃんけんをした。電柱二本ごとに一回、負けた一人が全員分のランドセルを持つルールだった。ポーキーは最初に負けた。「重い重い、これやばいって」みんな笑った。二回目は勝った。肩が軽いというのは素晴らしく良い気分だった。三回目、彼は負けた。田辺くんのランドセルが他より重いことに気が付いた。「お前のだけなんか重たいんだよ」そう言ってポーキーは田辺くんのランドセルを放り投げた。用水路に落ちる寸前だった。「惜しいっ」そう言ってポーキーは田辺くんを肘で突いた。  家に帰ると、いつものように冷蔵庫からエクレアとシュークリームを取り出して食べた。ほどなくして母親が買い物から帰ってきた。「あら、おかえり。ママより早いのね。おやつ買ってきたけど食べる?」母親が差し出したのはエクレアとシュークリームだったが、ポーキーはかまわずそれも食べた。「ちょっと、冷蔵庫に入ってたのも食べてるじゃない。なんで言わないのよ。そんなに食べてたらブタになるわよ」そう言って母親は自室に引っ込んだ。  夜、ポーキーが寝ているところに父親がやって来て明かりを点けた。ポーキーはまぶしくて目が開けられなかった。「お前、俺のレトロゲー触った?」ポーキーはまだ半分寝ぼけていたが、覚醒したところから血の気が引いて行った。「バレないと思って、またやったなお前。学校持ってったりしてないよな」ポーキーは肩を掴まれた。やっと光に慣れてきた。「おしおきだ、ほら」父親はポーキーの目の前でスイッチを叩き壊した。両側を大きな手で握り、裏側から太い膝を突き立て二つに折った。ポーキーは驚いてぐずぐずと泣き出した。「泣くな! お前が悪いんだから」そう言って父親は出て行った。母親が部屋を覗き、「早く寝なさい」と言って電気を消して行った。  暗い部屋の中、ポーキーは手探りでティッシュを掴み鼻をかんだ。落ち着いてから、少し耳をすましてみた。「ちょっとやりすぎたな」とか「あそこまでしなくても、かわいそうじゃない」という声を期待してみたが、しんと静かだった。窓の外のなにやらわからない夜の音だけが大きく聞こえた。今度は暗闇に目が慣れてきて、カーテンの隙間から差し込む月明り(と外灯の光が混ざったもの)によって、部屋はけっこう明るく感じた。破壊されたスイッチは机の上に置き放してあった。彼は悲しいやら悔しいやら、あるいはみじめな気持ちになってまたも涙ぐんでしまったが、今度はしっかりとティッシュを箱ごとぶん掴み、大きく鼻をかんで、すべてを床に放り投げて寝た。彼はすぐに深く眠った。  翌朝、彼はいつものように登校し、隣の席の熊汁サイコにわざと背を向けながら、彼女に聞こえるように大きな声で仲間と喋った。おもしろいこともたくさん言った。しかし一度も彼女の方を見なかった。なぜなら、ポーキーはサイコのことが好きだった。それを誰にも隠していた。そして熊汁サイコから告白される日のことをいつも夢想していた。いま席が隣り合っていることも、彼の背を押してくれる運命的な幸福だった。  そのとき、田辺くんが二人に関するある運命的な事実に気付いて甲高い声を上げた。その日ポーキーが着てきたTシャツと、サイコの着ているTシャツが、まったく同じものだったのだ。それは『マザー2』という古いゲームのグッズだった。  田辺くんは、その事実が彼にまったくなんの利益ももたらさないにも関わらず、世紀の大発見をしたという風に得意げになって喜び狂っていた。その他の周囲の反応は緩やかな波のようなものだった。熊汁サイコは普段から服装に無頓着な方だったし、『マザー2』を知っている者もいなかった。それでも一瞬の注目を浴びた瞬間、二人は目を合わせ、熊汁サイコは微笑んだ。ポーキーはくるりと背を向け、「父さんが昔買ったらしい。ま、よくあるグッズだよ。古すぎてお前ら知らないだろ」などと言った。内心ドキドキしていた。  それからポーキーは虎視眈々と二人きりになれるタイミングを狙った。廊下でサイコの背を見かけては早足で追い抜かしてみたり、昼休憩に教室に残り彼女の視界のぎりぎり端でひとり佇んでみたり、そして放課後早々と帰るサイコに合わせてみんなを置いて急いで出て行ったところ、ついにチャンスが訪れた。  「『マザー2』知ってるの?」彼女は言った。  その日は良く晴れた青空に雲一つなく、太陽が容赦なく子供たちの肌を焼いていた。彼女は書道半紙のように薄いカーディガンを羽織っていた。ポーキーは小石を蹴って車道に転がした。彼は汗だくだった。 「まあ、名前くらいは? 有名じゃん。さすがにまったく知らないもののTシャツは着ないでしょ。熊汁は? なんで着てるの? 田辺がさ、俺らの服が被っただけではしゃいでて、そっちの方が恥ずかしかったわ」 「わたしは別に恥ずかしくないよ」サイコは小石を蹴って側溝に落とした。サイコも石とか蹴るんだ、とポーキーは思った。 「いや、俺も別に恥ずかしくないけど、でもけっこうすごい偶然ではあるよな」 「わたしは好きで買ってもらったの。『マザー2』、実際にやったことはないけど。実況動画とかで見て、すごく好きになったんだ」サイコは言った。サイコもゲーム実況とか見るんだ、とポーキーは思った。 「わたし、ポーキーって『マザー2』から来てるんだと思ってたよ。これもすごい偶然なんだね」 「どういうことだよ」ポーキーは彼女が珍しくよく喋っていることに気が付いていた。それが自分に対する関心、さらに言えば好意によるものだと彼は想像して気持ちよくなった。恍惚は太陽にも焼かれなかった。 「ううん、なんでもない。いつか自分でやってみたいな。それじゃあね」そう言って彼女はあっさりと別れ道に消えて行った。  ポーキーはそれから数十秒の間、熊汁サイコと別れた瞬間のその位置に立ち止まって、これからのことに思いを馳せた。古いゲームならうちにある。身体がうずき、力がみなぎる感覚があった。彼はその場から急に十メートルほどダッシュしてピタッと止まり、ふうと声に出した。なんだってしてやれるぞ、とポーキーは思った。  熊汁サイコが念願の『マザー2』を実際にプレイすることができたのは、それから一ヵ月ほど後のことだった。その間ポーキーは、父親のゲームのコレクション(新しく買ってもらったスイッチは用無し!)やら、母親の動向(来週に歯医者、再来週にはアウトレットモールがオープン!)やらに目を光らせていた。そしてすべてのチャンスが整ったその日、彼は彼女を帰り道で待ち伏せて遊びに誘った。彼は彼女に習い事などの用事がないことを調べていたし、何分にどの交差点を通るかも把握していた。彼女が友達を自分の家に上げたがらないことも知っていた。彼女と仲の良い女子が最近は塾に直行することも、彼女がいっぱいお茶を飲むことも知っていた。ポーキーはうわずった声で誘った。  彼女は「いいよ」と言った。白いノースリーブのブラウスを着ていた。  ふたりで家にあがり、リビングのソファに彼女を座らせた。ポーキーは冷蔵庫からルイボスティーを大きなグラスに注ぎ、エクレアを一瞬迷った後で盆にのせ、彼女の元へ運んだ。「ゆっくりしててよ」とだけ言って彼はゲーム機を取りに二階へ上がった。サイコはお茶に口を付けたが、渋い顔をしてグラスを置き、そのままにしておいた。  ポーキーが戻ってきてガチャガチャと準備をしている間、サイコはじっと座って彼の丸まった背中を見ていた。彼が振り向いて「できたよ」と言うと、彼女は頷いた。  昔風の電子音の音楽とドット絵の映像でオープニングが流れ、『マザー2』が始まった。ポーキーはサイコにコントローラーを持たせ、一人分を空けて隣に座った。教室での位置とは逆だった。実のところ、彼自身もこのゲームの内容が楽しみだった。サイコがそうしたように、動画などを見て予習してしまおうかと何度も思った。父親にバレるので、実物には今日まで触れなかった。我慢して我慢して、初見の楽しみを彼女に捧げようとしている。  熊汁サイコにとって、その瞬間は夢のようだった。しかし、それは幸福が余りあるという意味ではなく、現実味に欠けるというただ一点において。言われるがままついてきて、彼の家、大きな家だ、大きなテレビ、ゲーム機のコードがピンと張っている、実物をプレイできることは嬉しかった、よく知っている映像、湿布のような匂いのするお茶、彼の服はよく見ればあのときの。まさに夢のようで、とりとめがなかった。画面は進んだ。  「初めに名前を入力するタイプか。こいつらが仲間になるのか。全員分の名前考えないといけないな、どうしようか。ヒロインっぽい女の子を【くまじゅう】にしよう。俺は主人公がいいな。で、メガネのこいつが【タナベ】」 「ねえ」 ポーキーはいつの間にかサイコのコントローラーを奪っていた。 「もしかして、今日お母さんいない? お母さんに、わたしが来ること言ってない? もしかして、わたし、いないほうがいいんじゃないかな。お母さんに怒られちゃうよ」 「いや、大丈夫だけど、全然。別に、母さんが怒っても、なんにもなんないし。人が来てるとき怒らないし」 「わたし早めに帰るよ。続きはまた今度にしよう。約束」そう言ってサイコは立ち上がった。 「え?まじで? いやでも、そうか、うん。え、うん。そうだよな、ハハ」  ポーキーは立ち上がって、彼女を玄関先まで見送った。その間、あのテレビが何インチだとか昔は犬を飼っていただとか、短い時間で喋り続け、サイコが去って扉が閉まったその瞬間にがくりと肩を落とした。彼女が最後に残した「約束」という響きは悪いものではなかった。しかし彼は、自分の努力が彼女の行動に与える影響の小ささを痛感していた。彼女は彼の思い通りにはならない。亭主関白の、その逆だ。ママが帰ってくるまでに部屋を元に戻さないと。ポーキーはソファの、彼女が座っていた位置に腰を下ろした。  熊汁サイコはいつでも正しい。そして良い匂いがする。 その夜、ポーキーは父親に新しいスイッチを破壊され、頬を二発殴られた。  スイッチは携帯ゲーム機としてだけではなく、テレビにつないで遊べる据え置きハードとして開発された。これまでのゲーム機のシステムを踏襲しつつも、オンライン機能の拡充などで新しさを感じさせるデザインが早くから広いユーザー層に受け入れられ、売り上げは記録的な伸び率を誇っていた。ソフトのラインナップもそうそうたるもので、人気タイトルのシリーズ最新作に、旧作のリメイクから話題の完全新作まで揃い踏みで隙が無い。テレビCMには好感度絶好調のタレントばかりが起用された。  結果、ポーキーのクラスの男子全員(ポーキーを除く)、女子のほとんどがスイッチを所有することとなった。  そして今度は、過去の名作の移植版が配布されるサービスが開始された。オンライン会員加入者(これはゲームをオンラインで遊ぶために必要な資格で、ほとんど全員が問答無用で加入するもの)は、過去のハードで人気を博した名作ゲームの「スイッチ版」を無料でダウンロードすることができる。第一弾の作品ラインナップには、『マザー2』が含まれていた。  結果、誰から始まったものか、とにかくポーキーのクラスでは空前の『マザー2』ブームが巻き起こっていた。  熊汁サイコは窓際の席でひとり本を読みながら、男子たちのお喋りにほんの少しの注意を向けた。彼らはゲームの進行度で競っていた。田辺くんが早起きして登校前に戦ったボスの攻略について話していた。まだ中盤かな、と熊汁サイコは思った。彼らにこの後襲い掛かる強敵や災難の数々に思いを馳せた。そのとき、ポーキーがあらわれた。  ポーキーはいま、ある種、注目の的だった。ひとつには、あの日、彼の家で「約束」を交わしたあの日以降、彼は熊汁サイコに対する関心を隠さなくなっていた。もちろん、その前から彼の態度は露骨で嫌でも目について、彼女の周りでささやかな噂程度にはなっていた。しかしいまは、毎日彼女に話しかける機会を絶えず伺い、なにかとあると彼女の役に立とうとすることで、彼の好意は公然となっていた。一部の女子には顰蹙を買い、他の者にはからかい、冷やかし、好奇の餌とされた。当人はそれらの悪意に調子よく返してみせることを得意としていた。「うるせーよ、ホントはうらやましいんだろ。俺をいじるなよ」  そしてもうひとつの数奇な事実。『マザー2』に登場する「ポーキー」という名の少年の存在があった。「ポーキー」は主人公の隣家に住む金持ちの太った息子で、意地悪な乱暴者の、ライバルにも満たない憎まれ役であった。クラスの誰もが「ポーキー」にポーキーの姿を重ねた。 「くらえポーキー! PKファイアー!」 「おい、やめろって、うわーっ……ってまじでやめて、やめてってば」  みんなのゲームが進むにつれて、ポーキーが熊汁サイコに絡むことは少なくなっていった。ふたつのパラメータに何の関係があるのか、彼女にはわからなかったが、このまま「約束」もなかったことになりそうだと彼女は思った。ポーキーがあのTシャツを着てくることももはやなかった。もう半袖の季節ではない。  ある帰り道、ポーキーたち男子はじゃんけんをしていた。電柱二本ごとに一回、おなじみのルールだった。最初にポーキーが負けた。「まあポーキーだからな」二回目もポーキーが負けた。「はははは、さすがポーキー」ポーキーは野次を受け、みんなに負けないくらい大きな声で笑ってみせた。しかし二回連続の荷物持ちは思ったよりも苦しかった。「重すぎるわ!」そう言ってみんなのランドセルを地面に放り出すと、みんなから思い切り蹴られた。三回目のじゃんけんで田辺くんが負けた。貧弱な田辺くんは苦労して全員分のランドセルを担いだ。そんな田辺くんが突然、またもや、歴史的瞬間に立ち会ったかのように甲高い声で騒ぎ出した。「ポーキーのランドセルだけめっちゃ軽い!」貧弱な田辺くんにはわずかな重さの違いが異常に大きく感じられたのだ。それはだいたい携帯ゲーム機一台分の重さだった。「貸して」「たしかに軽い」「いや微妙すぎるだろ」ポーキーのランドセルはあちらこちらと手渡され、やがてバスケットボールのように空中を行き交い始めた。  ポーキーはなんとか自分の荷物を取り返そうと、右へ左へ飛び回った。少年たちの無邪気な遊びは、ポーキーを避けてパスを回すゲームへと発展していった。業を煮やしたポーキーは、ランドセルが田辺くんに回ってきたところを狙って激しく動き、彼を突き飛ばした。ランドセルとともに後ろに転んだ田辺くんは、泣き笑いのようなしかめ面で、「ポーキー!」と叫ぶと同時に、座ったまま、ランドセルを力いっぱい真後ろに放り投げた。黒い鞄はゆっくりと回転しながら高い放物線を描き、ヘドロが浮かぶ用水路へと落下した。みんなは散り散りに何かを言いながら走り去っていった。田辺くんも、言葉にならない奇妙な音を発しながら不格好に逃げていった。  ひとり置き去りにされたポーキーは、フェンスに手をかけて水路を見下ろした。ランドセルは仰向けにひっくり返って、死んだ昆虫のようなみっともない姿を晒していた。それを見つめるポーキーの表情は、彼が十二年余りの小さな人生で初めて見せる、まったくなんの感情も表さない【無】の顔だった。しかしその目、川の中の死体に焦点を合わせる二つの瞳孔の微かな揺れ動きには、彼とこの世界とを繋ぎとめようとする意志のようなものが宿っていた。それは宿命と呼ばれる光だった。またの名を約束といった。それから彼は急な動作で走り出し、すぐ先の角を曲がって消えた。結局その場には、ちろちろと流れる水に晒されるみじめなランドセルだけが残された。  熊汁サイコは父親からパーフェクトな愛情を受けて育った。慈愛は、母親を亡くした代償として、彼から彼女へ与えられる唯一のプレゼントだった。優しい雨を浴びて育った彼女は、白百合のようにまっすぐと美しく成長した。彼女は「本当の強さ」というものが「弱さ」や「癒えない傷」と表裏一体にあることを知っていた。だから彼女は、強いものを賛美し弱いものを虐げることをしなかった。その逆もまたしなかった。口をつぐむことが慰めになる場合を彼女は知り過ぎていた。口をつぐむことによってこそ彼女は、周りの人間の弱さや不完全さを受け入れることができた。かつて父親が、最も悲しい瞬間をただただ黙って乗り越えたように。  彼女の日課は、放課後家に帰ってから、少なくない家事を順番に行うことだった。父親が仕事から帰るまでに夕食を準備できることが彼女のゴールだった。彼女が自主的に始めたことだった。最近はちゃんとした料理も作れるようになってきて、ささやかな楽しみでもあった。わがままもぜいたくも言わなかった。欲しいものをねだったことさえなかった。  インターホンが鳴って、カーテンの隙間から外を覗いてみると、立っているのは息も絶え絶えのポーキーだった。彼女はドアを開けた。 「はあ、これ」顔を合わせるなりポーキーは右手に掴んだものを差し出した。「約束」彼が持っているのは『マザー2』の古いカセットだった。 「たぶん、うちではもう遊べないから、これだけでもあげようと思ってさ。熊汁はスイッチ持ってないだろ? だから、これ。あげる。ホントは全部持ってきてあげたかったんだけどさ、さすがにムリだった。ごめんけどカセットだけ」 熊汁サイコは黙ってカセットを手に取った。手汗で湿っていた。 「熊汁の家、知ってるのキモいだろ? ごめん。ホントにごめん。知っててごめん。俺、熊汁のこと好きなんだ。こんなデブがごめん、ホントに。でも、知ってるか? 男子がみんな、こっそりヒロインの名前を【サイコ】とか【くまじゅう】にしてるって。全員だぞ? すげーよな。熊汁いまモテ期だぞ。ハハ。それで俺が言いたいのは、俺だったら違って、絶対あいつらみたいなことはしないってことなんだ。俺だったら、【くまじゅう】は絶対、主人公の名前にする。俺はポーキーだから、倒されちゃうけどな。でも、俺がポーキーじゃなくっても、熊汁は絶対、主人公だよ。あいつらまじでセンスないんだ」 ポーキーは熊汁サイコの顔を見ずに滔々と喋り続けた。泣きながら笑いながら、とにかく喋っていた。熊汁サイコは大事なポイントを聞き逃さないかと緊張した。開いたドアを後ろ手に閉めた。 「その、とにかく熊汁に俺は伝えなきゃいけないと思ったんだ。ホントのところを。なんで伝えなきゃいけないかっていうのが、それは俺も今日、さっきわかったんだけどさ、そう! さっきわかったんだよ。気付いたんだよ。俺ってダメな方の人間なんだよ。全人類を真ん中でスパッと割ったら、絶対下半分にいる人間なんだよ。そういうのって、変えられないんだよ。それがわかった。俺はポーキーなんだよ。ホントは、心の中では、もっと前から気付いてたんだよ。そんなやつが熊汁のこと好きでごめん。今日言いに来たホントのところっていうのは、実際、熊汁のことがうらやましいって、俺が思ってるってことなんだ。ホントは好きなんじゃなくて、うらやましいだけなのかもしれない。でもセンスない奴らと熊汁が仲良かったらすげー嫌だと思うんだ。熊汁には俺を見ていて欲しい。やっぱり好きかも。ごめんけど。キモくてごめんけど」  熊汁サイコはカセットを両手でしっかりと握りしめていた。彼の支離滅裂な告白に、返答の第一声が思いつかなかった。しかし彼女に彼を拒絶する気持ちはなかった。そして彼女には直感があった。次に彼が何か喋り出す前に、彼女が何か、何か言わなければ、このゲームは終わってしまう。彼が終わってしまう。『君こそが彼を救う。君しかいない。君だけなんだ!』 「岸くん、」彼女は言った。「ポーキーなんてただのニックネームだよ」  熊汁サイコは目の前の少年のことを思いやった。 「岸くんもみんなも、誰だって知ってることだけど、『熊汁』だって嘘の名前だよ。『熊汁サイコ』って呼んでもらうように、わたしが自分ででっちあげた変な名前。学校以外では普通の名前だよ。どうしてそんなことを始めたのか、あのときわたしは誰にも教えてあげなかったけど、いいよ。岸くんにだけ」  次の日からポーキーと呼ばれる少年は学校に来なくなった。顔にひどい怪我を負ったらしい。彼の家庭について、悪い噂が広まった。しかしどうやら新しいスイッチを買い与えられたようだ(三台目!)。熊汁サイコは父親にねだって買ってもらった大事なスイッチで、彼とオンライン上の交流を続けている。
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