足利尊氏(高氏)という男

1/3
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ

足利尊氏(高氏)という男

 建武二年(一三三五)七月、信濃で北条高時の遺児時行が叛乱を起こした。中先代の乱である。  後醍醐天皇による新政は始まってまだ二年ばかりで、その政権は磐石とは言えなかった。  時行ら叛乱軍は旧幕府の故地鎌倉を目指した。  当時の鎌倉には足利尊氏の実弟直義がいたが、この軍勢を防ぎ切れず、三河まで退避した。  建武新政の立役者の一人である尊氏は、朝廷にこの叛乱軍の討伐と征夷大将軍の地位を願い出た。  尊氏に武家政権開府の気持ちを見ていた後醍醐天皇は、討伐の許可も将軍の位を与えなかった。  というのと、尊氏は朝廷政権にあまり積極的に参加していなかったからである。  焦る尊氏は、帝の許可無く兵を上げ、勝手に鎌倉へ進軍した。  三河で弟直義らと合流した尊氏率いる足利軍は、同年八月に遠州橋本(湖西市新居)、懸川、小夜中山(掛川市)で時行軍を退け、興津(清見ヶ関)、小田原と叛乱軍を追い詰め、相模川の戦いで時行を撃破した。  そして、遂に尊氏は鎌倉を奪回した。  この時、小夜中山の戦いで活躍したのが、義忠ら今川氏の祖、今川頼国である。彼は敵将名越邦時を討ち取る大功を立てた。  足利尊氏(高氏)とはいかなる人物だったのか。  帝は、勝った尊氏に向けて、帰京を促したが、弟直義からの忠告もあり、彼はこれに従わなかった。さらには戦で功績を挙げた御家人に、独自に恩賞を与え始めた。  この行動を尊氏の謀反と見た帝は、同年十一月、新田義貞に軍勢を授け、朝敵となった鎌倉の尊氏討伐に向かわせた。奥州からは北畠顕家らも南下を開始した。挟まれる形になった。  この討伐軍に対し、鎌倉からは西に向かい、新田軍に対抗した足利軍は、三河矢作、遠州匂坂で連敗した。  それもそのはずである。大将である尊氏自身が帝から『朝敵』と目されたことに衝撃を受け、鎌倉浄光明寺に籠り、出家して謹慎していたのだ。大将不在では軍の士気は上がらない。  同年十二月、駿河手越河原で新田軍と対した大将代理の直義が率いる足利軍は、また大敗した。  勢いに乗る新田義貞だったが、鎌倉の直前、箱根竹之下でようやく出馬した尊氏が軍を指揮する大将になり、出馬した。そして、この足利軍に新田ら官軍は敗れた。  よく考えると奇妙な話だった。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!